第101話

 

 

 

 面倒のかかる小僧だ。


 ほとんど光のない暗い路地裏でセザールは息を潜めた。

 傍らには虫の息のギルバートが転がっている。河に投げ入れたあとに下流まで泳いでから引きあげてやった。

 一応、申し訳程度に軍務経験があるので、応急処置は施してある。ただ、傷が傷なので予断を許さない。

 もう少しマシな場所で寝かせてやった方がいいが、あいにくセザールはロンディウムの地理に疎い。一人であればストラス邸まで戻ることも可能だろうが、怪我人を抱えて追われている状況では得策とも思えなかった。


「…………」


 意識が戻ったのか、ギルバートが身じろぎした。


「く……ヴィ……ご、め……」


 辛うじて言語のような呻き声が聞こえる。


「静かにしておけ。口を縫いつけて縛り上げるぞ」


 セザールは低く言って、無理に起きあがろうとするギルバートの頭を押さえつけた。ギルバートはしばらく抵抗していたが、やがて糸が切れたように大人しくなる。活きが良いだけが取り柄の小僧なのに、張り合いがない。


 詳しい状況がわからないが、先ほどの様子を見るに、城の兵士が出向いてきていた。計画が失敗したと見ていいだろう。

 城へ行ったルイーゼとエミールの安否が心配である。

 元々、セザールが請け負った任務はルイーゼの護衛だ。エミールがついてきたことで予定が多少狂ったが、概ね変わってはいない。やはり、無理にでも城へついていくべきだった。

 最優先すべきは二人の安全だ。

 フランセールのことを考えると、ここでギルバートを置いて二人を助けに行くべきだろう。他国のことなど気にせず、そのまま船を調達して帰国するのが妥当だ。


「面倒な小僧だ」


 頭を押さえつけていた力を緩めて息をつく。

 葉巻を咥えようとするが、先ほど泳いだせいでマッチごとダメにしてしまったことを思い出す。

 苛立ちを紛らわそうと、セザールは水分を含んだシルバーブロンドを指先で弄ぶ。


 死なれると後味が悪い。

 カゾーランの倅もそうだし、セシリアの子もそうだ。自分と同世代たちが結婚して生んだ子供は、たいてい、このくらいの年齢である。


 結婚は御免だが、子供くらいはいても良いと思ったことは何度もある。そのせいか、不思議とギルバートをこのまま放り出すことが憚れてしまうのだ。

 中身が空っぽで、生きる意思が薄い。そんなギルバートを見ていると、無性に腹が立つし、傷めつけたくなってくるというのに――妙に幼少期の自分と重ねてしまう。


 我ながら酷い。


 基本的に周囲と自分は違う。いつも無関心で自由に生きているつもりだが、時々、驚くほど執着するときがあって困る。

 セシリアが勧めるままにワイン造りをはじめたときも、カゾーランの倅を世話してやったときも――。


「甘いな」


 浅く息をついて、ギルバートを見下ろす。熱が出ているのか、今度は魘されている。ずっと、ヴィクトリアの名を呼んでいるようだ。


 闇色の髪を包むように、頭の上に手を置いてやる。

 しばらくすると、存外、穏やかな寝息が聞こえてきた。




 † † † † † † †




 女王になんて、興味はない。

 ただ、母さまを救いたかった。


 でも、母さまは死んだ。


「…………ッ」


 カップの割れる音で、ヴィクトリアは我に返った。

 ぼんやりとしてしまっていたようだ。飲んでいた紅茶のティーカップを落として割っていた。

 絨毯が砂糖入りの甘い紅茶を吸って、赤茶色に染まっている。


 嫌な予感がするのは、何故だろう。なにか悪いことが起こっている気がする。


「ハッ……! よろしゅうございません。そんな気がします、お嬢さま!」


 部屋の隅で立っていたルイーゼの執事が妙な奇声を発しはじめる。

 よくわからないが、執事はなにかを感じ取ったようで、いきなり「よろしゅうございません、お嬢さまぁぁぁああ!」と叫びながら退室してしまった。

 なんだか、不気味で嫌な予感が増していく。


 ヴィクトリアは執事の奇行を無視して、足元の破片を拾い集める。

 白くて尖った陶器の欠片を指でつまむ。すると、誤って指先がわずかに切れてしまった。

 スッと細い傷が入り、そこから珠のように血が浮き上がってくる。大して痛くはないが、ヴィクトリアは傷口を自分で舐めた。


 ――ヴィー、頼む……頼むから、もう辞めてくれ。俺のせいだから……俺がハンナを殺したんだ。だから、俺だけを憎んでくれないか?


 ヴィクトリアの手を隠しながら叫んだ言葉が思い出される。

 ギルバートは基本的に余裕がある振りをしていて、自分を表に出さない。いや、明確に自分というものがなくて、根なし草のように危なげな思考をしている。

 そんなギルバートがヴィクトリアのために、必死になって叫んでいた。


 ――ヴィーがこんなことをする必要はない。殺すなら、俺だけ殺せばいい。俺の命なら、いつでもやる。だから、もう辞めろ。


 亡霊のように付き纏う記憶。忘れようとしても、忘れられない。

 自分の母は死んでしまった。殺されてしまった。

 女王になんて興味はない。ただ復讐のために動いているだけだ。復讐のため――けれども、誰に対する復讐なのかも、今ではよくわからない。

 ヴィクトリアは頭を押さえて、蹲った。


 ――もっと、単純に考えることは出来ないのでしょうか?


 本当はわかっている。

 ルイーゼの言う通りだ。ヴィクトリアやギルバートが思っているよりも物事は単純で、答えは見え切っている。

 それでも、ヴィクトリアには、あのときの約束を捨てることが出来なかった。


 あれはきっと、ヴィクトリアのための約束ではない。

 すぐに自分を捨てようとしてしまう、クソ王子を縛り付けておくためのものだ。


「…………?」


 屋敷の玄関が開いたようだ。

 来客があってもすぐわかるように、玄関が開くと鈴が鳴る仕組みになっている。使用人向けの仕組みだが、部屋で過ごしているヴィクトリアにも聞こえるようになっていた。

 ストラス伯爵が空けているこの機に来客はないはずだ。

 そうなると、誰かが屋敷へ帰ってきたことになる。


「ギル……?」


 ヴィクトリアは急いで立ち上がり、玄関へと急いだ。

 絨毯の敷かれた廊下を走り、広い吹き抜けのエントランスへと続く階段を下った。


「……ギル、帰ってきたのかい……?」


 不安になって、弱々しい声を出してしまった。こんな自分が見られるのも恥ずかしい。でも、いつものように気を張ることが出来ない。

 ヴィクトリアは返事が待てずに、暗い玄関を照らすために、エントランスの燭台に火を灯す。


 だが、そこに立っていたのは期待していた人物とは違う影だった。


「……だ、誰だい!?」


 濡れたドレスの裾が引き摺られ、床に水の動線が描かれる。

 先ほどまで降っていた雨に濡れたのだろうか。一歩一歩、ゆっくりと踏み締めて進む姿が異様に感じられた。

 周囲の温度が下がるほどの殺気が漏れ出ており、暗闇の中で揺らめくように光る蒼い瞳が禍々しく思える。


「ル、ルイーゼ……なのかい?」


 ヴィクトリアの知る人物だった。しかし、異質すぎる空気を纏っているせいか、何故か確認するように聞いてしまう。


「ふふ……ふ、ふふふふ……」


 やがて、令嬢の小さな唇から異様な笑声が漏れ出る。

 最初は小さく、不気味に。されど、声は徐々に大きく、悪魔と形容するに相応しい哄笑へと変じていく。


「うふふ……ふはは……あーはっはっはっはっはっはっ! ふはははは! おーほっほっほっほっほ!」


 水分を含んだ鞭の音が鳴り響く。

 令嬢は顔をあげて、悪魔のような表情で宣言した。


「このまま引き下がると思ったら、大間違いですわ! お仕置きです。決めましたわ。生意気な引き籠り姫にはお仕置きが必要なのですわ! あの下衆野郎を血祭りにしたあとで、たっぷりとお仕置きしてやるのですわ!」


 両手を広げて笑う令嬢の姿は悪鬼のようで、ヴィクトリアはただただ息を呑んで見据えることしか出来なかった。


 嫌な予感しかしない。

 

 

 

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