或る国王の花嫁2

 

 

 

 思わず、声をかけるのが躊躇われた。

 バルコニーにセシリアの姿を見つけ、アンリは表情を明るくする。しかし、隣に誰かいるのを見て、なんとなく歩みを止めてしまったのだ。

 しっとりと清楚な白を纏ったセシリアの後ろ姿は美しい。結いあげられた麦穂色の髪が日光を受けて、優しく輝いている。

 対して、隣にいるのはこってりと派手な真紅を纏った貴婦人――に見える騎士。セザールだ。サラサラのシルバーブロンドが肩の辺りで揺れている。

 王妃セシリアと荊棘騎士セザールは同郷のようなものだった。久々に王都へ参上したセザールが挨拶をしていると言ったところか。幼馴染の会話に水を差すのも悪いと思い、アンリは話が終わるのを待つことにした。

 以前にクロードと会話しているのを邪魔して割って入ったら、セシリアからボコボコに殴られてしまった。ここは学習した姿を見せなくては! 殴られるのも悪くはないが。


「とにかく、よろしくお願いしますわ」

「承知した……もっと派手な方が、我は良いと思うがな」

「ふふ。いいのよ、あれで。セザールは全然わかっていないのだから」

「そう言うのであれば、相談などしなければいいではないか。昔から、セシル様は我が助言など一つも聞き入れてくれない」

「あら、参考にはしていますわ。あなたが言う真逆のことをすれば良いのよね?」

「…………解せん」


 セシリアの声音は気心知れた相手との会話といった感じだ。

 いつ話が終わるだろう。アンリは待ち切れなくて、非常にウズウズしてしまう。


 以前はなにをしても、好奇心など微塵も湧かなかった。与えられた義務をこなしていれば、充分だと考えていたのだ。

 しかし、セシリアを娶って変わったと思う。まずは彼女に興味を持ち、やがて、政務の意味について考えるようになった。自ら考えて行動し、全てを家臣たちに任せることは少なくなったと思う。

 きっかけは、セシリアに「良い王」だと言われたいがためだったが、今では責任感も湧いている。あのまま、セシリアが嫁いでこなかったら、どうなっていたことか……今では少し恥ずかしい。


「ところで、クロードの奴だが……随分とやさぐれているみたいだな」

「きっと、この間、エリックが勝手に結婚してしまったから、拗ねているのですわ。あなたも結婚してみたらいかが? 面白い反応が見れましてよ?」

「冗談はよせ。我にあんな怪物の相手など出来んさ……だいたい、奴がああなったのは、ほぼセシル様のせいだ」


 待つのにも飽きて膝を抱えて座り込んだところに、聞き捨てならない台詞を聞いてしまう。決して盗み聞きするつもりはなかったのだが、落ち着かず、アンリは聞き耳を立てた。


「てっきり、結婚すると思っていた」


 セザールの吐いた台詞に、セシリアがクスクスと笑っているのが聞こえる。


「そうですわね、わたくしもよ」


 会話の意味が頭に入らない。いや、理解することを拒否してしまう。


「…………」


 アンリは気づかれないように立ちあがり、音を立てずにその場から去った。

 充分に離れた辺りでブルネットの髪を掻き毟り、頭を抱える。


 ――そうですわね、わたくしもよ。


 セシリアの楽しそうな声が頭を反芻した。まるで、なんでもないことのように言っていたが、果たして真意はわからない。彼女は計算高い笑みで相手を魅了し、なかなか心を読ませない女性だ。

 つまり、セシリアとクロードは結婚を考えていた仲であり――アンリは恋仲にあった二人を引き裂いたということで……。


 悪者ではないか!


 自分の役どころに気づいて、頭が痛くなってくる。いや、そうではない。自分の役回りなど、どうでもいい。どうでもいいのだ。

 急に不安になったのは、自信がないからか。灯りのない暗闇を独りで歩いているような気分になってしまう。

 セシリアは、私を愛してくれていないのではないか――?

 元々、政略結婚だ。利害で結ばれた婚姻。


 ――政略結婚ですもの。わたくしたちに愛がなくても、それはそれでよろしいと思いますわ。


 嫁いできたその日に、言っていたではないか。しかも、あの時点で彼女はアンリのことを毛嫌いしているとも言っていた。

 アンリが一方的にセシリアに興味を持って好いているだけで、彼女の気持ちがどこにあるのか、考えてもいなかった。

 結婚して二年。まだ子はないが、それなりに打ち溶けているつもりでいた。だが、よく考えれば、セシリアから殴られる回数は減っておらず……むしろ、増えている。いや、なかなか悪くない。むしろ、嬉しいのだが。

 考えれば考えるほど、よくわからなくなる。

 自分にセシリアから好かれる要素がないではないか。



「陛下、如何されましたか?」


 そんな気持ちで公務に出たせいか、アンリは落ち着きを欠いていた。

 玉座の右手から、カゾーランがアンリを覗いている。純白の制服に身を包んだ騎士は、赤毛の下で心配そうな表情を作っていた。


「お疲れなら、休憩を挟んだ方がよろしいかと存じ上げますが」

「……いや、なんでもない。気にするな」


 アンリは軽く断って、カゾーランから視線を外す。すると、自然と玉座の左手を見てしまった。


 玉座の右手は≪天馬の剣≫、左手は≪黒竜の剣≫の定位置だ。

 クロード・オーバンは普段、王都よりも戦場での仕事が多い。今回も一時的に帰還しているだけで、数日したら、すぐに北方へ派遣される予定だ。

 歳は十八で、アンリより二つ若い。近衛騎士になった頃は、まだ少年の域を出なかったが、今ではすっかりと大人びた青年の顔をしている。表情豊かで涙脆いカゾーランとは対照的に、無表情か不機嫌そうな顔をしていることが多かった。

 フランセールでは珍しい闇のような黒髪と黒眸。背が高く、無駄なく鍛えられた精悍な身体つきが、漆黒の制服の上からでもわかる。腰に提げた剣は妙に細くて反りがある、独特のものだ。何度か剣技を目にしたが、異国の技だとアンリでもわかった。

 なにからなにまで、アンリと違う。

 アンリはどちらかというと身体が弱く、手足も細い。運動が苦手で、剣も馬も得意ではなかった。カゾーランから「筋肉が足りませぬ」と苦笑いされたことも多々ある。

 セシリアは、こういう男が好みなのか?


「あの、陛下……なにか?」


 まじまじと見つめてしまい、クロードが気まずそうな声をあげる。


「いや……なにもない。気にするな」


 アンリは視線を逸らしながら、頭を振った。そして、項垂れる。

 羨ましいではないかッ! 少し鍛えた程度で、アンリがこの粋に達するとは、到底思えなかった。


「陛下。やはり、体調が優れぬのでは?」

「カゾーラン、お前が陛下にご無理をさせたのではないか? 結婚したからと言って、調子に乗り過ぎだぞ」

「はんッ、その話は関係なかろう。そんなに羨ましかったら、おぬしも結婚せい」

「爆発しろッ。俺のことは放っておけ……!」


 アンリを火種に喧嘩がはじまってしまう。この二人は、いつもそうだ。顔を合わせれば似たような内容で言い争っている。斬り合いになることもあるが、セシリア曰く、あれはジャレているだけらしい。

 普段はキリのいいところで止めてやるのだが、あまり気力がない。アンリは力ない息をつきながら、ぼんやりと喧嘩を眺めるのだった。




 今日の公務は身が入らなかったくせに、無駄に疲れた。

 アンリが軽い夕食を終えて寝室に戻ると、既にセシリアがいた。彼女は本から顔をあげ、にこやかに笑う。パタリと本の表紙を閉じる音がする。


「今日は遅かったのですわね」


 いつものように、したたかで計算高い、それでいて、純真無垢な笑み。

 なにを考えているのか、アンリには読めなかった。それが彼女の魅力であり、いつか全てを理解したいという欲求に駆られる。


 だが、今はそれが苦痛に感じられた。

 本当は、私のことをどう思っている?

 一度生まれた疑念は消えない。そのせいか、セシリアの顔をマトモに見ることが出来なかった。


「お疲れみたいですわね、アンリ様。今日は自室へ帰りましょうか?」


 セシリアは心配そうに眉を寄せて、アンリの顔を覗き込む。こういうときの仕草は、純真で無防備だ。少女のように無邪気な態度でアンリの心を揺さぶる。

 サファイアの瞳と視線が合った。その瞬間に、胸の奥で鼓動が強く跳ねあがる。

 アンリは思わず、セシリアの顔に手を伸ばした。

 そして、無防備な顎を掴んで、無理やり唇を重ねた。いつもはしない強引なやり方に、セシリアは身を強張らせている。


「アンリ様、痛いです」


 壁にセシリアの背を押し付けて完全に動きを封じる。普段は甘んじて殴られるが、アンリは抵抗出来ないようにセシリアの両手首を掴んだ。


「やめてください……! こういうのは、よくありませんわ」


 両手を掴む力を強めながら、アンリはセシリアの顔を覗き込んだ。

 間近でサファイアの瞳が揺れている。少し怯えているのだろうか。こんな彼女の表情を見るのは初めてだった。


「セシリア、愛している」


 思いのほか、声に熱が籠らなかった。淡々と、義務をこなすような声で呼んでしまい、アンリは内心後悔する。けれども、不思議と自分に表情はなかった。仮面を被っている気分になる。


「そなたは、私をどう思っているのだ?」


 決して心を読ませてくれない妻。したたかで計算高いように見えて、純真な少女のような一面も持っている。そんな彼女の心を理解しようとするのが楽しみでもあった。趣味や好み、性格や仕草、思想や理想。少しずつ理解するのが歓びだった。

 それなのに、今は違う。

 すぐに知りたい。今すぐ、全てを手に入れてしまいたい。そんな強欲な感情に流されている自分が愚かで仕方がなかった。こんなことをしても、手に入れられるものではないのに。


「アンリ様は、わたくしの夫ですわ。最初はどうなるかと思いましたが、今は良き国王様でもあられると思います」


 模範的な答えを聞いて、アンリは歯噛みする。違う。そうではない。私が聞きたいのは、そんなことでは――。


「残念ですわ」


 アンリの苛立ちと裏腹に、セシリアは溜息をついた。失望した。そんな表情に見えて、アンリは口を噤んだ。


「アンリ様は、理解してくださっていると思っていましたのに」


 なにを? そう問う前に、セシリアが勢いよく頭を前後に振った。

 渾身の頭突きをマトモに受けて、アンリは数歩後すさってしまう。


「ぐッ……ぁッ!?」


 セシリアはそのままアンリの手を振り解いて、鳩尾に拳を叩き込む。よろめいたところに、胴への回し蹴りと裏拳が飛んできた。


「くッ、こ、この程度で……!」


 殴られるのは慣れている。日に日にキレを増す妻の拳を受け止めて、アンリは肩で息をした。しかし、セシリアは無情に足払いしてアンリを床に倒してしまう。

 セシリアは無言のままアンリを見下ろすと、投げ出された足を掴んで持ち上げた。


「セ、セシリア!? なにを……」

「ジャイアントスイングですわ。危ないですから、頭の後ろで手を組んでくださいませ」


 じゃいあんとすいんぐ!? よくわからない名称を言われて、アンリは目が点になる。

 気がつくと、セシリアはアンリの足を持ち上げたまま、その場でグルグルと回転しはじめた。当然のように、アンリの身体も回転し、遠心力で身体が宙に浮く。


「や、やめ……これは、流石にぁっぁああああ目がぁぁぁあああ……!」


 思わず叫ぶと、セシリアは唐突にアンリの足を解放した。勢いのついたアンリの身体はそのまま、宙を舞うように部屋の隅へと投げ出されてしまう。

 目がぐるんぐるんに回って吐きそうだ。頭もクラクラする。壁にぶつかったせいで、肩も痛くて仕方がない。数多の攻撃を受けてきたが、流石にこれは参った。


「気分が優れませんので、自室へ帰らせて頂きますわ。ごきげんよう、陛下」


 セシリアは非常に清々しい表情で言い放ち、寝室から出て行ってしまう。

 独り残されて、アンリはやっとのことで立ち上がる。立ちくらみが酷い。気分が悪くて吐きそうだ。




 その日以来、セシリアはアンリのことを意図的に無視するようになった。

 呼び方も、アンリ様から陛下に改められて、距離を置いているのがわかる。公の目がある場所では普段通りに振舞っているが、余所余所しさは拭えなかった。

 もう三日もセシリアがマトモに口を聞いてくれない。強引な手段を取ったアンリが悪いのはわかっているが、限界だった。


「陛下、やはり、なにかありましたかな?」


 憔悴しきったアンリを心配して、カゾーランが声をかける。


「カゾーラン……私は軟弱だろうか……」

「今更なにを」


 否定してもらえず、アンリは項垂れる。


 ――残念ですわ。


 セシリアの表情が忘れられない。失望した彼女の顔を思い出すと、夜もなかなか寝付けなかった。

 どういう意味だ。いや、言葉通りか。

 アンリとセシリアは政略結婚だ。対外的にロレリアはフランセール領であると示すために結婚した。そして、王族とロレリア侯爵の利害のために取り決められた、宝珠を巡る秘密の結婚でもある。そこに愛情は必要なく、求められるのは世継ぎを残すという結果だけだ。


 自分だけが夢中になって、馬鹿らしいではないか。そんな簡単なことも理解せずに、妻に想われていると自惚れていた。元々、恋人がいたのなら尚更だ。彼女はただ義務で王妃を全うしているだけだ。

 もしかすると、今だって陰で……王侯の結婚で外に愛人を作ることは珍しくない。

 妃の立場では社会的にあまり良くないと言われているが、ままある話だ。国王の場合は必要だと感じられれば、側妃や公妾を作ることも許されていた。

 セシリアは嫁いで二年になる。未だに子を成さない彼女を批難する声があるのも事実。側妃の座を狙って、社交界でアンリに媚を売る者も一定数いた。


「いかん」


 あまり考え過ぎるのはよくない。疑いはじめるとキリがないのだ。急に頭を振りはじめたアンリを、カゾーランが心配そうに見ている。


「すまないが、しばらく休む……」


 今日の公務は終わりだ。夕食がまだだが、もう寝てしまいたい。アンリは覚束ない足取りで執務室を出て、寝室へと向かった。

 セシリアのいない生活など耐えられない。考えられない。しかし、元の関係に戻れる自信もなかった。

 疑ってしまう自分が情けなく、そして、愚かしい。

 なにも考えたくない。アンリは着替えもせずに寝台に身を預けて、泥のように眠りこんでしまった。




 どれくらい眠っていたか、わからない。

 頬を打たれた気がした。割と強めに、往復で。

 赤くなった頬を押さえて、アンリは鈍い動作で寝台に頭を擦りつける。着替えていないどころか、靴も脱いでいなかった。おまけに、毛布も被らずそのまま突っ伏している。

 あまり良い姿勢で眠らなかったせいか、身体が痛い。起き上がると、背中がバキバキと音を立てていた。


「…………ッ」


 アンリは眠い目を擦って、寝室を見渡した。

 扉が開いている。誰かが侵入し、出ていったということか。だが、外には衛兵もいる。部外者が易々と侵入出来るとは思えなかった。

 起きあがり、扉まで歩く。すると、廊下に花弁が落ちていることに気づいた。どうやら、道標のように撒かれているようだ。

 なんとなく、アンリは花弁の道標を辿って歩いた。外はすっかり夜が更けて、満月が明るく夜空を照らしている。そのお陰で、灯りを使わずとも歩くことが出来た。

 やがて、普段はあまり立ち寄らない小さな庭へと導かれる。

 甘い香りが鼻腔をくすぐった。


「こんばんは」


 優しくて穏やかな声をかけられ、反射的に振り返る。

 月明かりの照らす庭に、白い影が立っていた。清楚で飾り気のない純白のドレスが、夜風に揺れる。胸元まで垂れた麦穂色の髪が、ドレスの白を飾るように月光を浴びて輝いていた。

 サファイアの瞳がしたたかに、けれども、純真な笑みを描いている。


「セシリア……?」


 呼びかけると、セシリアはスッと手を差し出した。こちらへ来いということか。アンリはなにも考えず、足を前に動かす。

 そして、庭に出た瞬間に、目を奪われる。


「アンリ様のために、用意したのですわ」


 サラリとした口調で言って、セシリアはアンリの手を握った。

 今まで、誰も見向きもしなかった小さな庭。そこには、見たことのない花が並んでいた。

 ピンクや白の花々は美しい。しかし、その一つひとつの花はとても小さく、あまり派手には見えない。可憐で慎ましい雰囲気がある。多くはプランターに植えられており、蔦のように垂れ下がる花が月夜に映えた。


「これは……」

芝桜モスフロックスと言いますの。セザールに持ってきてもらいました。ロレリアの花ですわ。明日から、庭に植えかえてみようと思いますので、ご許可を頂きたくて」


 セシリアはそう言って、プランターの一つに顔を寄せた。甘い香りを嗅いで、サファイアの瞳が嬉しげに細くなる。


「花言葉は『臆病な心』。そして、『忍耐』。芝桜は耐え忍ぶ花なのですわ」


 パッと振り返ったセシリアの顔が、いつもより美しく見えた。月明かりのせいなのか、花のせいなのか、わからない。

 けれども、その瞬間、アンリは彼女に酔わされていると自覚する。

 どんなに理性を繕っても、欲しくて堪らない。全て自分のものにして、独り占めしたくなるのだ。他になにも要らなくなるくらいに愛おしい。

 だが、抱き締めるのを躊躇ってしまう。


「アンリ様は少々軟弱かもしれません」


 セシリアがアンリを見上げて笑う。その純粋な笑みが胸に刺さるように眩しかった。


「でも、お強くなろうと必死なのですわ。痛みに耐えて、いつもまっすぐです」


 言葉を失っているアンリの前に、セシリアはプランターの一つを差し出す。受け取ると、陶器の重みと冷たさ。そして、甘い香りがふわりと舞い上がった。


「これは、その……わたくしの気持ちでもあります」


 そこまで言うと、セシリアは何故か俯いてアンリから目を逸らしてしまう。その様が意地らしくて、少女のように見えた。


「わたくしが、アンリ様をどう思っているかと、問われましたね」


 初めて、セシリアの頬が桃色に染まっていることに気づく。見たことがない表情に戸惑いながら、アンリは言葉の続きを待った。


「わたくし、アンリ様をお慕いしておりますわ」

「え?」


 アンリは驚いて目を見開く。


「恋人がいたのでは、ないのか?」


 思わず、こんなことを聞いてしまう。話題にしない方がよかったのかもしれないが、口にせずにはいられなかった。

 すると、今度はセシリアが首を傾げる。


「恋人なんて、いませんけれど……? そんな話、誰から聞きましたの?」


 質問に対して、セシリアがパチクリ目を見開く。状況がよくわからなくなってしまい、アンリは頭を抱えた。


「そなたはオーバンと結婚したかったと……」

「あら、恥ずかしい。そんな黒歴史、誰から聞いたのですか? もうっ……!」


 セシリアは両手で頬を多い、顔を赤くしてしまう。


「昔の話ですわ……結局は求婚だってされておりませんし、お付き合いだって……とにかく、あのヘタレのことはあまり深く詮索されたくないのですわ。黒歴史はノートと共に、故郷に置いてきたつもりです。わたくし、引き摺らない女なので」

「……よくわからぬが、違うのか?」

「説明するのが恥ずかしいので、察してくださいませ」


 なにも察せない。とりあえず、違うのだと必死で訴えられて、アンリはよくわからないまま安心する。妻の不貞まで疑ったのが馬鹿馬鹿しい。


「アンリ様がいけないのですわ。情けなくて、頼りなくて、軟弱で……おまけに、最近は殴られて喜びはじめるし。大きな子供みたいで、放っておけなくて。気がついたら、アンリ様のことばかり考えていますのよ」


 そこまで言われると、流石に傷つく。だが、悪い気がしない。何故だか、もう少し言って欲しい気もした。


「だから、ショックでしたわ。アンリ様に、少しも伝わっていないのだと思うと、つい腹が立ってしまって……」


 セシリアは俯きながら、アンリが持っていたプランターを再び手に取る。


「芝桜の花言葉は『臆病な心』と『忍耐』だけではありません」


 少し躊躇いながらも、セシリアが顔をあげる。彼女は計算されていない少女のような表情で背伸びをして、アンリの耳元で囁いた。


「『燃える恋』、『一筋』ですわ」


 セシリアの顔を覗いた。妻は恥ずかしそうに目を逸らしてしまうが、構わない気がした。

 抱き締めた瞬間に、プランターが地面に落ちる。割れなくて良かったが、セシリアが不満そうな表情を浮かべた。だが、アンリはそれも包むかのように、妻の身体を抱き締める。


「セシリア、愛している」


 短く告げて、アンリはセシリアに唇を落とす。花の香りよりも甘く、蜜よりも狂おしい味がする。誰にも渡したくない、自分だけの妻だった。


「そなたがいないと、私は駄目だ。二度と手放したくはない」

「まあ。そのようなことを……わたくしがいなくても、ちゃんとして頂かないと困ります。アンリ様は国王様なのですわよ。いつまでも、軟弱ではいけません」

「そなたが支えてくれるのだから、軟弱も悪くはない。むしろ、もっと言ってくれないか?」

「まあ。アンリ様ったら、またそんなことを!」


 再び口づけようとするアンリの鳩尾に衝撃が走る。いつものようにセシリアに殴られて、アンリは呻き声をあげた。


「良い。良いぞ。慣れてくると、もはやご褒美だな。また今度、じゃいあんとすいんぐ、とやらも頼む。きっと、癖になるはずだ」

「時々、わたくしはなんのために殴っているのか、わからなくなりますわ」


 セシリアは呆れたような、それでいて、嬉しそうな笑みを描く。それを見て、アンリも笑い返した。

 目が合うと、どちらともなく顔を近づける。空を明るく照らしていた満月が雲間に隠れ、庭に闇が射した。

 暗闇で、お互いの存在を確認し合うように、唇を重ねる。

 

 

 

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