第28話

 

  

 

「エミール様」


 真珠の間の扉を開け放ち、震えているエミール。

 昨日は部屋にバリケードを作って籠っていたというのに、こんなところまで、なにをしに来たのだろう。


 しかし、よく見るとエミールの後ろには見覚えのある人物が立っている。

 艶のある黒髪を結い、青空色の瞳で事態を静観する少年――シエルだ。彼がエミールを連れて来たというのだろうか。

 なんのために? ルイーゼが猜疑の視線を向けると、シエルは涼しい顔で笑っている。だが、部屋の中を一瞥すると、なにかに耐えるように一瞬目を伏せた。


「ほら、殿下。陛下のところへ、どうぞ」


 シエルは感情の読めない声で、エミールの背を押した。

 エミールは生まれたての小鹿のような動作でぎこちなく数歩前に出る。だが、やがて、決心したようにルイーゼの方へ歩いてきた。


「エミール、お前……」


 アンリがようやく口を開く。

 エミールは父親から声をかけられ、一瞬、怖気づいて止まってしまう。だが、目尻に涙を溜めながらも、ルイーゼの隣へ歩を進めた。


「エミール様?」


 エミールは戸惑いながらも、ルイーゼの腕を掴んで引っ張る。そして、部屋の外へ出ようと促した。ルイーゼは、エミールに引かれるまま数歩足を進めてしまう。


「待て、エミール」


 そのまま、なにを言わずにルイーゼを引きずって行くエミールを、アンリが呼び止めた。

 アンリはエミールに触れようと手を伸ばす。だが、結局、その手は息子の手を掴むことはなかった。


「僕は」


 エミールはようやく口を開く。もう泣き出してしまいそうなくらい声も手もガタガタと震えていた。


「僕は……母上なんて、いらない」


 エミールが強くルイーゼを引く。そのまま部屋から逃げてしまうつもりなのだろう。筋トレの成果が出ているのか、まだまだ一般的な男児に比べると軟弱だが、以前よりも少し力強い気がした。


「エミール……」

「ルイーゼは母上じゃないもん!」


 エミールは今まで聞いたこともないような声で叫び、そのまま走りだしてしまう。

 ルイーゼは戸惑いながらも、エミールについて走った。

 振り返ると、エミールを追えないまま、アンリが手を伸ばして立ち尽くしていた。


「エミール様、どうしたのですか」


 今までのエミールでは、考えられない行動だった。

 あいかわらず、グズグズとした喋り方だし、子供みたいにボロボロ涙も流れている。足は小鹿みたいだし、手の力も疲れて弱くなっていた。走ったはいいが、すぐにバテて息もあがる始末。


「うぅ……」


 疲れてしまったのか、どうしてしまったのか、エミールは真珠の間から少し離れたところで、蹲って唸りはじめた。


「あの、あのッ……ルイーゼ……ごめん」


 エミールはそう言いながら、ルイーゼを見上げた。


「どうして、謝るのですか?」

「その……僕、勝手に……もし、父上と結婚したいって思ってたら……嫌なこと、したかなって。でも、その、ルイーゼが死んじゃうと思うと、つい……」


 ルイーゼは溜息をついた。

 本気でアンリとの結婚を考えるはずがない。

 政略結婚狙いのガッツリ肉食令嬢ならともかく、ルイーゼはひっそりハッピーエンドライフを楽しむ草食令嬢だ。

 けれども、何故だか皮肉で返そうとは思わなかった。

 ルイーゼは蹲るエミールの頭に、ポンポンと手を乗せて撫でる。


「わたくしの気持ちを気にかけてくださるのですね」


 ずっと引き籠って独りの世界に浸っていたエミールが、他者の考えを読み取ろうとしている。

 今まで、「自分はこうしたい」「こう思う」「これはしたくない」と、主語に自分を据える発言が多かった。

 ルイーゼに結婚してほしくないと言ったのも、彼女を連れ去ってしまったのも、その延長のようなものだ。


 だが、


「他人の気持ちを考えられるのは、心の強い優しい方だけですわ」

「そう、なの?」

「ええ、きっと。エミール様には、優しい心をお持ちになる素養があるのですわ」


 まだ芽のような小さなものかもしれない。しかし、独りの世界から外へ踏み出すには、必要な気持ちだと思う。

 他人に興味のない人間は、外の世界を生きる強さを持てない。この世界は、独りで生きていけるほど優しくはないのだから。


「少しだけ、強くなられましたわね。見直しましたわ。ミジンコほどですが」

「みじんこ?」


 ルイーゼはブルネットの髪を梳かすようにエミールを撫でた。エミールは拾われた子犬のような眼で、ルイーゼを見上げる。


「ルイーゼみたいに、なれるかな?」

「それは調子に乗りすぎです。まだまだにございますわ」


 ルイーゼは軽く笑いながら、エミールを立ち上がらせる。手を繋ぎながら、今度はルイーゼがエミールをいざなって歩きはじめた。

 いつもと同じだ。


「ルイーゼに手を繋いでもらうの……僕、好きだよ」


 エミールが俯きながら、呟く。


「でも、さっき、ルイーゼの手を初めて引っ張って……僕、もっとがんばろうと思った。いつまでも、ルイーゼに引っ張ってもらってちゃ、ダメだよね」

「当然にございます。独り立ちして頂かなくては、教育係の意味がございません」

「……うん……でも、ルイーゼの手、ずっと握ってたい……シエルみたいに、今度は僕が上手く引いて歩けるように……が、がんばる」

「まあ、エスコートですか。楽しみにしておりますので、死ぬ気でがんばってくださいませ」


 引き籠ったと思ったら、どうやら、再び前向きになってくれたようだ。

 もう縛り上げて引きずり回すしかないと思っていたので、ルイーゼとしても助かる。

 思えば、エミールはダメかと思われた局面で、少しずつ外へ出るようになっている。

 それは転んでも起き上がることの出来る力を証明している気がした。

 まあ、まだまだ一流には程遠いのですけれどね。


「そ、それで、ルイーゼ。父上と、結婚したいの?」

「ありえませんわ。論外にございます」


 再び話題を戻されて、ルイーゼの顔から表情が失せた。先ほどまでの惨状を思い出すと、乾いた笑声しか出ない。

 流石に、エミールに対して、「あなたの父君はロリコンのドMで、加えて、母君にはS疑惑がありますわよ」と告げる気にはなれないので、詳細は言いたくないのだが。


 そういえば、あの場に瀕死の侍従長と、悟りきったカゾーランを置いてきてしまったのだが、大丈夫だろうか。

 そもそも、エミールに引かれて勢いで出てきてしまったが、流石に不味かった気がしてきた。


 おまけに、シエルまでいた。

 どうして、彼が? 以前から引っ掛かっていた事柄もあり、ルイーゼには彼の真意が読めなかった。どうしても、猜疑の目で見てしまう。


 シエルは、大きな嘘をついている。それだけは、確かなのだ。


「じゃあ、シエルは?」


 面倒なことになっている。ルイーゼは息をつき、エミールを振り返った。


「そのことなのですが、エミール様。実はシエル様は――」


 憶測の域を出ないが、ありのままを伝えると、エミールは目を見開いたまま、驚きの顔で硬直してしまった。




 † † † † † † †




 カスリール侯爵邸。


 勤めを終えた少年を迎えて、屋敷の門が開いた。

 シエルは屋敷の敷地へと馬を進め、帰宅する。


「おかえりなさいませ、シエル様。ミーディア様がお待ちです」


 屋敷へ入ると、使用人たちが頭を下げる。

 ミーディア――双子の妹の名を聞き、シエルは軽くうなずく。


「おかえりなさい、お勤めご苦労様です」


 部屋を訪れると、ミーディアが寂しげな顔でふり返った。自分と同じ、艶のある黒髪と青空色の瞳を持った少女だ。

 性別は違うが、同じ顔の兄妹。

 自分と同じ顔が哀しそうに目を伏せていた。


「ごめんね」

「いいよ、気にしないで」


 ミーディアは悲嘆に暮れながら、窓の外に視線を移す。


「こんなことしたって、意味がないのかもしれない」


 いまにも泣きそうな声で、ミーディアはシエルのほうへと歩み寄る。口づけしそうなほど距離が詰まる存在に、シエルは瞳を揺らす。


「もう少し……このままでいよう。おねがいだから」


 そう言い出したのは、シエルだった。

 ミーディアに発言の暇を与えず、シエルは踵を返す。

 もう少しでいい。

 少しでも、長く想い人のそばにいたい。近づきたい。

 そんな馬鹿な考えに頭を占領されながら、シエルは妹の部屋をあとにした。




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