第1話 甘い夢を魅る 3

****

 五枚の一万円札を厚いコートのポケットに入れて、私も帰途きとへ着く。さっきまで自分がしていたことに赤面する気持ちはとっくに消え果てた。いちいち構っていられない。そんな思考には。

 自宅前のコンビニ。売れ残り低価格高カロリーの弁当を買う。貧者はむしろ太るというけれど、それは確かだ。

 私も妹も、もしも毎日食事をしていたなら今頃とっくに肥満体だろう。

 アパートの角部屋。玄関の鍵を開ける。暗い部屋の中、生活感はほぼ皆無だ。必要最低限のものしか置いていないから。


「ただいま」


 呟くように言って部屋に入る。

 豆電球の居間では、いち早く妹が眠りについていた。

 時代遅れのちゃぶ台の上に、「先に寝ます。ごめんなさい」という書置きがあった。


理梨りり……今日はご飯食べなかったの……?」


 薄い掛布団の上、中学校のジャージを着て眠る妹の肩をでながら私は言った。もちろん応答はない。

 瞳に隈の浮いた妹は、やらなくてもいいと言ったのに、スーパーマーケットで働いている。中学生の大半が部活にいそしむ放課後をついやして。


「理梨……」

「んん……? あ、お姉。お帰り」


 おかっぱ頭、瞳をこすり、妹は夢の中から戻ってきた。


「ただいま。ごめん。起こしちゃって」

「ううん。ちょっと横になってただけだからだいじょぶ」

「ほんとに? 体調悪いとか、そういうんじゃない?」


 理梨は昔から身体が強い方ではない。季節の変わり目にはほぼ風邪かぜを引いているくらいだ。まだ冬は少し先だけれど、心配になる。


「だいじょぶだって。ちゃんと早寝早起きしてるし」

「そう……」

 すると、妹は急に表情を暗くして私に抱き着いてきた。

「理梨?」

 何も言わないまま、妹は泣いていた。


 本当に突然だけれど、これは今が初めてではない。両親が死んでから、理梨は時折こうして私の中で泣いた。普段はそんなそぶり見せないのに、発作を起こすように、泣くのだ。顔が見えないようにか、私の胸に顔をうずめて。

 えを訴える空腹の間抜けな音すら悲愴曲ひそうきょくのように聴こえた。


*****

「昔、秘密基地作ったの覚えてる?」

 食後、薄い布団の上、枕を並べて眠る中、私は言った。

「あっ、覚えてる覚えてる。神社のでしょ? 懐かしい」

 さっきまでの涙が嘘のように明るい声音で理梨は言った。

 月灯りがふんわりとさしこむ部屋の中は、暖房もないけれどあたたかかった。いつものホテルの部屋が、暖房が利いているのにやけに冷えて感じるのとは対照的だった。


「楽しかったなあ……」

 あの頃は、と言いかけたのだろうか。いや、穿うがちすぎか。それに、もしそれを言ったからとてたしなめるつもりもない。

 同じ布団の中、懐古かいこ眼差まなざしを浮かべて微笑む理梨。


「ね。ほんとに」

 やわらかなその髪の毛を撫でてやると、妹は私の方に身体を寄せ、猫のようにじゃれついてきた。

 私がどうやってお金を作り出しているか知ったら、こんなスキンシップも消えるのだろうか。

 理梨が欠伸あくびをもらす。そのうなじを見つめるとき、本来、中学生という小さな身体にかかるはずのない重荷を背負って生きる妹の不憫ふびんさを、つい考えてしまう。


「理梨」

「ん」

「あんまり、無理しないでよ。まだ、中学生なんだから。辛いことは私に押し付けていいんだからね」

「無理……しないと、寝れないからさ」

「え?」

「寝れないと、夢も見れないから」

「理梨?」

 妹は、まだ残る幼さの、いや純粋じゅんすいさのせいか。簡単そうで、難しいことを言う。

「それに、あたしたち、二人で幸せになるんでしょ。お姉だけにまかせっきりじゃおかしいじゃん」

 おかしくない、と言ってやれば良かったのだろう。真に妹の青春を守るのであれば。

 けれど、逡巡している間に理梨は眠りに落ちてしまった。


「理梨……」

 いろんな感覚が麻痺まひしているのは自覚している。

 同性とはいえ、身体を重ねた後に何の赤面もなく外を歩けることや妹と話せること。

 見知らぬ人に裸体らたいを見せれること。

 嘘を吐くのに、躊躇ためらいがなくなったこと。

 普通に考えればすべて異常なことだ。

 

 身体を預けるように背を向けて眠る理梨の鼓動を、胸に感じる。あの秘密基地で寝ていた時と同じだ。

 お互い今より小さな身体で、けれど今と同じように私の胸に背を預けて理梨は眠っていたんだ。


 思えば私の異常性の萌芽ほうがは、その時すでにあったのかもしれない。

 何の予兆もなく、眠る理梨の唇を奪った、あのときから既にもう。


 私は、明らかに理梨の隣にいるべき人間ではない。姉としてどころか、家族の風上かざかみにも置けないような人間なのだから。


「ごめんね……。理梨……」


 ああ、また一筋、涙。もはや取り返しのつかない後悔のやり場は、どこにある?   

 いや、ない。あるはずがない。

 思考がまとまりを失い始めた。瞳を閉じる。

 そして朝が来ればまた、私はきっとこの懊悩おうのうを忘れて歩き出すのだ。

 愚かだと思う。けれど、仕方がないと割り切るしかないんだ。


 理梨の身体に触れないよう、背を向けた私は広く距離を取った。掛け布団からはみ出した左半身を、冷たい空気が襲った。



******

「バイバイ、お姉」


 制服を着、弾ける笑顔を見せて家を出る理梨を私は見送る。

「今日は友達の家行くから、夜ごはん代浮くよ」

「余計なこと言わない。ほら遅刻するよ」

「うん。行ってきまーす」

「行ってらっしゃい」

 このやり取りだけを切り取れば何の違和感もないのにな、と私は苦笑した。けれど、その一瞬に立ち止まれる余裕は、今の私たちにはない。


 一人、部屋に戻った私は、今日の依頼人の情報を確認する。こんなふうに切り替えられるところは長所だといっていいのだろうか。

 歯磨きをしながら窓を開け、午後までの短い一日を思った。

 

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