第501話 救いとなるもの
アルが使えるように改造された特別性の呪符。発動に必要なのは魔力を込めることだけだ。
使い方は魔道具と近しいかもしれないと思いながら、アルは指で挟んだ呪符に意識を集中した。
肩にはブランの温かな重みがある。無事に転移できた場合に、万が一にでもブランを取り残すことがないように、しっかりと掴まってもらっているのだ。
「転移先は、ヒロフミさんたちがいる知識の塔――」
脳裏に場所を思い浮かべる。もともと、この呪符は転移の行き先が知識の塔に限定されているようだったが、強いイメージを持っていれば成功しやすい気がしたのだ。
呪符にどれほどの量の魔力を流すべきかは知らない。だから、少しずつ注ぎ、慎重に経過を観察する必要があった。
それさえもアルの知識になるのだから、何の苦にもならない。むしろ嬉々として、呪符を試用する。
じわじわと魔力を注ぐと、呪符に魔力が集うのが見えた。アルの魔力視は魔法を使えないこの空間でも、問題なく使えている。
ふと、鑑定眼はどうなのだろう、と疑問に思って気が逸れそうになったが、今は呪符に集中するよう自身を叱咤した。
「……発動するよ」
魔力が呪符に満ちたのを感じた。感覚的に、発動に必要な魔力量に達したと判断する。ブランが息を呑んで、アルに掴まる手足に力を込めたのを感じた。
それから幾ばくの時間が流れたか。
視界が変わることはなく、呪符に満ちた魔力が霧散していく。それと同時に、呪符自体も塵のように脆く崩れ消えていった。
『……アル』
重々しい声音での呼びかけに、アルは頷く。
「駄目だったみたいだね」
『そんなあっさりと、当然のように言うな!』
瞬時にブランの怒りが爆発したように感じられた。
アルは両耳を手で塞ぐ。とはいえ、ブランの声は思念なので、そうしたところで何の意味はないのだが。
思念で脳が揺さぶられるような心地がして、アルは魔法が使えないことを恨みたくなった。魔法が使えさえすれば、遮断することも可能だったのに。
「当然とは思ってないよ。可能性はある、と思っていただけ」
『ならば、代案もあるのだろうな?』
グルッと唸るような声と共に尋ねられ、アルは返事に困った。ここで「ない」と告げたら噛みつかれそうだ。
実際は、ブランがそこまで暴力的な振る舞いをすることはないだろうが。
「そうだね。……ひとまず、目に見える範囲一帯を鑑定してみるかな」
『鑑定? そんなもんが役に立つのか?』
「分からないけど、なんだって試してみるべきでしょ。ブランも、魔法で隠された退出経路がないか探してみてよ」
『……いいだろう』
ため息まじりに頷いたブランが、ひょいとアルの肩から飛び下りた。そして、念の為に周囲の安全を確かめるように視線を巡らせると、タタッと駆けていく。アルとは違い、目視で探し回ってくれるようだ。
その姿を見送り、アルは呪符を持っていた手を見下ろし肩をすくめてから、気合いを入れ直した。
アルだって、落胆がないわけではなかったのだ。ヒロフミの呪符が使えたら、さっさとここから立ち去れたのだから。知識欲が満たされなかった、という思いもないではないが。
「さて、どこまで鑑定眼が頼りになるかな……」
時に鑑定眼はアルを戸惑わせるほどに詳細な情報をもたらしてくれるが、同時に謎に満ちた能力でもある。
鑑定結果の情報がどこからどうやって得られているか、使用者のアルもほとんど知らないのだ。
鑑定能力は、アカシックレコード――世界の記録を参照にしているというのが一般的な常識だ。世界の記録といえば聖域にある記録であり、そこから情報が引き出されていると考えると、ある程度納得できる。
だが、それだけではあり得ない情報が、アルの鑑定眼によってもたらされている事実を見過ごすことはできない。
アカツキが創り出した、本来この世界に存在しなかったはずのものと、それに関する詳細すぎる情報は、明らかに鑑定能力の定義を越えていた。
「――まぁ、現状で助かることしかないから、それでいいけど……」
知識欲が刺激されるので少々困るが、今はそんなことに囚われていられる状況ではない。
アルは思考を切り替えて周囲を鑑定眼で眺めた。
幸いなことに、魔力眼同様に、鑑定眼も制限がかかっていなかったようだ。次々に示される情報を受け流し、帰るために必要な情報だけを抽出しようと試みる。
「床材の情報はいらない……柱も特別変わったものじゃないし……うーん、魔法を阻害しているものさえ見つからないなぁ」
この感じだと、アルたちがいる内部では、魔法阻害の仕組みを見つけ出すことはできなさそうだ。
目に見える範囲より外側に結界のようなものがあって、それが内部での魔法阻害をしている可能性がある。
「――魔法阻害解除はできなさそうだし、後は脱出路……」
念入りに調べる。ブランも確認して回ってくれているが、正直鑑定眼の方が見つけ出せる可能性が高いと思う。魔力の行使が制限されている空間では、ブランの感知能力も万全ではないはずだから。
「……うん?」
アルは床に目を留めた。
そこを鑑定眼で見た時、【床:取り外し可能】と表示されたのだ。
『アル、ここ、変だぞ! 切れ目がある』
ブランも同じところに注目したようだ。パシパシと床を叩き、首を傾げている。
アルの予想以上に、ブランの感知能力は優れていたようだ。
少し感心したが、こんな感想をブランに知られたら、『我を甘く見過ぎだろう! 聖魔狐なのだぞ!』と怒りながら誇る姿が容易に想像できたので、口を噤んだ。
ブランの自慢は聞き慣れているが、好んで聞きたいわけではない。
「本当だね。どうやって取り外すんだろう? ……あ」
ブランの傍に近づき呟いた途端、鑑定眼で示される情報が変わった。こんなことは今までなかった気がする。
「――床:切れ目の端を押すことで取り外せる、だって」
『鑑定眼の情報か?』
「うん。僕の疑問に答えるみたいに、示される情報が変わったんだ」
『なんだそれは?』
「僕もそう聞きたいよ」
不思議そうに首を傾げたブランに、アルは真剣に答えた。
途端に、目の前に不思議な表示が現れる。
【権限が付与されたことにより、鑑定眼が
「――は?」
『どうしたっ?』
予想外の事態に驚きすぎて、ぽかんと口を開けてしまった。
珍しく呆気にとられたアルに、ブランが心配そうに視線を向ける。反射的にその頭を撫でて宥めながら、アルは目を細めた。
衝撃を乗り越えて情報を飲み込めるようになっても、疑問が生じる。
「なんか、鑑定眼が変わったみたい」
『変わった?』
「神眼っていうのになったらしいよ。僕の疑問に答えて、情報をくれるみたい」
『……あまり良い印象の名前だとは思えないのだが』
「神ってついてるからね」
困ったようにグルッと唸るブランの頭をポンポンと弾むように撫でながら、アルも首を傾げた。
とりあえず、答えてくれると言っているのだから、疑問点を挙げていくべきか。声に反応しているようだし。
「――権限って何?」
【神に代わり、異次元回廊の管理主となる者に与えられる、世界の知識にアクセスする権利です】
目の前に文字が現れる。不思議な能力だ。
そんな感想を抱きながら文字を目で追い、アルはなるほどと頷いた。
アルが異次元回廊の管理主になるのは、アカツキたちがこの世界を去った後になるとはいえ、それが対価である以上、すでに定められた役目ということだろう。
役目を実際に担うことになる前から、世界が保有する知識にアクセスしやすくなるのは、ありがたいことだ。
アルは得た情報をブランに説明しながら、質問を重ねていった。
「神眼と鑑定眼の違いは?」
【アクセス可能な知識の範囲と質疑応答の能力です】
「知識はどこにアクセスして入手してるの?」
【アカシックレコードと呼ばれる神の保有知識です】
アルは片眉を上げて、文字を眺めた。
アカシックレコードの定義が、アルが知っているものとは違った。世界の知識ではなく神の保有知識。――アカツキが異世界のものを再現しようとして創り出したものに関する情報が詳細であった理由が分かった気がする。
「リアさんが持っていた知識が、鑑定結果に反映されていたわけか……」
頷き納得しながら、アルはつい微笑んでしまった。
以前、アカツキが創り出した食材を鑑定しておすすめレシピが示されたのは、リアがアカツキの好物として記憶していて、作ってあげて欲しいと望んだからのように感じられたからだ。
この話をアカツキたちに教えたらどう思うだろうか。
アルは早く帰って話してあげたくなった。
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