第113話
「もう、やだっ。殿下ってば、そんなことしなくていいのよぉ!」
ユーグが両手で頬を覆って身体をクネらせている。
エミールはふるふると首を横に振りながら、立ち上がろうとするユーグを寝台に押し戻した。セザールからは縛ってでも寝かせろと言われているが、それはちょっと出来そうにない。
「ダメだよ。ユーグは、ちゃんと寝てて!」
「え? なに? 私と寝てくれるの!?」
「ううん、僕は今眠くないよ……?」
「眠くない方が好都合よ」
微妙に会話が噛み合っていない気がしながら、エミールは寝台脇に置いてあった水盆を取り替えた。
ここしばらく、なにか出来ることはないか探しては、少しずつ手伝っている。
部屋に引き籠っていたときは、一日中なにもしなくても平気だったけれど、今は落ち着かない。みんなが大変そうなのに、エミールだけボーッとしているのは憚れたのだ。
「あ、あとで、セザールがスープ作ってくれるって、言っていたよ」
「本当? ステキ! 普段着で来てって言っておいてね。しばらく見ない間に、ますます良い漢になっていたわ」
最近知ったことだが、セザールの普段着とは男物のことらしい。エミールは逆に覚えていたので、頭の中で修正するのが大変だった。
ユーグは黄色い声を上げながら、なにかを想像して枕に顔を埋めている。とても楽しそうだ。
「元気になったね。よかった……」
数日寝込んでいたユーグだが、今は元気そうに見えてエミールはホッとする。
ロンディウム城に現れたときは衰弱していて、マトモに歩ける状態ではなくなっていた。
最初はずっと寝ているし、起きても食事が喉に通らない状態だったので本当に心配した。
「殿下が看病してくれたんだから、当り前よ。殿下、本当にありがとう。頬ずりしてもいいかしら?」
いきなり抱きつかれて、すりすり。
ヴィクトリアで慣れていたせいか、エミールは大して抵抗なく受け入れてしまう。
「ずっと手を握ってくれていたでしょ?」
「え、わかるの?」
「わかるわよ」
「ユーグ、すごい!」
なんだか、ルイーゼみたいだ。エミールは素直に驚いて笑った。ずっと目を閉じて眠っていたから、知られていないと思っていたのに。
「きっと、姐さんが妬いているわね。殿下を独り占めしちゃった」
「ルイーゼ? ルイーゼはカゾーランみたいな強い人が好きだって言っているよ」
キョトンと首を傾げると、ユーグは意味深に「うふふ」と笑った。
ルイーゼはエミールのような「弱い殿方」を好きにならない。口酸っぱく言われたし、エミールだってもう高望みはしていなかった。
ただ、少しでも長く傍にいられたら充分だ。
昨日は庭に執事を吊るしに行っていたみたいだけど、今日はなにをしているんだろう。あとで会いたいな。
「殿下は優しいから難しいかもしれないけれど……漢なら、たまには隙を見つけて強引に行くべきよ」
「ふぇ?」
以前より痩せた手で頭を撫でられる。
「す、隙?」
ルイーゼは強い。いつもピリッとした空気を纏っていて、近づくのも怖いときがある。隙が見つけ出せるとは思えなかった。
いつだってルイーゼは強くて、かっこよくて、とっても綺麗で……本当に手が届かない。
「姐さんは素直じゃないから大変だと思うけど、がんばってね」
そう言われても、どうすればいいのかわからない。エミールは理解しないまま、コクコクと頷くしかなかった。
けれども、やっぱりユーグといるのは落ち着く。
フランセールにいた頃から護衛に就いていたし、一緒に旅をしたせいかもしれない。初めて、友達になってと頼んだ相手でもある。
アルヴィオス行きの船に乗るとき、エミール一人がタマに乗って駆けていってしまったけれど。あのときは、少し申し訳ない気がしていた。
「ねえ、ユーグ?」
ふと、疑問がわき上がる。
「そういえば、ユーグはどうして捕まっていたの? 港でアロイスと一緒じゃなかったの?」
今まで、あまり余裕がなくてじっくりと話を聞けていなかったが、みんな疑問に思っているだろう。
「あら、そうね」
ユーグは「んー」と唸って考えていたが、やがて首を傾げる。
「殿下を追いかけてアルヴィオス行きの船に乗せるように交渉したんだけど」
「うん」
「そのあとのことを覚えてなくって。いつの間にか眠らされていたみたい。私ったら、本当に一生の不覚だわ」
罠にかかって不覚。そんな感じで、ユーグは溜息をついていた。
「怖いこと、されなかった?」
「よく覚えていないのよね……ただ」
ユーグは少し真剣な表情になって考え込んだ。どう表現すればいいのか思案しているようだった。
「時々、姐さんと一緒にいた気がしていたわ」
「ルイーゼと?」
ルイーゼはエミールたちと一緒にいた。
ユーグと一緒にいたはずがないのだ。
どういうことだろう。エミールもユーグも首を傾げる。
† † † † † † †
夜海の暗闇で船を導く灯台。
航海者が迷わず港に辿りつけるようにという発明だ。アルヴィオスの建国当初から存在しており、その技術は他国へも輸出された。
まあ、その知識を持ち込んだのは、自分だが。
「そろそろ、向こうで撒いた種が芽吹く」
男は亡霊のように音もなく、夜の港を進む。闇に黒い影が揺れて溶けていくようだ。
外套の下で笑みを浮かべて青白い月を見上げた。
黒い瞳を細めると、左側のみが波打つような蒼を湛えて光を放つ。
力が漏れていることを感じて、彼は嘆息した。
「本当に面倒なことをしてくれたものだ」
眼帯を取り出し、左眼を隠すように身に着ける。
それもこれも、
無性に腹立たしくなって、男は腰に帯びていたサーベルの刃を少しだけ抜く。そして、
皮膚が裂けてダラダラと左手から紅い滴が垂れる。男は明らかに不満を顔に浮かべながら、自分の手についた傷を舐めた。
フードを落とすと、夜風に長く伸びた黒髪が舞う。
「面倒臭い」
なんのために、あんな面倒なことをしたと思っている。
わざわざ、一度死んだというのに。ただの≪器≫の分際で小賢しい真似をしてくれたものだ。
そのせいで、しばらくは
だが、そのリチャードも既に用はない。再び転生させてくれと懇願されたが、必要のないことはしない主義だ。
「あん? アンタ、そこでなにしてんだ?」
港で作業をしていた水夫が、男の存在に気づく。こんな夜更けに、なにか良からぬ品でも運んでいたのだろうか。警戒するような目で、男を見ていた。
「丁度良い。船を調達しようと思っていた」
「は?」
男の言葉に、水夫が乱暴に聞き返す。けれども、男は意に介さぬ様子で水夫との距離を詰めた。
なにが起きたかわからないと言いたげな水夫の顔面を血で汚れた左手で掴み、男はニマリと笑う。
「船を出せば、多少長生きさせてやろう」
水夫の頭を積み荷の木箱に押しつけながら、男は笑った。少しずつ頭の位置をずらしてやると、髪の毛を巻き込んで頭皮が少しずつすりおろされていく。いわゆる、もみじおろしだ。
「や、やめ……ひ、ひぇっ……い、いだぃ」
「もっと恐れろよ。俺が生きていた頃は、名を聞いただけで誰もが震えあがって平伏したぞ?」
最近は便宜上、クラウディオ・アルビンと名乗っていたが、もうその名も必要ない。
アルヴィオスにいる理由もないし、国王のパシリをしてやる必要もないのだ。勿論、味方の振りをして馬鹿な王子を補佐してやることも。
男は地獄の底から響くような、それでいて、雲のように掴みどころのない声で問う。只ならぬ気配に、周囲の温度が数度下がったと錯覚しそうだ。
「エドワード・ロジャーズを知っているか?」
残忍な悪鬼のような笑みを浮かべた眼帯の男を、水夫は恐怖に怯える眼差しで見上げ、震え続けていた。
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