第149話
日が暮れ、闇に沈んだシャリエ公爵邸。
皆が寝静まった屋敷の中を移動する影があった。
忍ぶ足取りに気づく者はおらず、気配が消失している。
目的の部屋の扉に手をかける。
中で眠る乙女を目指して、ゆっくりと、闇を進む――。
「気がつかないと思ったら、大間違いですわよ!?」
部屋が空いた瞬間、中にいたルイーゼが怒声と椅子を投げる。重いはずの椅子はいとも簡単にポーンと弧を描き、侵入者に直撃した。
「ぐ、がッ!? ル、ルイーゼ! お兄ちゃんに対して、なんてことだ!」
「部屋へ侵入しようとする不届き者は始末するまでですわ。お兄様、ご覚悟を」
「ま、待つんだ。ルイーゼ。そんなものを振り回したら、お兄ちゃん死んじゃうぞ!?」
もう一つ椅子を持ち上げてやると、侵入者――兄アロイスが狼狽した。
昔からルイーゼ一筋のヤンデレ変態兄貴のくせに、威嚇すると丸くなるチキンなのである。
「わたくしの兄ともあろう方が不甲斐ないのですわ」
言いながらヒョイッと投げると、ビビッたアロイスは簡単に逃げ出してしまった。
逃げた先から、「わあああ! 暗いぞ!? み、見えなぁぁぁああ!?」とか言いながら、階段を転げ落ちる音まで聞こえる始末。往路は平気だったくせに。
「さて」
ルイーゼは息をついて、視線を移す。
「ハッ!」
寝台の上で、脇差を構える。そして、寝台のスプリングを利用して、真上に向けて華麗なジャンプをした。
「ひぎぃ!?」
脇差が天井に突き刺さると、屋根裏に潜んでいた何者かが声をあげる。
「わしの可愛いルイーゼちゃん、なんてものを……! いいかい、ルイーゼ。パパは鞭打ちの方が嬉しいぞ!」
「屋根裏目線で娘の部屋を覗く親など、親にあらず。サクッと首を貰い受けてやりますわよ!?」
天井板を外して、シャリエ公爵を引き摺り降ろしてやる。ルイーゼはそのまま笑顔で公爵を部屋からつまみ出した。
「人が寝ていると思って、どいつもこいつもこっそりと……」
呆れた父兄である。
「面倒な手間ですわ」
ルイーゼは手際よく、降ろしていた蜂蜜色の髪を纏め上げた。お気に入りの赤いリボンと髪飾り。ドレスも薔薇のような紅に袖を通す。
これから寝る格好とは思えない。
正装を終えると、ルイーゼは慣れた手つきで腰に革ベルトを巻き、脇差と木刀を差す。
「さて」
窓を開けると、あらかじめ用意しておいたロープが庭に向けて垂れ下がっていた。ルイーゼは迷わず窓枠に足をかけ、スルスルと暗い庭へと降りていく。
宝物庫で共鳴したエドワードの記憶。
そこから垣間見た情報で、居場所の見当がだいたいついていた。
「またエミール様に怒られるかもしれませんわね」
何故だか独り言を言いたくなった。普段はそんなに多くないはずなのに。
これから、ルイーゼがしようとしていることを知れば、エミールは怒るだろう。またポコポコ泣きながら殴られるかもしれない。
ルイーゼを心配するエミールの顔を思い出すと、不思議と罪悪感がわく。
「それは、きっと恋ですわね」
庭に降りたところで声が聞こえて、ルイーゼはドキリと身体を震わせた。
バルコニーから暗い庭を覗くシャリエ夫人の姿があった。
「お、お母様……!?」
「ルイーゼったら。真夜中に逢引きだなんて……オマセな年頃ですのね」
「あ、逢引き!?」
深夜に部屋から抜け出す様子を指しているのだろう。確かに、正装もしているし、逢引き……のようにも見えなくはない。見えなくはないが……!
だからと言って、「こらから、ちょっと夜襲に行ってきます」と説明するわけにもいかず、ルイーゼは慌てた。
「ほどほどにするのよ、ルイーゼ」
「え、ええっと……」
どうやら、見逃してくれるらしい。
戸惑うルイーゼに、シャリエ夫人はニッコリと笑った。
「わたくし、忠義の騎士様も好みだけれど、獅子王子様もとっても良いと思うのですわ。結婚したら、毎日王宮へ鑑賞に行く口実が出来ます」
シャリエ夫人はヴァネッサの小説を持ち上げながら、満面の笑みを浮かべた。どうやら、彼女も愛読者らしい。そういえば、元々ユーグのファンだったか。
「そ、そのようなこと……だいたい、わたくしはエミール様の教育係です。け、けけけ結婚など、考えていませんし!?」
逢引きだと思って尚且つ見逃してくれようとしているのに、ルイーゼはわざわざ反論したくて仕方がなかった。
「エミール様は軟弱すぎなのです。まだまだダメダメです。も、もっと、筋肉隆々の方がわたくしは好みですし……ライオンやゾウは、とてもカッコイイですが……最近は少し根性を見せてきたというか、がんばるようになりましたが……お部屋からも出られるし、人と話しても気絶しなくなりましたし、街を歩いても全然平気そうですけど……で、でも、まだ首狩り騎士怖いとかなんとか言いながら、泣き出すこともありますから軟弱です。そう、とにかく、よわっちくて、わたくしの好みではないのです。そうですわ! バッドエンドフラグを回避出来そうだからと言って、す、好きとか、恋とか、そ、そそそういう話には、な、なななならないのですわ!」
「ええ、それはきっと恋ですわね」
「そうです、恋で――違いますってば!?」
シャリエ夫人は嬉しそうに笑うと、ルイーゼを手招きした。彼女はルイーゼの頬に両手で触れると、バルコニーから身を乗り出して額に唇を落とす。
おやすみのキスみたいだ。何年振りだろう。
「ルイーゼは、すぐに人と距離を作りたがる子だから。安心していますわ」
「え」
そうでしたっけ? ルイーゼは首を傾げた。
思えば、婚約者候補や近づく男を全てバッドエンドフラグが立たないように選り好みしたり、同年代の女友達とは価値観が違って詰まらない思いをしたり……あまり意識していなかったし、寂しい思いなどしてこなかったので気がつかなかったが、言われてみればそうかもしれない。
途端に気恥ずかしくなって、ルイーゼは俯いてしまう。
「いってらっしゃい。夜更かしもほどほどにね。お父様には内緒にしておきますから」
「いえ、お父様なら、先ほど討伐しましたわ」
ルイーゼの頭を撫でて、シャリエ夫人は部屋の中へと戻っていく。
酷い勘違いをされたままだが、まあいいだろう。ルイーゼは気を取り直して、庭を横切って走る。
「思ったより支度に時間がかかっていたではないか」
裏門を出ると、セザールが馬に乗って待っていた。葉巻の紫煙が灯りの中で揺れている。
「……それっぽく準備してくださいませと言いましたが?」
「
「安心と信頼のセザール様ですわね」
ルイーゼと同じような色の真っ赤なドレスを摘まんで、セザールは開き直っている。そういえば、このオッサンの「正装」は女装だった。普段着で気軽に来いと伝えるべきだったか。
流石に単騎でエドワードのところに殴り込みに行くほどルイーゼも愚かではない。今の自分の戦力ぐらい弁えているつもりだ。
誰にも言わず、尚且つ、充分な戦力になり得る。セザールであれば信頼出来ると踏んでいた。
「そんなに、エミール殿下に知られたくないか」
馬の鐙に足をかけていると、セザールが呟いた。
「……これは、わたくしの問題ですから。エミール様に危ない思いをさせないためですわ」
「変わっていないな」
前世のルイーゼ――セシリアは一人で戦うことを選んだ。
そのときと、なにも変わっていない。前世は前世などと言っていても、心根は同じであると指摘されて、ルイーゼは視線を逸らした。
「今度は選んでもらえて、よかったよ」
「セザール様……」
葉巻の煙を吐き出してセザールが笑う。
横顔が満足そうに見えて、ルイーゼは目の遣りどころに困った。
「お嬢さま、お忘れ物です!」
なんとも言えない空気になっていたところに、自然な流れで鞭を差し出される。
「あら、ジャン。ありがとうございます」
あまりにも自然でいつも通りの流れだったので、ルイーゼはついつい鞭を受け取ってしまう。
しかし、すぐに眉を寄せた。
「……ジャン。わたくし、確かこっそり抜け出してきたはずですが?」
「このジャン、お嬢さまの
「オッサンのスカートの中には行きませんけどね!?」
この執事は何モンをゲットする気なのだろう。すかさず突っ込みを入れながら、軽く数発鞭打っておいた。
「深夜の鞭打ち、よろしゅうございます! よろしゅうございますよッッ!」
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