第68話
蝋燭に灯された光が、空気の流れに合わせて揺れる。
暗がりの中で、ミーディアは不安げな表情を作った。
「……本当に、やるんですか?」
深夜の王宮は静寂に包まれている。
見回りの騎士たちが時間ごとに交代する程度しか、動きがない。光溢れる明るい昼間の印象とは、随分変わってしまっている。
ミーディアの声を聞いて、前を歩くカゾーランはなにも答えない。暗闇でも浮き上がる純白の制服を揺らして、王国最強の騎士は沈黙のまま進む。
誰もが寝静まった頃合いに向かうのは、国王の執務室である。
鍵は≪天馬の剣≫であるカゾーランが所有しており、忍び込むのは容易だ。カゾーランが室内にあると思われる隠し扉を見つける間、ミーディアが外で見張ることになる。
なにもなければ、それでいい。
ルイーゼがアルヴィオスの王子と共に王都を発ってすぐ、エミールも追いかけた。ユーグもついて行ったということでカゾーランも頭を悩ませたが、ヴァネッサがエミールの身代りになることで、なんとかアンリには露見せずに済んでいる。
何故、ルイーゼがギルバートと共にアルヴィオスへ行ったのか、カゾーランには理由が知らされていない。ミーディアが屋根裏目線で盗み聞きした会話も、核心に触れるものではなかった。中途半端に側仕えの仕事しているせいで、一日中、アンリを観察出来なかったのが仇になった。
今、カゾーランはなにを考えているのだろう。
彼は長年、王家に仕えてきた。戦争を乗り切り、アンリからの信頼も厚いことだろう。
その彼には、なにも知らされない。大事な護衛も、わざわざ領地に引き籠っていた
「あの、カゾーラン伯爵……」
差し出がましいと思いながら、ミーディアはカゾーランに声をかける。カゾーランは横目でミーディアを振り返る。
「なんだ、ミーディアよ」
もう扉の前だ。カゾーランは、おもむろに錠の束を取り出す。
「アンリ様にも、お考えがあるんだと思います。決して、伯爵を疎んじているわけではないと思うんです……きっと、そのうち伯爵にも話してくださると――」
「陛下は話してくださらぬよ。あの方は、このカゾーランを理解しておる」
ガチャンッと、錠が開く音が鳴る。
ミーディアはなにも言えないまま、ただカゾーランの背を見ていることしか出来ない。
カゾーランが部屋に入り、中を探りはじめた。その間、ミーディアは用意していた壺の中に入って、暗い回廊を見張る。
しばらく刻が過ぎると、部屋の中で、重いなにかが動く音がした。カゾーランが本棚の向こうにあった隠し通路を見つけたようだ。
本当に、あった。
自分が発見した構造とはいえ、ミーディアは怖くなってしまう。
これはアンリを裏切る行為だ。
ミーディアは青空色の瞳を揺らして、壺の中で丸まった。だんだん、カゾーランの足音が遠くなっていく。どうやら、隠し扉の向こうは階段のようになっているらしい。
しばらくすると、なにも聞こえなくなった。静寂の王宮に、月の陰が射す。
だが、程なくして、誰かの足音が響いた。まだ遠い。けれども、確実にこちらへ近づいてくる。
あの足音は――わかる。毎日観察しているのだ。馬目線でも、壺目線でも、聞き間違えない。
「どうしよう」
アンリの足音を聞いて、ミーディアは冷や汗が流れた。
こちらへ来られては、不味い。カゾーランを呼び戻すのが早いか。しかし、二人で部屋を出るところを見られてしまう。
ミーディアは急いで壺から出て、身なりを整えた。出来るだけ自然に見えるよう、蝋燭に灯りを点す。
アンリはまだ回廊の向こう側だ。今からなら、部屋から遠ざかるように誘導出来るかもしれない。
「よし……!」
カゾーラン宛てにメモを残して、ミーディアは足音を立てないように回廊を進む。
だが、しばらく進むと、アンリの足音が遠ざかりはじめる。どうやら、執務室に向かっていたわけではないらしい。ミーディアの杞憂に終わりそうで、内心ホッとする。
この際なので、こんな夜更けにアンリがなにをしているのか、見に行くのも悪くないだろう。だいぶ執務室から離れてしまったが、すぐに戻ってくれば大丈夫だと思う。
アンリは回廊の端に位置するバルコニーに身を預けていた。月の灯る夜空に満点の星が広がり、寝静まった王都が見渡せる。
しかし、あのバルコニーの下にある光景を思い出して、ミーディアは視線を伏せた。
かつて、セシリア王妃がアンリのために、
夜中に目が覚めて、庭が見たくなったというところか。
ミーディアはメモを取るのも忘れて、アンリの姿に見入ってしまう。
普段はエミールを覗き見るために脱走したり、政務に対して愚痴をこぼしたりすることが多い。頻繁に殴ってくれだの、縛ってくれだの要求するし、二十年以上王位に就いているとは思えない言動を繰り返す。
だが、歴代の国王の誰よりも民衆に歩み寄る政治を行っている。税率を下げ、市民の地位を向上させた。地方で平然と存在していた農奴の廃止に努め、下級層の政治登用も積極的に行う。十代で即位したにもかかわらず、見事に継承戦争も終結させた。
同一人物とは思えない。二面性のある人。
裏の顔は誰にだってある。
しかし、ミーディアには、アンリの二面性が酷く歪なものに思えることがあるのだ。
亡くなったセシリア王妃の影に囚われている――セシリア王妃が作りたかった国や理想を、ただ夢中で追っている。そんな気がしてしまう。
逆に言えば、それがなければ、音を立てて崩れてしまう脆い人。
「――――ッ!?」
蝋燭の灯が消えた。
背後に気配のようなものを感じ、ミーディアは身構える。だが、そこには誰の姿もない。まるで、実体のない影が通りすぎたような感覚だった。
誰かいたのは確かだ。
まさか、執務室に向かったのだろうか?
「……誰かいるのか?」
今ので、アンリに気づかれてしまった。
声をかけられて、ミーディアは焦ってしまう。ここで逃げると、人を呼ばれる可能性がある。奥で探っているカゾーランのことが露見するのも不味いので、ミーディアは渋々、アンリの前に姿を現すことにした。
「……夜分遅くに、申し訳ありません。アンリ様」
頭を下げるミーディアの姿を見て、アンリが複雑に表情を歪める。
当然か。自分が元妻の思い出に浸っているときに、その生まれ変わりを名乗る娘が現れたのだから。
「屋敷へ帰ったのではなかったのか?」
「いえ……その……うたた寝をしてしまって。気がついたら、こんな時間でした」
苦しい言い訳だと思いつつ、上辺の笑みを浮かべた。だが、アンリは特になにも詮索せず、「そうか」と、一言呟く。
「来るといい。良い風が吹いている」
夜とはいえ、この時期は少々暑い。アンリは軽く手招きして、自分の隣に来るよう促した。ミーディアは丁寧に頭を下げ、素直にアンリの近くへ歩み寄る。
「こうやって、二人で眺めたこともあった」
セシリア王妃との思い出だ。勿論、前世馬であった自分は知らない話である。ミーディアはあいまいに頷いて、バルコニーに手をかけた。
その手に、アンリがさり気なく自分の手を重ねる。ミーディアは驚いて、隣を見あげた。
「セシリア」
はっきりと元妻の名を呼んで、アンリがミーディアの手を握る。ミーディアは戸惑ってしまい、表情を震わせた。
「……はい、アンリ様」
やっとのことで声を絞り出し、笑顔を繕う。
自分が吐いた嘘だ。こうなることを望んだのは、ミーディア自身ではないか。言い聞かせながら、思い出せる限り、セシリア王妃に近い表情を作った。
おもむろに、アンリがミーディアに合わせて身を屈める。長い指先が、ミーディアの顔に触れた。
多少の年齢は感じるものの、未だに青年のような覇気と若々しさを保つ顔。少し垂れた目元や、豊かなブルネットの髪は息子のエミールとそっくりだ。
ミーディアはギュッと拳を握りしめて、目を瞑る。顔に力が入ってしまっただろうか。でも、なんだかアンリを直視し続けることが出来なかった。
顔に触れていた指が長い黒髪をすくう。
不意に頭を撫でる動作に変わり、ミーディアは恐る恐る目を開けた。アンリに撫でてもらうのは、久しぶりだ。シエルに化けて謁見の警護をしたとき以来かもしれない。
「無理はするな」
呟かれた瞬間、ミーディアは唇を噛んだ。
嘘だと、バレている。
ミーディアはセシリア王妃の生まれ変わりなどではない。アンリは、きっとわかっている。そう読み取って、ミーディアは脱力するように、その場に崩れた。
「……すみません……申し訳ありませんっ」
顔を両手で覆って、謝罪の言葉を呟き続けた。涙は出ない。しかし、いつ溢れてもおかしくなかった。
「私がセシリアを間違えるはずがないではないか……」
呆れられているのだろうか。それとも、怒っているのか。声から読むことは出来なかった。
ミーディアは縋るような想いで、アンリを見あげる。
アンリは感情の読み取れない複雑な表情で、ミーディアの前に腰を落とした。
「私を騙したのには、目的があったのか?」
「……それは……」
「カスリール侯爵はそこまでして、娘を王妃にしたかったと――」
「違いますっ! わたしが勝手に……勝手に……うそを……」
言葉が上手く声にならない。
次第に涙が溢れて、息が出来ないほど喉が詰まった。少し声を発するだけで、嗚咽に変わってしまう。
「わた……わたしが、陛下を……勝手にお慕い……お慕いしているんですっ。信じて、もらえないかも……しれませんが! わたし、ずっと、ずっと……う、馬目線でも……ずっと……!」
なにを言っているのか、自分でもわからなくなる。
前世で撫でられたときから、ずっとアンリのことを慕っていたと思う。元主人であるクロードに尽くしたいと思うのとは、別の感情だ。
馬目線では気づくことが出来なかったが、人間に転生して、いろいろわかった。
きっと、これは恋だ。前世から、ミーディアはアンリに恋をしている。アンリの心が自分に向けられることはないのに、諦めることが出来ない。
「おそばに、いられたら……それで、よかったんですぅッ……ど、どうしても、陛下の……おそばに……いたくてぇッ」
アンリは半信半疑といった表情でミーディアを見ている。
「……私は今年で四十だ。そなたくらい容姿の整った年頃の令嬢が本気にする相手では……」
「でも、
鼻水まで垂れて、情けない声が出てしまう。
本当に年頃の令嬢とは思えない醜態だ。嫁入り前の十五歳の令嬢が四十路の男を相手に本気で片恋慕して、声をあげて泣いている。最悪だ。たぶん、エミールより酷い顔をしている。
「……嘘では、なさそうだな」
アンリは軽く息を吐いて、困った表情を浮かべる。こんな風に泣き崩れられてしまったら、誰だって困惑するだろう。恥ずかしいけれど、それどころではない。
「私はそなたの気持ちには応えられない。というよりは……戸惑いの方が強い。正直なところ、どうすればいいのかわからないし、セシリア以外の女性のことを考えたことがない。他の誰かなど、想像も出来ないのだよ」
嗚咽を漏らして泣き続けるミーディアの頭に、アンリが手を置く。こんなときだというのに、こうやって撫でられていると何故だか嬉しい。きっと、ミーディアはこの手に撫でられるのが好きなのだと自覚した。
「それでもいいなら、今まで通りにしてもらっても構わんよ。ミーディア」
ミーディアは信じられずに、涙がこぼれる視界でアンリを見た。アンリは困った様子だが、それでも、精一杯、優しげな表情を作ろうとしてくれていることがわかる。
「
「良い。爺は縛るのが下手だし、他の者には頼み辛いからな」
このまま、おそばにいてもいいんですか?
ミーディアは震える唇を噛み締めるが、耐えきれない。本格的に子供のようにわんわん泣き声をあげてしまった。十を越えた辺りから、こんなに思いっきり泣いた記憶はない。
「娘が出来た気分だよ……悪い気がしないのは、何故かな」
早く泣きやみなさい。そう言わんばかりに、アンリはミーディアの頭を抱えて背中を軽く撫でてくれた。
あまり胸筋は発達していない。腕も細くて、逞しさや力強さとはほど遠かった。きっと、ミーディアの方が何倍も鍛えているし、強いだろう。
それでも、その胸が頼もしくて、ミーディアは気が済むまで声をあげて泣いた。
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