第59話

 

 

 

 悲鳴はヴァネッサのものだった。

 声を頼りにルイーゼとユーグが駆けつけると、暴れる馬の首にヴァネッサがしがみついていた。あれでは、馬の興奮はおさまらない。

 馬はヴァネッサを乗せたまま、どんどん林の奥へと走って行ってしまう。

 この先には、川もある。早く止めなくては。


「姐さん、私が行くわ!」


 二人乗りでは暴走馬に追いつけないと判断し、ユーグが降りるよう促す。ルイーゼは黙って頷いて従うことにする。


「まったく、世話が焼ける!」


 ユーグは軽く悪態をつきながら、馬を駆ってヴァネッサを追いかけていった。

 一人残されて、ルイーゼは辺りを見回す。

 馬にはヴァネッサしか乗っていなかった。ということは、近くにギルバートがいるのではないか。

 置いて行かれたのか、振り落とされたのか。


「――ハッ! 甘いですわ!」


 刹那、ルイーゼは気配を感じて木刀を抜く。

 そして、腰に提げていた生卵の袋に伸びていた手を振り払った。


「おっと、気づかれた」


 木刀の一閃を免れて、背後に立った人物――ギルバートが薄く笑う。


「アンタ、ほんと変な令嬢だな」

「お褒め頂きまして、光栄ですわ」


 今回のルールには、一つ抜け穴がある。

 見つけた卵は、割らずに持ち帰ること。

 つまり、相手の卵を割ってしまっても、勝てるのだ。相方が大変な状況だというのに、この王子は、そんなことまでして勝ちにこだわると言うのか。


「意地汚いですわね」

「勝てばいいんだよ」


 いつかと同じ台詞を吐きながら、ギルバートは腰から短剣を抜く。少女相手に本気のようだ。もっとも、ルイーゼは少しも負けてやるつもりはないが。


「俺には目的があるからな」


 言いながらギルバートは、ルイーゼの卵を狙って短剣を振る。

 ルイーゼは横に避けつつ、左手でプチ・エクスカリバーちゃんを抜き放った。二刀流である。相手が刃物を使っているので、遠慮することはないだろう。


「月に代わって、お仕置きが必要のようですわね!」


 某セーラー服美少女戦士のようなポーズを取り、ルイーゼは一気にギルバートとの間合いを詰める。狙うは、勿論、彼が腰に提げる生卵の袋だ。

 ギルバートの振る短剣を、プチ・エクスカリバーちゃんで受ける。間髪を容れずに、右手の木刀で卵を狙った。


「おおっと」


 だが、寸でのところで避けられてしまう。


「怖いな……剣筋が読めない。それ、どこで覚えたんだ?」

「あなたには、関係なくてよ」


 ルイーゼの体力では、戦える時間に限りがある。短期決戦に持ち込まなければならない。

 呼吸を整え、ギルバートに向けて鋭い眼光を放った。


「前世、とか」


 強かな笑みで言われ、ルイーゼはつい動きを止めてしまう。

 以前にも言われたことがある。

 この男は、ルイーゼに前世の記憶があることを知っているのか。いや、けれども、前世オカマなどと適当なことも言われたりもした。

 ルイーゼが様子をうかがっていると、ギルバートは艶のある笑みを浮かべる。


「アンタ、人魚の宝珠マーメイドロワイヤルを持っているんだろう?」

「はあ? 存じ上げません!」


 何故、人魚の宝珠の名前が出てくるのか。

 しかし、その宝珠は自分の前世が盗んだまま、どこかへ消えてしまった代物だ。やはり、彼にはルイーゼの前世がわかるということなのか。

 ルイーゼが首狩り騎士だったことを知るのは、カゾーランとミーディアだけだ。二人がわざわざ異国の王子に漏らしたとは考えにくい。


「知らないはずはないと思うんだがなぁ……今、そこにある」


 は?


 ギルバートの言葉に、ルイーゼは耳を疑った。




 † † † † † † †




 目を開けると、視界がグラグラと揺れている。

 林の木々が間近に迫ってきて、恐怖ばかりが胸を占めた。時折、細かい枝葉が頭をかすめて髪型を乱す感覚がある。

 ヴァネッサは馬の首にしがみつくので必死だった。

 風と蹄の音で、耳がどうかしてしまいそうだ。先ほどまで聞こえていた木葉の音も、鳥の囀りも嘘みたいに掻き消えている。

 このまま、どこかで落馬して死ぬのかしら。そんなことを考えてしまう。


「しっかりしなさい!」


 風と蹄の音しか聞こえなかった世界に、声が響く。

 だが、目を開けるのが怖い。ヴァネッサは馬にしがみついたまま、ただギュッと瞼に力を入れる。


「落ち着いて!」


 必死に叫ぶ声は、誰だろう。ヴァネッサは恐怖しながらも、瞼の力を緩めた。

 薄らと涙に霞む視界。飛ぶように流れる景色。その中で、ヴァネッサの馬と並走する者の姿を見つける。


 栗毛の馬を駆る影。

 真紅の制服に身を包み、緩やかな赤毛を揺らす騎士。ヴァネッサは信じられずに、目を見開いた。

 ユーグ様?

 口を開けると、舌を噛みそうになってしまう。ヴァネッサは声も上がらないまま、並走するユーグを見つめた。


「手綱の力を抜いて。鞍に捕まりながら落ち着いて!」


 ユーグがなにを言っているのか、理解出来ない。

 手綱の力を抜く? 鞍に捕まる? どうやって?

 この状況で、落ち着けと彼は叫んでいた。

 そんなこと出来ない。怖い。ヴァネッサは首を振って、再び目を瞑ってしまう。


「ヴァネッサ、いいから落ち着くの!」


 はっきりと自分の名を呼ばれ、ヴァネッサは目を見開く。

 覚えていてくれた? 私の名を?

 再び視線を向けると、ユーグは必死にヴァネッサに呼びかけ続けている。まっすぐな視線を注がれて、ヴァネッサは息を呑む。


 それまで、風と蹄の音しか耳に入っていなかった。

 だが、その瞬間から、ユーグの声だけが聞こえるようになる。まるで、水を打ったように、その他の音が聞こえなくなっていく。


 ヴァネッサは深く息を吸い、馬の首を放す。ぎゅうぎゅうに握りしめていた手綱から力を抜き、鞍に捕まった。

 息を吸い、吐く。それだけに集中した。

 すると、あれだけ暴れていた馬の速度が落ちていく。そして、嘘のように大人しくなってしまった。

 ヴァネッサの恐怖や緊張が馬を暴走させていたのだ。

 止まった馬の上で、ヴァネッサは情けなく項垂れる。もう、身体のどこにも力が入らない。


「はあ。まったく、世話が焼けるんだから」


 ユーグが自分の馬から降り、悪態をつく。その動作を眺めていたヴァネッサだが、不意に、視界が揺らぐことに気づいた。

 時は既に遅く、ヴァネッサの身体は人形のように傾いて、地面へと吸い寄せられていった。


 鞍から滑り落ちたヴァネッサの身体を、ユーグが受け止める。

 思った以上にしっかりした腕に抱えられて、ヴァネッサは口をパクパクと開閉させた。


「あ、あ、あ、す、す……す、すみませ……」

「やだ。こういうときは、お礼を言うものよ。そんなことも、わからないの?」


 キツい視線で睨みつけられ、ヴァネッサは頷きながら、「ありがとうございます……」と言い直した。

 以前に会話したときと比べると、ユーグはとても大人になったと思う。

 声が低く、背も伸びて、体格も随分と男らしくなった。その腕に支えられると、なんだか別人と接している気分になってしまう。


「立てる?」


 問われて、ヴァネッサは足に力を入れた。だが、上手く力が入らない。

 慣れない馬に揺られたせいなのか、緊張が解けた安心感からか。足腰が痛くてビクともしなかった。お尻も皮も剥けそうだ。

 ユーグはわざとらしいくらい大きな溜息をついて、二頭の馬を手近な木に結びつける。そして、座り込んでしまったヴァネッサの前に背を向けて屈んだ。


「とりあえず、人がいるところへ帰るわよ」

「え……」

「早く乗りなさいよ、グズグズした雌豚ちゃんね。だから、女は嫌いなのよ」


 相変わらず、女嫌いで口が悪い。

 いつかの少年と同じだと思って、ヴァネッサは少しだけ笑ってしまう。表情を作る余裕があることに、自分でも驚いた。


「なんで、笑うのよ」


 どうして笑われたのかわからないユーグが、ブスッとした表情を浮かべる。ヴァネッサはその背に負ぶさりながら、小さく笑声を転がした。


「ユーグ様が覚えていてくれて、嬉しいのですわ」


 昔の話だ。忘れられていると思っていた。

 しかし、ユーグはヴァネッサの名前を覚えていた。普段、人前では猫を被るようになっていたはずなのに、今は普通に話している。ヴァネッサが、あのとき迷子になった少女だと、わかっているのだ。


 それが嬉しかった。


「私、一度聞いた名前を忘れるほど、鳥頭じゃないんだけど」

「記憶に留めて貰っているだけで、嬉しいのですわ」


 想い人に覚えてもらっている。こんなに嬉しいことはない。

 ヴァネッサは広い背中の温もりを感じながら、あのときのことを思い出す。

 見ているだけの辛くて長い恋だけど、こんなに嬉しいと思ったことは一度もない。


「……シャリエのご令嬢と、どうかお幸せに」


 まだ決闘は終わっていない。勝負に負けたと決まったわけではないのに、自然とそんな言葉が口から漏れる。嫉妬に狂っていたのが、嘘みたいだ。

 たぶん、ルイーゼのことは好きではない。今後、好きになれそうにもない。顔を見たら、また意地を張ってしまうだろう。けれども、今は関係ないように思われた。


「あれ、嘘だから」

「え?」


 吐き捨てるような言葉に耳を疑う。


「殿下のためよ……私、別に婚約してないんだから」

「え、え、え!?」


 状況が呑み込めない。

 混乱していると、ユーグは付け足すように、「姐さんは好きだけど、結婚なんて、御免よ」と呟いた。とにかく、結婚の意思はないらしい。

 ヴァネッサは安心しつつ、複雑な気分になった。なんだか、馬鹿らしい。自分はなにに怒っていたのだろう。

 恥ずかしい。ヴァネッサは羞恥に染まった顔を隠すように、ユーグの背に埋めた。


「ちょっと、変なことしないでよ! くすぐったい。そんなことするんなら、自分で歩いてよね!」

「も、申し訳ありませんっ」


 ヴァネッサは謝りながら、顔を背中から離す。考えてみれば、今は誰もいない。顔を隠す必要などないではないか。

 そういえば、昔も似たような会話をした気がする。


「あの、ユーグ様……」

「なによ」


 ヴァネッサの問いかけに、ユーグは煩わしそうに振り返る。間近で見る横顔が美しくて、思わず見惚れてしまいそうになった。

 ヴァネッサは再び顔を隠してしまいたい衝動を抑えながら、恐る恐る口を開く。


「図々しいかもしれませんが……また、お声を掛けてもよろしいでしょうか?」


 実におこがましいと思う。

 ユーグに存在を覚えていてもらった程度で、舞い上がり過ぎだと、自分でも呆れた。

 でも、こんな機会でもなければ、再び話すことも触れることも叶わない。また遠くから眺める片想いに逆戻りだ。

 どうせ拒絶されるなら、あっさり断られた方が良い。


「好きにすれば?」

「え」


 サラリと了承されて、ヴァネッサは何度目かわからない混乱に苛まれた。


「姐さんほどじゃないけど、なかなか根性あるもの……ちょっとは、成長したわね」


 急に視界が滲む。

 涙があふれているのだと気づいたときには、頬を熱い雫が伝っていた。ポロポロとこぼれる涙を止めることが出来ず、ヴァネッサは声を上げて泣き出してしまう。

 まるで、子供だ。


「ちょっと、制服汚したら承知しないんだから!」

「……申し訳ありません……ありがとうございます……ありがとうございます……!」


 なにを言われても嬉しい。罵られていても、会話しているのだと思うだけで、胸が温かくて仕方がない。


 エミール王子に「恋は辛い。でも、楽しいこともある」と言った。もう一度会話する機会があったら、ヴァネッサはこう付け足したいと思う。


 恋は辛い。でも、楽しいこともある。

 そして、それは自分では抑えることの出来ない感情。

 だから、精一杯正直な恋をすることは、とても幸せなのだと。

  

  

 

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