第292話 魔法の結果

 変化はゆっくりと現れた。

 人の姿に獣耳や尻尾を持っていたクイン。その姿が少しずつ、ブランと似た聖魔狐へと変わっていく。


『……うむ。我の母だ』


 ブランがぽつりと呟いた。存在が改変されて、魔物とも思えない気配になっていたクインを、今ようやく母親だと実感したようだ。


 クインをじっと見つめ続けるブランの頭を撫でながら、アルはクインから目を離さない。妖精が時の魔力の状態を報告してくれているとはいえ、まだ不安があった。


「サクラさんは、クインの最初の状態を知らないんですよね?」

「そうね。私たちが来た時には、もうクインはここにいたから。辛うじて聖魔狐ということは分かったけど……。どこまで戻すべきか悩んでいるの?」

「はい。もうそろそろいいのかなとも思うんですが」


 そろそろ時の魔力を操作してから一時間が経とうとしている。少しずつ魔力のバランスを戻して様子を見るべきだろうか。


『世界の時の流れと同じに戻すのかしら?』

「そのつもりです。下手に老化を遅らせるのは良くないんですよね?」


 妖精に問われて尋ね返す。

 ブランと共に生きたいとクインが望むなら、できる限り長生きできるようにしようとアルは思っていた。だが、それで再び存在に歪みが出るようなことがあってはいけない。

 先ほど聞いたばかりの事実をアルが確認すると、妖精は頷いた。


『本来、生き物は世界の時の流れに合わせて生きるものよ。時を操作するのは推奨されないわ。永遠の命を与えるならばそれもいいけれど……それは難しいわよ』


 アカツキは、時の魔力のバランスが完全に拮抗していることで永遠を生きることになっている。ブランは未来へ進んでは過去に戻るということを一瞬のうちに繰り返すことで、時間が停滞している。

 ブランの方はともかく、アカツキと同じように時の魔力のバランスを拮抗させれば永遠の命を与えられるように思える。だが、妖精はその方法では不十分だと言いたげだった。


「そういえば、アカツキさんの魔力を確かめた時に違和感があったんだよなぁ……」


 あれは、時の魔力のバランスだけが、永遠の命の理由ではないということだったのかもしれない。

 そんなことを考えながら、アルは再び魔法陣に手を伸ばした。少しずつ過去へ向かう速度を緩めるよう、時の魔力のバランスを操作するのだ。


『いいわよ~、その調子~』


 時の魔力の観察に飽きたのか、妖精の口調が少し間延びした感じになってきた。アルは苦笑しつつ、魔力の観察に集中する。さすがに疲れてきたので、アルもそろそろ休みたいのだが。


「……このまま、一旦時の流れに合わせて魔力を調整してみますね」

『分かったわ。細かい指示は出すわよ』


 クインがほぼ聖魔狐の姿を取り戻しているのを見て、アルは一度作業を終了させることにした。存在を戻しすぎてはいけないし、足りなかったら再び魔法陣で操作すればいい。


『存在自体は既に聖魔狐のものに見える。この一度で終わればいいのだがな』

「楽しみっすねぇ。クインはブランのこと覚えてるかな」

『……別に、忘れていても、我は構わん。我のせいで存在が改変されていることが気に食わんだけだからな。聖魔狐らしくこれからを生きられるようになれば、それでいいのだ』

「ブラン……それはなんか寂しいっすよ……」


 やせ我慢のようなブランの言葉。それに対してアカツキが悲しげに呟くのを聞きながら、アルは作業にさらに集中した。

 もしクインの記憶が戻らなかったとしても、今度はそれを取り戻す方法を見つけるだけだ。ブランのように諦めるつもりは、アルにはなかった。


 妖精が出す指示に従って時の魔力を操作して、ようやく作業の終了を迎える。


「……どう?」

「今は僕と同じように時を刻んでいるはずです」


 作業が終わったのを察して、真剣な表情でサクラが問いかけてくる。アルは返事をしながら、ここに普通の時を生きているのは自分しかいないのだと改めて気づいた。冷静に考えると何とも特殊な状況だ。今はクインがアルと同じになっているはずだが。


「じゃあ、揺り篭を停止させるわよ」


 アルが頷くと、サクラが揺り篭に手を伸ばす。ふわりと揺り篭の魔力が揺らぎ、消えていった。


 場がシンと静まり返る。

 誰もが息を飲んでクインを見つめていた。


『…………いつ、起きる――』


 沈黙に我慢できなかったのか、問いかけるブランの言葉が止まった。クインの目が開かれたのだ。

 ブランの本来の姿に近い巨体がゆっくりと揺れ、きょとりと視線を動かす。その目がアルたちを捉えて見開かれた。


『……人間か』


 アルは小さく落胆した。これまでの記憶は失われてしまったと思ったのだ。ただ、その場合、代わりにブランのことや望みのことを思い出してくれたらいいと考え直す。


 だが、クインは瞬きを繰り返した後、不意に笑い声を零す。その後の発言にアルたちはホッと安堵の息をつくことになった。


『――いや……アルにサクラにアカツキ。そちらの妖精は紹介されてはいなかったな』

「っ……覚えて、いたんですね」

『すまぬ。少々記憶が混乱していたようだ。……こんなにすっきりとした気分は久しぶりだ』


 クインがグイッと身を伸ばしながら座り込む。その目がブランを見つめていた。


『……なんだ。我のことは忘れたというつもりか』

『いや、なんとも小さき姿になりおったものだと思ってな。知ってはいたが、ようやく記憶と繋がった。何故吾の倅はそのような姿をとっているのだ?』

『ほっとけ! この姿の方が生活しやすいんだ』

『ほう……変化術を吾も磨いてみるか。人型をとるのも面白そうだ』

『やめろ……それは聖魔狐の変化とは違う』

『だが、今ならできそうな気がするからなぁ。ふ、はっはっ』


 長い別離の後の会話とは思えないほど、自然な態度だった。だが、クインのブランを見る目は懐かしげに細められ、声音は愛情に満ちているように思える。

 確かにクインはブランの母親なのだと、アルは実感して微笑んだ。


「あの、体調はどうですか?」


 親子の語らいを邪魔するのを申し訳なく思いながら問いかける。

 ブランの記憶を取り戻すくらいの頃まで体を戻せたようだが、これで不具合が出ていたら早急に対処しなければならない。


「そうよ! ちょっと検査させて」


 作業の成功に安堵して、放心状態だったサクラが一気に慌てだした。クインの周りをうろついて観察しながら、首を傾げる。


「――普通の聖魔狐、かしら……?」

『何をもって普通というかは分からんが、吾は健康だと思うぞ。今のところ不都合は感じておらん』


 ちょこまかと動くサクラを、クインが穏やかな眼差しで見下ろした。サクラと過ごした長い時の記憶も親しみの感情も、きちんと残っているようだ。

 アルも時の魔力の観察をしたり、体調に問題はなさそうか確認したりしながら、張り詰めた精神を緩めていった。


 ――成功した。たくさん実験したとはいえ、クインは特殊な状態だったからどうなるかと不安だったが、問題なく成功したように見える。


 ようやくその事実に納得して、アルはブランの傍に座り込んだ。


「……ブラン」

『アル? ……うむ。無事成功したようだな』


 名を呼んだだけで、ブランはアルの安堵に気づいたようだ。失敗の可能性をアルが危惧していたことも理解していたからこそ、何度か頷いて『よくやってくれた』と呟く。そして躊躇った後に、アルの顔をジッと見つめた。


『――アル、ありがとう』

「……うん、どういたしまして」


 珍しく素直な礼を告げるブランの頭を、アルはぐしゃぐしゃと撫でた。『雑に撫でるな!』と怒って見せるブランの声には照れくささが滲む。真剣な雰囲気に、アルだけでなくブランも気恥ずかしくなったのだろう。


「アカツキさんは――」


 一人だけいまだに反応がないことに気づいて、アルは視線を向けた。アカツキがボロボロと泣いている。嗚咽混じりに「良かったよぉ……感動の、再会……!」という声が聞こえた。


「感動の、再会……」


 再びクインと会話を始めたブランを見る。

 クインもブランも、感動的というよりはだいぶ軽い雰囲気でこれからのことを話していた。


「……まあ、色んな捉え方があるよね」


 アルは適当に自分を納得させて、クインたちの会話に入ることにした。

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