第485話 もうひとつの鍵

 変化は劇的だった。


 ブランの爪さえ弾く強靭な繭が、繭溶解薬を掛けたところからほつれるように溶けていく。その影響はゆっくりと広がり、中を覗けるほどの穴が開いた後も止まらなかった。


「……似てる」


 アルは眠りの繭の中で丸まって目を閉じている女性を見つめ、思わず呟いた。

 その女性は、聖なる森の記録で見たイービルと瓜二つの姿だったのだ。


『こんな姿だったか』

「直接見ても思い出せないの?」


 はるか昔にアテナリヤと相対したはずのブランは、首を傾げながら女性を眺めている。まるで初対面のような顔だ。


『うーむ……思い出してみると、我が会った時、アテナリヤの顔は逆光になっていて見えなかったやもしれん』

「あぁ、そういうこと」


 アルは納得して頷いた。ブランの記憶に障害が生じているわけではなかったらしい。


『何か失礼なことを考えていないか?』

「まさか」

『その即答が怪しいぞ』


 じとりと睨まれて、アルは口元に笑みを浮かべて躱した。ブランは時々察しが良すぎる。


「それより、眠りの繭は解除できたけど、起きる気配がないのはどうしたらいいかな? 揺り起こすのは失礼だよね」

『叩き起こせばよかろう』


 アルの言葉を聞いていなかったように、ブランがアテナリヤへ飛びかかろうとする。アルはその体を慌てて捕まえた。


「女性を叩き起こすつもり?」

『……これを女性扱いするのは正しいのか?』


 呆れたように見つめられて、アルは思わず「うーん……」と言葉を濁す。

 見た目が女性そのものでも、神なのだから気にしないでいるべきか。だが、アテナリヤは人として生きていた過去がある可能性が高く、女性としての意識がないとはいえない。


「不快にさせるのはどうかと思う」

『ではどうするのだ。目が覚めるまで待つのか?』

「それはちょっと……」


 自らに掛けた咎として眠りについているアテナリヤが、自然と目覚めるまでどれほどの時間が掛かるか想像したくもない。

 眠りの繭を解除すれば、自動的に目覚めるかもしれないという期待はすでに潰えているも同然で、アルは対応に困ってしまった。


〈ここまで来て、行儀が良いことだ〉


 不意に呆れたような声が響いた。


『案内して終わりかと思ったら、随分と世話好きだな』

「あ、やっぱりこれ、シモリの本体の声?」


 ブランが周囲に視線を走らせながら呟いた言葉で、アルは確信を得た。

 アテナリヤの元まで導いた後に反応がなくなったから、てっきりもう関わってこないものだと思っていたのに、ここでも声が聞こえるとは意外だ。


『どう考えてもそうだろう』

「でも、ここは神が統べる箱庭じゃないし」


 シモリの本体の活動域ではないだろうに、とアルが言葉を続ける前に、空間を震わせるように声が響く。


〈どうやら精霊の枝の行動は神に認められているようだから、手を貸してやろうと思うたまで。必要ないならばそう言うといい〉


 不思議なことを言うものだ。

 アルはぱちりと目を瞬かせてから、小さく首を傾げた。


「協力してもらえるのは助かりますけど、僕の行動が認められていると判断したのはどうしてですか?」

〈鑑定できただろう〉

「それはそうですが」

〈鑑定、特に鑑定眼は、神が人に齎す力。それで示される情報も、神が許したもの。この空間を鑑定できるということは、神に許容されていることを示す〉


 ブランと顔を見合わせる。目を見開くアルと同じく、ブランの目も丸くなっていた。


「鑑定眼って、神に関わる能力なんですか?」

〈世界の真理に触れる能力が、神と無縁であるわけがなかろう〉


 断言されて、アルは納得した。

 元々、他の魔法とは一味違う能力だと思ってはいたのだ。


『それで、こいつをどうやって目覚めさせればいいのだ? お前は手段を知らないと言っていたはずだが』


 ブランが問いかける。


〈手段を知らないというのは正しい。だが、何が許されているかは知っている〉

『何を言っているか分からん! 分かりやすく言え!』


 短気なブランを宥めるため、アルはポンポンと背中を撫でた。


「アテナリヤの気分を害さない方法があるなら知りたいです」

〈触れること、揺らすこと、魔力を流すこと。許されるのはその三つ〉


 端的な答えに、アルは片眉を上げる。最初の二つは人を起こす時と同じだが、魔力を流すとはどういう意味だろうか。


『ふむ。触れて揺らすまでは、我でもできるな』

「え、あ、ちょっと」


 アルが止める隙もなく、ブランは丸い器のような形になった眠りの繭に飛び乗り、アテナリヤに触れていた。

 恐れを知らない行動に、少し頭が痛くなる。いくら許されていると言っても、躊躇いを捨てるのはダメだろう。


『……起きんぞ』


 アテナリヤを手でつつき揺らした後に、ブランがアルを見上げて首を傾げる。

 アルは呆れの籠もったため息をつきながら、アテナリヤに近づいた。今さら躊躇っても意味はない。


「たぶん、魔力を流すことが重要なんだよ」


 アルの言葉に何か返事が来ることはない。シモリの本体は沈黙を選んだようだ。だが、まだアルたちの行動を注視しているだろう。助言は必要ないと判断しているだけだ。


 眠るアテナリヤの顔を見つめ、アルは目を細める。どう見てもただの人にしか見えず、これが創世神だというのは何かの間違いではないかと思ってしまう。

 だが、この特殊な空間にいることが、アテナリヤの正体を示しているのだ。


 華奢な肩に手を伸ばし、軽く揺すりながら魔力を流す。

 攻撃の意思はなく。ただアルの身の内にある魔力でアテナリヤを満たすように――。


「……なんか、不思議」

『ん?』


 思わずこぼした感想に、注意深く状況を観察していたブランが顔を上げた。視線を感じながら、アルは自分の手を見つめる。


 アルが意識しなくても、当たり前のように魔力が溢れ、アテナリヤに注がれていく。それは水の入った器を傾けると別の器に移されるように、当たり前のことだと感じられた。


〈精霊の枝の役割のひとつは、やはりこれだったのか……〉


 不意に聞こえた声に視線を上げる前に、アルはアテナリヤに生じた変化に目を奪われる。


 これまでただの人のようだと思っていたのに、それが間違いだったと気付かされた。内側から光り輝くように、アテナリヤから清浄な空気が溢れ、空間を満たしていく。


「っ……これは……?」

『なるほど……確かに、神だ。あの時感じたあれは、やはりこいつ……』


 グルルッと唸る声が聞こえる。ブランの声に苛立たしさと憎しみが宿ったように感じられて、アルは咄嗟にブランを抱えてアテナリヤから離れた。


「ブラン、どうし――」


 不意に視界が白く染まる。

 アルは言葉を紡ぐことも忘れ、ぎゅっと目を瞑った。


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