第5話 後悔の朝
「あー……」
執務室のソファで、傷みの激しい天井を見てからレイラは体を起こす。
昨日は結局、ソファで酒を飲んでそのまま寝てしまったらしい。いつものことである。戦場の天幕の中ならば決して気を抜かないが、このように砦に戻って戦勝の美酒を飲んだ後は、大抵そのまま執務室で寝てしまうのだ。執務室というより、むしろ寝室である。寝台を置いてもいいか、とテレジアに相談したら、頼むからやめてくれと止められた。
加えて、レイラの酒癖が悪いことは、銀狼騎士団の全員が知っている。
事実、酒を飲んで泣き喚いて暴れ回り、数人に怪我を負わせたこともあるのだ。現在のところ死者は出ていないが、それで怪我をするのは嫌だ、と全員が思っているために、レイラは酒を飲むときには一人でいること、という掟ができてしまった。
だからこそ、こうやって頭痛の残る頭を押さえながら、執務室で起き上がるのはいつものことである。
レイラは強い。恐らく、大陸最強と呼んでも誰も否定はしないだろう。自他共に認める最強であり、大陸史に残る英雄だ、と言われてもその通りだと頷ける。
だが、その強さは酒に対する内臓の強さにまでは直結しておらず、すぐに酔い潰れてしまう。加えて、激しい頭痛に吐き気という完全な二日酔いの症状を伴っているのだから尚更だ。
「あー、くそぉ……」
レイラはひとまず、部屋の端に備え付けられた水差しから杯に水を入れ、一気に呷った。
二日酔いの一番の薬は、時間と水である。げっふっ、と酒臭い息と共に座り込み、目を閉じた。
このままもう一度寝るのが一番なのだが、既に日は高く昇っている。昨日の夕方から寝こけていたためだろう。眠気は全くない。その代わりに、激しい不快感だけがある。
そして――いつもならば、このあたりでやってくるのだ。
テレジアが。
「おはようございまーっす、レイラさんー!」
「……ああ」
「また飲んだんすか。あんまり深酒は良くないっすよー」
「……うっさい」
そして、朝から無駄に元気なテレジアは、二日酔いの頭に響くのである。
ある意味レイラの覚醒を促してくれてもいるため、ありがたい話であるのだが、ことこの頭痛が激しいときに来られてはもう迷惑だとしか言いようがない。
もっとも、そんなテレジアも仕事で来ているのだから、強くは言えないが。
「こっち、将軍の承認が必要な書類っす。アタシで承認できるとこはやっときましたんで、確認だけお願いします」
「……ああ」
「他にも細々した案件はあったっすけど、全部まとめて承認しといたっす」
「ん……ありがとよ」
恐らく、本来の量に比べれば一割にも満たないであろう、薄い紙束を机の上に置くテレジア。
他にも将軍の承認が必要な書類は多いのだが、そのあたりは全部やってくれるのだ。そして最後にレイラが全部確認をすれば終わり、というところまで進めてくれている。
本当に出来る副官に、感謝しなければならないのだけれど。
レイラは鈍く、重い体を引きずりながら、執務机の椅子に座る。紙束を手に取り、文字を見ようとするが、吐き気の方が勝る。
結果、とりあえず斜め読みで流しながら、確認を続けるのである。本当に確認と呼べるのだろうか。
「あー、テレジア……」
「はい?」
「水くれ……」
「はいはい」
水差しから水を注ぎ、その杯をレイラの近くに置いてくれるテレジア。
そして、くいっ、と一気に呷りながらも、やはり眉根を寄せたままのレイラに、大きく溜息を吐いた。
「まーた、昨夜は随分飲んだみたいっすねー」
「……んなこと、ねぇよ」
「ああ、そうだ」
「あん?」
「アントンさん、昨日の夜に帝都に帰りましたんで」
「んなぁっ!?」
びりぃっ、と激しい音と共に、書類が破れる。丁度そのとき、レイラが確認していたものが。
思わぬ言葉に驚き、力を込めすぎてしまった。
「な、なにやってるんすかー!」
「あ……わ、悪い」
「うわぁ! しかも割とめんどくさかった書類っすよこれ! やり直しじゃないっすか!」
「いや……その……すまん」
ぷりぷりと怒るテレジアに破れた書類を渡して、小さく嘆息する。
どうしてこんな風に、一人の男がどうした、というだけで心が乱されなければならないのだろう。
そんなレイラの様子を見て、テレジアが首を傾げた。
「あのー、レイラさん」
「……んだよ」
「『赤虎将』のグレーディア将軍いるじゃないですか」
「あいつがどうした」
テレジアの挙げた名前に、レイラは書類から目を逸らすことなくそう返す。
レイラと同じ八大将軍の一人、『赤虎将』グレーディア・ロムルスは、いつも会うたびレイラへ向けて結婚しよう、とほざいてくる色ボケである。レイラの次に強い、と評判の男であり、また知略にも優れる男であるため、レイラさえいなければ最優の将軍だと称されていただろう。
もっとも、そんなグレーディアの色ボケを知っているがゆえに、彼を真っ当に評価することができない。
最近は結婚しよう、という言葉よりも、我らが女帝!と褒め称える言葉の方が多いし。どうしてこうなった。
詳しくは知らないが、有志と共に『レイラ様の後ろに続く会』などという謎の組織を立ち上げている、とさえ噂で聞く。
「どうやら、帝都に恋人がいるらしいんすよ」
「そうか」
「どう思うっすか?」
「別に」
グレーディアに恋人がいようがいまいが、どうでもいい。
彼の近況など聞くだけ無駄であるし、むしろ恋人がいるのなら、レイラに向けて呆けたことをほざいて来なくなるのでむしろ嬉しい。
「ふーむ……」
「何だよ、さっきから」
「アントンさん、帝都に恋人がいるらしいんすよ」
「んだとぉっ!?」
思わぬテレジアの声に、そう腰を浮かせながら力を込めてしまう。
なんとか破る寸前で踏みとどまった書類を握りしめながら、思わずレイラは身を乗り出した。
「いつ聞いたんだ!? 昨日か!?」
「嘘っす」
「はぁっ!?」
意味の分からないテレジアの言葉に、そう素っ頓狂な声を出すことしかできない。
何故、いきなりそんな嘘を吐いたというのか。
「レイラさん」
「な、んだよ……」
テレジアが立ち上がり、そうレイラに詰め寄る。
物凄くいい笑顔で。もう嬉しそうに楽しそうに、玩具を見つけた子供のような笑顔で。
「アントンさんに惚れてるっすね?」
「て、めぇっ!」
「おっと、殴るのはなしっす! 今アタシを殴ったら困るのはレイラさんっす!」
「――っ!」
拳を、どうにか踏み止まらせる。
テレジアの言葉に込められた意味はさっぱり分からない。今テレジアを殴って、レイラの何が困るというのか。
だが、そんなレイラへ向けて、テレジアは笑う。
「レイラさん、アタシは結婚してるっす」
「あ? んなこと知ってるよ」
「で、レイラさんは未婚っす。あと、今まで恋人がいたことも一度もないっすよね?」
「……ないよ」
事実、一度もない。
そもそも男女でそういう関係になる、ということを嘲笑してすらいたのだ。恋人がいた歴史などあるわけがない。
だが、こんな風に戸惑うくらいなら、一度くらい経験しておけば良かった、と強く後悔しているのだが。
「つまり、レイラさんは経験不足っす」
「うるさい。あたしにケンカ売ってんのか」
「レイラさんにケンカ売れる奴は、多分帝国全部探してもいませんよ」
「話を逸らすんじゃねぇ」
あー、もう、と髪を掻く。
結局テレジアの言いたいことがよく分からず、混乱するしかできないのだ。
そこでテレジアが、ようやくこほん、と咳払いして。
「レイラさん、アタシに任せるっす」
「……何がだよ」
「アタシがレイラさんのために、アントンさんに惚れさせる女としての振る舞いを教えるっす!」
「……」
「そうっす! 女は男を惚れさせるもんっす! 告白はちゃんと男からするものっす! そのためにも、アントンさんがレイラさんのことを好きになるように、これから振る舞うっす! テレジアに全ておまかせっす!」
「……」
言っていることは分かる。
やるべきことも分かる。
何をすればいいのかも明確だ。
だというのに。
この、何故か上手くいきそうにない予感は、一体何なのだろう。
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