或る伯爵の告白 後編
忍び足は得意である。
ドレスの裾を摘まんで、リュシアンヌは息を潜めた。
今日はセシリア王妃と結託して王宮で待ち伏せてみたが、逃げられてしまった。だが、後から得た情報によると、カゾーランは久々に休みを言い渡されたらしい。
ということは、今日は屋敷に帰ってくるのだ。
寝室で待ち伏せて驚かせてやろう。
押し倒して既成事実を作ってやるほかない。むしろ、そうしてしまえと、昼間にセシリア王妃が言っていた。
ああ見えて、なかなか積極的な王妃様だと、リュシアンヌは感心している。きっと、そうやって国王様も虜にしたのだ。そうに違いない。
先輩既婚者の意見は素直に聞くものだ。リュシアンヌは「ふふふふ」と笑声をこぼしながら、カゾーランの寝室へと滑りこんでいった。
寝室には、まだ誰もいない。
リュシアンヌはフカフカの寝台に飛び乗って身を預けた。
普段、カゾーランは王都を空けているか、王宮に詰めているかのどちらかなので、残念ながら、匂いは残っていない。洗いたてのシーツの香りを嗅いで、リュシアンヌは息をついた。
何故か彼がリュシアンヌを避けていることには気づいている。
たぶん、初陣の頃からだ。カゾーランは執拗にリュシアンヌから逃げて、結婚の話もしてくれない。
他の女の人と寝ているのも、知っている。みんな噂しているのだ。女を見たら、誰にでも手をつけるとか、ダンスは踊らないが寝台ではよく踊りたがるとか、そんな類の話ばかり。
リュシアンヌが社交界へ出向くと、不躾に「いつ婚約を解消するおつもりですか?」と聞かれたこともあった。
そうなってしまった詳しい理由は、よくわからない。
昔は、なんでも話してくれた。幼馴染と呼ぶには親密で、恋人と呼ぶには物足りない。適切な婚約者の距離を保ちつつ、親しい関係を築いていたと思う。
彼にとって特別な存在なのだと、勝手に自惚れていた。
感情に正直で、すぐに怒ったり、泣いたり、忙しい幼少時代だった。きっと、それは今でも変わっていないだろう。
話してくれないということは、リュシアンヌには理解出来ないことなのだろう、と思う。
でも、話してくれないことは、理解出来ないことよりも辛いとも思っている。
ねえ、エリック。あたくしでは、ダメだったの?
「――――」
「…………」
誰かの声が聞こえる。話し声?
一人は男の声だとわかる。そして、もう一人は明るい女の声。
リュシアンヌはとっさに身を起こし、辺りを見回した。
「ん? またどうかしたの?」
部屋に入ってすぐに立ち止まったカゾーランの顔を、女が覗き込む。
「……いや、なにも」
カゾーランは少し間を空けたあとに短く答える。
「ねえ、エリック?」
女が悪戯っぽく笑いながら、名前を呼ぶ。カゾーランがあからさまに眉間にしわを寄せるが、女は構わず腕に纏わりついてきた。
「あら、駄目だったの?」
「……私はもう伯爵位を継いだのだ」
「ふうん、そう。お堅いのね、伯爵様」
どっちでもいいじゃない。女はそう言いたげに肩を竦めた。この問答を続けるのは、少々面倒くさい。
カゾーランは半ば乱暴に女の手を引き、寝台まで導く。そして、少しだけシワになったシーツの上に腰を深く降ろした。
「え、もう?」
手を引いて膝の上に乗せてやると、女が悪戯っぽく笑う。
少し雑な扱いだったと思ったが、相手は気にしていないらしい。むしろ、乗り気のようだ。こうして見ると、今更だが色気のある女だと気づく。確か、どこかの未亡人だったか。
女は自分から身を寄せるように軽く口づけてきた。
二人分の体重が乗り、寝台が音を立てて軋む。
熱いくらいの体温が伝わり、寒く冷たいカゾーランの腕を温めていく。口づけは軽く、次第に探るように深く、求めるように熱く。差し出される舌を絡め取って逃がさない。息が出来ないくらい貪ると、自然と互いに荒っぽくなっていく。
濃厚すぎる熱に思考がぼんやりとしてくる。一時的に寒さを忘れ、熱すぎる体温に皮膚が汗をかきはじめていた。
腰に手を回してやると、女が身を傾けてくる。カゾーランはそれを抱え込むように身をずらした。自然な動作で女が寝台に転がり、自分がその上に身を重ねる形となった。
寝台が泣くように軋む。
「変よ……また泣いてるの?」
女に指摘されて、カゾーランは我に返る。
夜の闇を映す窓ガラスで、自らの姿を確認した。
寝台に横たわる女を組み敷く形で、男は阿呆みたいに涙を流していた。その様が酷く間抜け見えて、呆気に取られるほどだ。
「ねえ、――」
「すまぬ……体調が優れないようだ」
そんな有体な言い訳を唱えて、カゾーランは伸ばされた手を振り払った。突然態度を変えられたことに気分を害したのか、女は怪訝そうに眉を寄せる。
それでも、右手を顔に当てて俯いてしまったカゾーランを見て、なにかを感じ取ったのか。女は表情を曇らせながらも寝台から降り、衣服を整えた。去るときに「じゃあ、またね。伯爵様」と言っていたが、あまり興味はない。
シンと静まり返った部屋。
「そこにいるのであろう?」
おもむろに口を開く。
部屋に入った瞬間から、違和感に気づいていた。寝台には、明らかに誰かが転がった形跡があり、人の気配も感じ取れた。
最初から、カゾーランはリュシアンヌが部屋にいることに、気がついていた。
「相変わらずの泣き虫なのですね」
寝台の下から声がする。
「子供のような言い方は止さぬか」
「あたくしにとったら、泣き虫で怒りん坊のエリックのままにございます」
ようやく、寝台の下から手が伸びる。次いで、埃を纏った亜麻色の髪が這い出てきた。年頃の令嬢にあるまじき醜態だ。
「……お前もな」
カゾーランはリュシアンヌの腕を掴み、少し乱暴に立ちあがらせてやる。歳の割に小柄な婚約者は人形のように大人しく従った。だが、目だけは睨みつけるようにカゾーランを見上げている。
「酷い顔だな」
お互いに。そう付け加えて、カゾーランは寝台の横に置いてある水盤を視線で示した。
泣き腫らした涙の跡に埃がついている。年頃の娘がする顔ではない。リュシアンヌは、しばらくなにも言わずにカゾーランを見上げていたが、やがて、水盤で顔を洗い流した。
「最初から、気づいていたのでしょう?」
そう言われて、カゾーランは一瞬閉口する。リュシアンヌは振り返らずに、顔についた水分を拭き取っていく。
「……そうだ」
潔く肯定した。
「知っていて、あの方をお抱きになろうと?」
「……そうだ」
最低の問答だ。婚約者が部屋に隠れていると知りながら、浮気を働く不貞者。滑稽を通り越して、呆れてしまう。自分でも思うのだから、きっと、リュシアンヌの考えていることは、もっと酷いだろう。
だから、次の言葉に心臓が止まりそうだった。
「あたくしに婚約を破棄させようとお考えだったのでしょう?」
そう言って、彼女は少しだけ笑みを作った。予想外の反応に、カゾーランは次の言葉を見失ってしまう。
「あなたって、本当にわかりやすい人。国王様に仕えているのだから、もう少し駆け引きというものを覚えては如何?」
カゾーランからリュシアンヌとの婚約を解消することは出来ない。幼少から世話になったバイエ伯爵家への恩立てがある。
それに、男の側から婚約解消を言い渡すことは、相手の女に非があったのだと周囲に勘繰らせてしまうのだ。十八にもなって婚約解消を言い渡された令嬢など、次の貰い手がつかない可能性もある。
良い機会だと思った。
カゾーランでは、リュシアンヌと結婚は出来ない。結婚するに値しない。
それなら、いっそ彼女の方から婚約解消を言い出せば。そう考えてしまった。
現に、カゾーランの女癖は周知の事実だ。誰もリュシアンヌから婚約破棄したところで、咎めはしないだろう。むしろ、秒読みだとも言われていた。
「本気でそう考えていたなら、中断などしなければ良かったのに」
リュシアンヌは皮肉めいた表情で唇の端を吊り上げた。強がっているときの表情だ。声が震えている。言いながら、彼女はまた泣き出してしまいそうだった。
「馬鹿なことを……」
必死で耐えている姿を見ると、どうしていいのかわからなくなる。こんな顔をさせたのは、自分の意思だというのに。
「お前が泣いているのに、耐えられるはずがなかろう……」
結局、カゾーランの方が耐えられなくなってしまった。
不貞を働いているという事実はいつもと変わらないはずなのに。今更遅いと思いながら、カゾーランは自分の行いに耐えることが出来なくなっていた。
最低だ。
「エリック。あたくしでは、駄目だったの?」
おもむろに、リュシアンヌがカゾーランの手を握る。
ほんのりと伝わる体温が心地良すぎる。その心地良さが、波のように押し寄せて胸を締めつけた。カゾーランは逆に身震いして、リュシアンヌの手を払う。
駄目ではない。
きっと、リュシアンヌに癒されることを求めている。むしろ、その温かさが欲しいとさえ思えた。狂おしいほどに、目の前の娘を自分の腕に収めてしまいたい。頭がどうかしてしまいそうだ。
初陣に出る前よりも、婚約が決まったときよりも、出会った頃よりも……ずっと、今の方が彼女を欲していると確信出来る。
リュシアンヌはカゾーランの傷を埋められる。冷たすぎるこの手を温めて、寒すぎる死の底へと沈みそうな思考を引き上げてくれるはずだ。
寒さには耐えられない。
だが、そんな臆病な欲求のために、彼女を利用することが許せなかった。
力を求めたのは自分自身だ。そして、望み通りの地位も手に入れた。
これは代償だ。守るという欲求に対する、代償。
そんなものを、どうしてリュシアンヌに押し付けることが出来る? そんなもののために、どうして利用することが出来る?
こんなに冷たい腕で、どうやって彼女に触れればいい?
「エリックがなにを悩んでいるのか、あたくしにはわかりません。きっと、理解出来ないことなのでしょう……でも、これだけはわかります」
リュシアンヌは再び、カゾーランの手を握る。今度は、振り払われないように、両手でしっかりと包み込まれた。
「あなたが怖がっていることくらい、わかるのです。大丈夫。ずっとそばにいますから。エリックが思っているよりも、あたくしは強いのよ?」
怖がっている?
カゾーランは思わず目を見開いた。
「どんなことも、一緒に背負う覚悟はあります。だから、逃げないでほしいの」
「一緒、に……?」
ああ、そうか。今更ながら、自覚した。
リュシアンヌを利用することが許せなかったのではない。
ただ癒すだけの存在に貶めたくなかった。
この娘も、他の女と同じになるのではないか。互いの距離が揺らいでしまうことが怖かったのだ。
幼馴染にしては親密な、されど、恋人とは呼べない。婚約者として、適切な距離。そんな心地の良い距離を壊したとき、どうなってしまうのか怖い。
この冷たくて凍りそうな手で触れてしまっても良いのか、わからない。
他の女と同じになど、なるはずもないというのに。
「エリックは本当に泣き虫ですのね」
昔みたいに笑いながら、リュシアンヌはカゾーランの頬に手を伸ばした。涙の滴が白い指先に掬いとられる。
他の女に触られることに、大した感情を持ったことがない。だが、今こうして、リュシアンヌに触れられて、嬉しいと感じる。身体の奥がくすぐったく思えて、どんな顔をすればいいのか、わからなくなった。
「いつまでも、お慕いしています。婚約破棄など、絶対にしてあげません」
強がるように笑う表情が震えている。彼女も怖がっているのだと気づき、カゾーランは動かずにはいられなかった。
カゾーランはリュシアンヌの手首を掴み、そのまま腕に抱きすくめてしまう。小さくて細い身体は見事に腕の中に収まり、硬直していた。
「ちょ、ちょっと!」
そのまま倒れるように寝台に転がったことで、リュシアンヌが抗議の声をあげる。細すぎる手で厚い胸板を叩かれるが、大して痛くはない。
「こういうことは、よくありませんから! まだ未婚ですし……! 結婚の確約も頂いておりません!」
「そうか……ならば、結婚するか。私が王都にいる間に」
「だから、結婚の確約を……って、今、サラリと大事なことを言いましたか?」
「うむ。『この戦いが終わったら、結婚しよう』と言うのは、フラグとか言うものが立って縁起が悪いとクロードが言っておったからな。出て行く前に結婚すべきだろう。明日、教会に日取りを確かめに行ってくる」
「あ、あの、その……急過ぎませんか!?」
結婚の確約を迫り続けていた割に、いざとなったらリュシアンヌは顔を真っ赤にして声を窄めていった。
「そう言えば、寝室に忍び込んで、なにをしようとしておったのかな?」
わざと嫌味な質問をすると、リュシアンヌは目を泳がせてしまった。顔が熟れたリンゴのように紅く染まり、甘い香りがしてきそうだ。
大方、誰かに既成事実を作ってしまえと入れ知恵されたのだろう。だが、あまり具体的な想像には至っていなかったようだ。見た目だけではなく、そういう類に関しても、歳の割に幼い。
「からかって悪かった」
そう言いながら解放すると、リュシアンヌは怯えた子リスのように広い寝台の端までモゾモゾと逃げていった。だが、すぐに戸惑いながら、控えめに振り返る。
「あの……ま、まあ……すぐに結婚するのですし、お試しなら、よくってよ?」
恥ずかしそうにもじもじと俯き、リュシアンヌは身を乗り出した。あまり色気はないが、可愛らしくある。
「添い寝だけですから。それ以上は、まだです! 勝手なことをしたら、叫びますからね!」
カゾーランが返事をする前に、リュシアンヌは再び腕の中に戻ってきた。顔を見られたくないのか、背を向けている。
自分の手癖が悪いという自覚はあったが、こういう反応をされたことはないので、調子が狂った。
「抱き締めるのは、構わんか?」
「…………ど、どうぞっ」
背中を包むように抱き締めた。
熱と跳ねるような鼓動が伝わり、カゾーランは思わず笑みを浮かべた。冷え切った身体が芯から温まっていくのがわかる。充分すぎるほど満たされていった。
「口づけは?」
「…………!」
からかうつもりで質問すると、リュシアンヌはビクッとぎこちなく身体を震わせた。想定内の初心な反応を楽しんで、カゾーランは笑声をあげる。
「エリック!」
けれども、リュシアンヌは短く叫び、くるりとカゾーランの方に顔を向けた。
返事をする間もなく、リュシアンヌは素早く身を乗り出す。
軽く、一瞬だけ唇が触れる。口づけと言うには拙く、押し付けただけの行為だ。雛鳥に軽く啄ばまれた気分だった。
「見せつけられて、癪だったので……!」
リュシアンヌはブスッと言い放つ。白い頬がぷくっと膨らみ、色気があるとは言い難い仕草だ。子供の頃のリュシアンヌと少しも変わらない。幼くて、純真無垢な少女のままだと感じる。
そんな彼女を手に入れることを勿体無いと思う一方で、自分の手で染めてみたいという好奇心も湧く。どこを食べても甘い味がしそうだ。唇と言わず、全て自分のものにしてしまいたい。
わがままな話だ。ずっと、拒んできたというのに。自分の貪欲さに呆れた。
筋肉が足りないのかもしれない。明日から、腹筋を更に増やすことにしよう。背筋と腕立て伏せも倍しなければなるまい。そうしよう、それがいい。むしろ、そうするしかない。
「悪かった……リュシィ、ありがとう」
そう言って亜麻色の髪を撫でてやる。子供扱いだったかと思ったが、リュシアンヌは概ね満足したようで、カゾーランの腕の中に戻ってきた。
やはり、色気はない。だが、愛おしい。
腕の中に留まる温もりを逃がさないように、リュシアンヌをきつく抱き締めた。
「エリックの腕、昔とあまり変わらなくて安心しました」
リュシアンヌが顔をあげずに呟いた。声音で笑っていることがわかる。
「とても温かいのよ。この手で、ずっと、あたくしたちを守ってくれていたのですね」
温かい? 私の腕が? カゾーランは驚いて目を見開く。
あんなに冷たくて寒いのに。凍てつくように……朝起きれば、そのまま死の闇に引き摺りこまれる気さえしたのに。
この腕は、温かいのか……?
見下ろすと、リュシアンヌが既に寝息を立てていた。寝つきが良すぎる。
だが、その表情を見てカゾーランは若草色の瞳に笑みを描いた。
すっかりと安堵した様子で丸くなって眠る婚約者。子供のように愛らしく、温かい。安らかな寝顔は、とても冷たい腕に抱かれているとは思えなかった。
数日のうちに二人は教会で式を挙げて周囲を驚かせた。
「あの、女を見れば誰にでも手を出すカゾーラン伯爵が、ついに結婚ですって!?」
「バイエの令嬢は、よく耐えたものです」
「てっきり、婚約は解消されるものだと思っていましたわ」
「今度は離縁の早さに賭けましょう」
「俺が真面目に仕事している間に結婚だと……? くそ、リア充は爆発しろ。末永く爆発しろ。あと、俺にも休みをくれ……!」
そんな言葉が飛び交っていたという。
その頃から、カゾーランに纏わる女性関係の噂はピタリと止んだ。
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