余話
或る牝馬の純情
風がうなり、蹄が歌う。
息を切らす間もなく、長い脚を前へ前へと出して突き進む。
その軍馬――ドロテは粉塵舞う戦場を、矢のように駆け抜けていく。
ただ主の操る手綱の方向へと。
「いたぞ、撃て!」
敵将を見つけたと喚き立てる兵士たちが矢を放つ。それを嘲笑うように、黒衣の騎士――クロード・オーバンは鞭をふるった。
応えるように、ドロテは走る。
(わかっています、ご主人様! あんなヤツらに、わたしは負けません!)
馬語で必死にアピールするが、主人には、きっと「ヒヒィーン」としか聞こえていないだろう。
それでもいいのだ。主人の足となって駆けるのが、ドロテという馬の役目なのだから。
漆黒の毛並みをまとう身体のすぐ横を、矢がかすめていく。
当たるかもしれないという恐怖はある。しかし、たとえ命中しても、命が尽きるまで止まってやるつもりはない。
(それが、馬の美学というものです)
やがて、ドロテは主人を乗せたまま高い崖に行き着く。
反り立つように立ちはだかる崖は壁のようで、とても馬が登れるものではない。ありていに言うと、行き止まりだ。
こんなところへ逃げ込んで、袋のねずみなのではないか? と、疑問に思ったが、口を挟める問題でもない。そもそも、人語が話せない。
主人が手綱を引いてドロテの動きを止める。
ドロテは前足をあげて大きく嘶き、追ってきた兵たちを威嚇してやった。
(見て見て、ご主人様! わたし、かっこいいでしょう!)
ドロテをそこらの馬と一緒にしてもらっては困る。
ロレリア地方で育った最高級の軍馬なのだ。身体が大きくて小回りは利かないかもしれないが、馬力では負けない。
ドロテは鼻息を荒くして、無駄に威張ってみせた。追いついてきた兵士たちが乗る馬は、どれも貧相で、自分にはかなわない。ついでに言えば、乗っている主人もこの中では、ドロテが一番強いと断言する。
(ご主人様は、負けないんだから! がんばって、ご主人様!)
ドロテは「ヒヒィーンヒヒィーン」と応援して、嘶いた。
「……うるさい馬だな」
(はい、ごめんなさいっ。うう、ごめんなさい!)
調子に乗りすぎて、主人に諌められてしまった。
ドロテは頭を垂れて必死に謝るが、たぶん、伝わっていない。
「よくやったな、クロード!」
頭上から声が響く。
見あげると、崖の上から無数の弓兵が顔を出していた。
その中央で指揮を執る青年の姿。
長い赤毛を肩に流して結い、若草色の瞳に好戦的な笑みを浮かべている。均整の整った肢体を純白の甲冑に包んだ優男は崖下に、長槍の矛先を向けた。
主人と同じく軍の指揮を任された【天馬の剣】エリック・ド・カゾーランだ。
「撃て!」
カゾーランの号令で、弓兵が矢を放つ。
矢による一斉攻撃を受けて、敵兵たちは慄き、倒れ、陣形を崩していった。これで相手の主力騎兵部隊は壊滅である。
主人は今回、囮となってこの地形へ兵たちを誘い込む役割を担っていたようだ。先ほどから機嫌が悪かったのは、その役回りに不服だからである。
(でも、並みの兵では、こんな働きできませんよ、ご主人様! 元気出してください。わたしと一緒に、がんばったじゃありませんか!)
「……うるさい」
興奮して、つい何度も地を蹴っていると、クロードが煩わしそうに息をついた。
人間には馬語がわからないので、仕方がない。
ドロテはしょんぼりと首を落としながら、口をモゴモゴとさせてみた。
「クロード、ご苦労だな」
戦が終わって鞍から降りるクロードに、カゾーランが労いの声をかける。
人好きのする甘い表情で笑うカゾーランを、クロードは心底嫌そうな目つきで睨んでいた。ドロテも、主人の不機嫌を察知して鼻を鳴らしてやる。
「俺はお前の駒ではないぞ。二度と引き受けん」
「なにを言っておる。おぬしでないと、できぬ仕事よ。それに、このカゾーランの策に使われるのだ。ありがたく思えよ」
実際、先の戦局は非常に厳しいものだった。
敵のオルマーン軍一万に対して、フランセール軍は二千。劣勢を覆すための策をカゾーランが講じて騎兵を壊滅させ、見事に勝利をおさめたというわけだ。
だが、クロードにはそれが気に入らないようだった。
「いくらなんでも、一万人は斬れぬだろう? このカゾーランが勝たせてやったのだ」
「お前は馬鹿か? 馬と鹿か? 自惚れるのも、たいがいにしろ」
(ご主人様、馬と鹿は聞き捨てなりません! なんだか、馬が馬鹿にされている気がします!)
ドロテは二人の間へと割って入るように、首を突っ込んだ。
おそらく、意図は伝わっていない。なにせ、ドロテの言葉は、すべて人間には「ヒヒィーンヒヒィーン」としか聞こえないのだから。クロードは煩わしそうに顔を背けてしまった。
「そうか、そうか。ドロテはすねているのだな? おぬしもよくがんばったからな。このカゾーランが褒めておいてやろう」
カゾーランはドロテの意図が一部伝わったのか、フサフサの鬣を軽く撫でてくれた。
少し意味は違うが、労いの言葉をもらって、ドロテは有頂天になる。自分の主があまり褒めてくれないので、素直に嬉しい。
(ふふふふふ……カゾーラン様、大好き!)
カゾーランの艶やかな赤毛をムシャムシャしながら、ドロテは鼻息を荒くする。
褒められると、ついつい相手の髪をムシャムシャしたくなるのだ。
「こぉら、やめぬか」
(ふふふ、やめませんっ)
主人は、あまりドロテを褒めてはくれない。手入れはするが、ドロテにとっては、とても寂しいのだ。
(いつか、ご主人様にも撫でてもらいたいです……)
これでも、ドロテは転生歴が二回ある。
一度目の馬生は荷物運びのロバだった。地味で平凡、しかし、のんびりとした平和な馬生であった。
二回目は高級軍馬だったので、張り切った。若い貴公子の初陣で華々しい戦場デビューを飾るはずだったのだが……混戦になって主が落馬。自分も足の骨を折って、処分されてしまった。
それに比べて、今回の主人は王国最強と謳われる首狩り騎士。【黒竜の剣】を頂いた正真正銘の勇士だ。
やっと、自分の力が活かされる。
ドロテは今世こそ、活躍してみせると決めていた。
だが、主人は一度も、ドロテの名前を呼んでくれたことがない。そればかりか、あまり撫でないし、どんなにがんばっても褒めない。そんなドロテは厩舎に帰ると、馬仲間から「主に愛されない馬界の面汚し」と罵られる日もあった。
(それでも、いいんです。ご主人様のために、尽くせるのが喜びなんです!)
「馬など、どうでもいいだろう」
「なにを言うておる。馬とて牝だぞ、愛でぬほかなかろう」
「……お前は、女なら馬でもいいんだな」
「はんッ。そんなことだから、おぬしは女心もわからぬのだ。嘆かわしい。ロレリアの令嬢には、いい加減、結婚を申し込んだのだろうな?」
「…………黙れ、女子高生でもあるまいし恋バナに興味はない」
「じょしこうせい? こいばな?」
「だいたい、俺はお前にセシルの話をした覚えはないぞ。誰から聞いた!」
「……さては、まだ求婚しておらぬな。馬鹿な男だ。適齢期の女が、いつ帰ってくるかもわからぬ阿呆の帰りなど、待っているはずがなかろう。機を逃すと痛い目を見るぞ?」
「黙れと言っている。お前に指図される覚えなどないぞ。女子か。修学旅行で恋愛事情の探りあいをする女子か!」
「しゅうがくりょこう? よくわからぬが、女子、女子と、さっきから聞き捨てならんな? このカゾーラン、正真正銘の漢ぞ!?」
「この程度でキレるなんて、小学生並みだな」
カゾーランはそう吐き捨てて、かたわらにあった長槍をとる。
クロードも、応えるように腰から片刃の剣を抜いた。
二人とも、怒ってはいるが楽しそうである。
(ご主人様、がんばって! でも、お優しいカゾーラン様も負けないで!)
さほど珍しくない日常の光景に、ドロテは目を輝かせた。
カゾーランは軍師のような役回りをする機会が多いが、感情に流されやすい。故に、だいたい些細なきっかけでカゾーランが怒って喧嘩になり、得物をふり回すのが日常茶飯事だ。
兵士たちも心得ており、誰も止めない。
むしろ、この二人を止めに入るならば、首と胴がおさらばする覚悟が必要である。
(知っておりますとも。お二人はとても仲よしだと、ドロテは知っておりますよ。ご主人様!)
割と本気で刃を叩きこむ二人の姿を見ながら、ドロテはのほほんと口をモゴモゴさせる。
(どうせ、ご主人様が勝つんですよね。もう一五八回勝ってますもんね。そういえば、まだ今日のご飯をもらっていませんよ、ご主人様。お腹空きましたぁ。早く終わりませんかねぇ)
ドロテは青い空を眺めるのだった。
その後、ドロテの予想通りカゾーランは通算一五九回目の敗北を記録し、「くそぉッ、やはり筋肉が足りぬのかぁぁぁあああ!」と叫びながら、一心不乱に腕立て伏せする姿が確認された。
戦局というものは、往々にして冬季は滞る。
冬の戦争は兵の消耗が激しい。寒さで武器を積んだ馬車が凍ることもあるし、十分な食糧も用意できない。
たいがい、兵は冬営地で冬を越すこととなる。
例にならってフランセールの継承戦争は一時停戦していた。
この機を使って、主な指揮官は王都へ帰還する。東方でオルマーン帝国の侵攻を食い止めていたクロードとカゾーランにも、王都への帰還命令が出た。
(ご主人様、かわいそう)
ドロテは馬なりに、主を心配して頭を垂れた。
本来、クロードは冬営地に残るつもりだったと思う。王都への帰還命令さえなければ。
此度の帰還命令はほかでもない。
国王のもとに迎えられた王妃との挙式が目的だった。
すでに教会での式は秋に済まされている。だが、そのときは戦火が激しく、大々的な結婚式を挙げることがかなわなかったようだ。有力な貴族も戦地へ赴いていたので、改めて、披露宴を行う運びだ。
馬のドロテは、もちろん、そんな宴に参加できない。しかし、侵略戦争を見事に退けるフランセール軍の戦果を祝って、凱旋パレードが行われる。
(ふふ、ご主人様を乗せたわたしが、一番美しいはずです。こんなに誇らしいことは、ありませんっ! みんな、わたしのご主人様を見てくださいっ! あと、わたしもっ!)
あまり派手ではないが、装飾品で飾ってもらえて、ドロテは実にいい気分だった。
鼻息がいつもより荒くなる。
いままでの前世で、ロクな活躍をしないまま死んできたせいか、こんな瞬間が来るのを夢見ていたのだ。
「あら、クロード。お久しぶりね!」
パレードの前。待機していると、明るい声がかけられる。
その声がセシリアのものだと気づき、ドロテは興奮した。
あたりに「ヒヒィーン、ヒヒィーン!」と鳴き声が響く。
ドロテはロレリア地方の高級馬だ。ロレリア侯爵がクロードに与え、セシリアが名づけてくれた。ドロテはセシリアのことも、大好きである。
「ドロテも元気だったかしら?」
セシリアはまっすぐにドロテの前まで歩み寄り、優しく顔を撫でる。
(お久しぶりですっ、セシリア様! ふふっ、そんなに撫で撫でしないでくださいっ。うふふ、嬉しすぎて涙が出ます……)
撫で撫でに餓えていたせいか、ドロテは鼻頭をセシリアに思い切り擦りつけてしまう。ついでに、優しい麦穂色の髪もムシャムシャ。
「ふふふ、ドロテはわたくしの髪が好きなのね」
セシリアは嫌がらず、笑ってくれた。
(これこれ! これです! この反応です! わたしは、こういうのを求めているんです!)
ドロテはすっかり興奮したまま、鞍の上に跨がる主人をふり返った。
しかし、そこには表情がすっかり抜け落ち、なんとも言えない腑抜け……いや、不機嫌な顔があった。
(あー……そう、ですよね。ご主人様、複雑ですもんね)
クロードはセシリアに求婚するつもりだった。
だが、戦場に出ている間に、セシリアは国王と政略結婚してしまったのだ。その報せを聞いたときの主人は、悪魔そのものの形相で戦地を駆け、敵兵の首を狩りまくっていた。
冗談ではなく、単騎で敵陣を全滅させる働きだった。
カゾーランでさえも、「死にに行ったのかと思ったら、阿呆みたいに強くて困った」と言っていたくらい無茶苦茶な武勇であった。そして、悪魔のような首狩り騎士の名を諸外国に知らしめる結果となった。
ドロテは腑抜けた主の顔など見なかったことにして、再びセシリアと戯れる道を選んだ。できるなら、以前のようにセシリアを背中に乗せて歩きたい。
(はあ。ご主人様がもう少し上手くやってくれたら、いまごろは、セシリア様といつも一緒にいられたのに。そうしたら、いつでも可愛がってもらえるのに! ご主人様が悪いんですからね!)
馬鹿馬鹿ー! と、主人を罵りながら、ドロテは首をブルンッと震わせる。
ついでに、セシリアの髪もムシャムシャし続けた。
「……いい加減にしろ」
調子に乗って髪をムシャムシャし続けるドロテに向けて、クロードの冷気を帯びた声が落ちる。
(うう、ごめんなさい。現実逃避してました)
ドロテはしょんぼりして、渋々とセシリアの髪を解放した。
パレード用にしっかりと結われていたので、髪型は大きく崩れてはいない。もちろん、その点は気をつけてムシャムシャしたつもりだ。
あまり華美ではない純白の衣装に身を包んだセシリアは、本当にきれいだった。ロレリアにいたころも美しかったが、さらに輝いて見える。
馬目線で見ても、素敵な女性だ。
「セシリア、どうしたのだ」
ドロテが初めて聞く声だった。
見ると、セシリアを探して立派な馬車から青年が降りてくるところだった。
豊かなブルネットの髪に縁取られた顔は白く、普段、あまり外出しないことがわかる。細い肢体は頼りなく、周囲の戦士たちのものと比べると見劣りした。
軟弱そうな男だ。
笑おうとしている表情がぎこちないせいで、余計にそう思う。
「あら、アンリ様。クロードとお話しようと思いまして」
(アンリ様? ……ということは、この方が国王陛下なのですか? ご主人様から、セシリア様を横取りして、わたしの撫で撫でライフを邪魔した国王陛下ですか!?)
ドロテは無性に憤りを覚えて、鼻息を荒くした。
「ああ、そうか。そなたたちは同郷だったな」
アンリはセシリアの隣に立ち、馬上のクロードを見あげた。クロードはすぐに下馬し、地に膝を立てる。
「ごあいさつがあとになってしまい、申し訳ありません。両陛下」
「よい、顔をあげよ。そなたとは、あまりゆっくりと話していなかったからな。今度、カゾーランとともに食事にでも来るがよい。私の妻が故郷でどのように過ごしていたか、聞いてみたい」
「は……是非……」
やりとりを聞いて、ドロテは憐れみを禁じえなかった。
(ご主人様がかわいそう! あんまり、いじめないでくださいっ!)
目の前でセシリアの肩を抱いたりする若い国王を蹴り倒したい思いでいっぱいだった。
クロードを見ると、顔を伏せて必死に表情を隠している。
セシリアの方は笑っていたが、その本心は馬のドロテには読みとれない。
(あなたのせいで、わたしの撫で撫でがっ! ご主人様の機嫌もずっと悪くて、構ってもらえないし! ああああああ、馬目線で見ても許せませんっ!)
ドロテはぷりぷりと怒って鼻をブルルンッと鳴らす。
荒ぶっているのを感じとったのか、アンリがフッとドロテに視線を移す。
目があうと、ちょっぴりだけ……ドキッとした。
いままで、戦士や貴族ばかり見てきたドロテが知らないタイプの顔だ。ドロテはスンッと鼻息を止めてしまう。
(この人……無防備すぎるのでは? こんなに、どこからでも蹴り殺せそうな人、見たことありませんけど? 蹴っていいですか? ねえ? 蹴ります?)
あまりにも無防備なアンリに、ドロテは逆に気後れしてしまう。女性のセシリアよりも、弱そうに見える。
アンリはおもむろに近づくと、不機嫌なドロテの首に優しく触れた。
「よい馬だな。私には、とても乗りこなせんよ」
「あら、アンリ様。ドロテを気に入ってくださるのね。ご成長なされましたわ」
ドロテを撫でているアンリの頭を、セシリアが撫ではじめる。どんな意図があるのか、ドロテにはわからないが、その光景はとても幸せそうだと思った。
「あれから……何ヶ月経ったと思っているのだ」
「三ヶ月ですわ。すごい進歩です。筋金入りの無頓着だったのに」
「もうその話は……」
アンリはむず痒そうにしながら、ドロテの鬣を撫で続けた。
その手つきが心地よくて、ドロテは思わず鼻を鳴らしてしまう。
(だ、だめ! この方は、わたしの憎きお邪魔虫なのよ。ご主人様とわたしから、セシリア様を奪った人なんですっ!)
ドロテは撫でられて興奮する気持ちを抑えながら、必死で首をふる。
アンリは少し驚くが、「どうどう」と軽く首を叩いた。違う。そうではない。そういう意味で荒ぶっているのではないが、アンリには伝わらなかった。
「陛下、申し訳ありません。すぐに大人しくさせます」
「いや、よい。今度、時間のあるときに乗せてくれないか? あまり乗馬は得意ではないが」
アンリの申し出にクロードは困った顔をしつつ、小さく、「御意にございます」と俯いた。
「万一、陛下が振り落とされるようなことがあれば、責任を持って処分します」
「いや、そこまでしなくともよい」
主が物騒な方向に会話を進める一方で、ドロテはすっかり興奮しきっていた。
(乗せろですって。陛下が、わたしに乗るですってー!?)
主人以外の人間はセシリアしか乗せたことがない。いわゆる、特等席なのだ。それなのに、乗せてほしいとは。
乗せてほしいとは……乗せてほしい、とは。
(そんなの、セシリア様にしか言われたことがありません!)
腹立たしいはずなのに、とても嬉しい。
褒め言葉に餓えていたドロテは、その甘い言葉にまんまと騙されてしまう。
いや、騙されそうになって、自我を保つ。しかしながら、どうしても怒りで塗りつぶすことができなかった。
(そんな……そんな……! そんな嬉しい言葉、耐えられなくなるじゃありませんかっ! いい。いいです。陛下、乗ってください! むしろ、いますぐ乗って!)
我を忘れて、ドロテはついアンリのブルネットの髪に口を寄せる。
ムシャムシャくらいでは、おさまらない。おさまらない。おさまらない!
「お、おい!?」
「アンリ様!?」
クロードとセシリアが同時に声をあげる。
気がついたときには、ドロテは耐えきれず、国王の頭にガブリと噛みついてしまっていた。
もちろん、痛くないように甘噛みだ。
ムシャムシャではおさまらなかった欲求が、一気に満たされていく。
「陛下、大丈夫ですか!」
「ああ、ドロテ。なんてことを!」
気分がいいドロテ。
それに反して、二人は顔を青ざめながらアンリに駆け寄っていた。
「さ、さすがに驚いたな!」
噛まれた頭を押さえて、アンリが声をあげている。そこで、ようやく、ドロテは自分がまずい失態をしてしまったと気づく。
(あ……つい、やってしまいました……! どうしましょう!)
国王陛下の頭を、噛んでしまった。甘噛みのつもりだったが、噛んでしまった!
こんな失態をして、ドロテは処分されてしまうかもしれない。
最悪、飼い主であるクロードにも責任が及ぶ。いや、すでにクロードは殺気を発しており、このまま愛馬の首を献上して場をおさめようとしている。
(うう。だって、だって。いつもご主人様、撫でてくれなくて、ストレスがたまっていたんですぅ。褒められて、抑えられなかったんですぅ……やだやだ、ご主人様! それ、『いあい』ってポーズですよね? 剣を抜こうとしてますよね!?)
言い訳のように、ドロテは「ヒヒィーン」と頭を垂れる。
だが、ドロテを見あげて、アンリは息をつく。
「私は平気だ。大事ない。今朝もらった一発に比べたら、手ぬるいくらいさ」
アンリはセシリアにそう断ると、なんでもない様子で立ちあがってみせた。
クロードも、毒気を抜かれたように殺気をおさめていく。
「オーバン、約束を忘れてくれるなよ」
アンリは軽く告げると、セシリアの手を引いて自分たちの馬車へと戻っていく。
その背を、ドロテは思わず熱っぽい視線で見送った。
(国王陛下……馬目線で見ても、素敵な方! 馬のわたしにも、ご慈悲を!)
だが、次の瞬間には思い出したように首をふった。
(でも、あの人は、わたしのご主人様をいじめるのですっ。セシリア様と仲よくしすぎです。かわいそうです! それは許せません! やっぱり、憎いです! ……でもでもっ! でーもー!)
悶々とした葛藤を抱えて、ドロテは高く前足をあげて嘶くのだった。
† † † † † † †
「痛ッ。いま、私は殴られるようなことをしたのかっ!? ここは労わるべきではないのか!?」
馬車へ帰るなり、セシリアはアンリの脛に蹴りをお見舞いした。
アンリは驚き、思わず抗議した。
「ええ、まあ。アンリ様が割って入ったせいで、クロードと気まずい空気になりましたわ。しばらく、わたくしとお話ししてくれないかも……」
アンリにはよくわからない話だ。
なにか事情があるなら、教えてほしいものだと感じてしまう。
「せっかく、セシリアが悲しむと思って、あの馬もオーバンも処罰しなかったのに」
「その件については、感謝しております。ありがとうございます、アンリ様」
脇腹に拳がグリグリと押しつけられる。
「ぐ。な、ッ。なぜ! いま、感謝していたではないか!」
「ドロテを褒めたのは、わたくしへの下心があったのではないかと思いまして。ご機嫌とりですよね?」
「そうだ! ぐがっ、な、み、鳩尾は……やめッ」
自分の心理を見透かされていた。セシリアは、あの馬をえらく気に入っている様子だったので、興味を持ったのだ。
しかし、いい馬だと思ったのは本当である。ちょっとばかり噛まれてしまったが……いや、そんな本心を見抜かれたから、馬にも噛まれてしまったのかもしれない。
「では、次は頭に」
「噛まれた場所はだめッ……う、ぉっ。はあ、く……!」
先ほど噛まれた箇所に平手の一撃をくらい、アンリは頭を抱えた。
「さすがに痛かったですか?」
「いつも痛いぞ。だ、だが、よい。許す。許すぞ……むしろ、そろそろ、くせになってきた」
「あら。まるで、わたくしがアンリ様を調教しているような言い草ですわね。聞き捨てなりません」
「そうか、これが調教なのか……悪い気はしないな」
不敵な笑みを浮かべるアンリを、セシリアはたいそう残念そうに見るのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます