第75話 天使の日常

「工藤君どうしたの、今日は休みなのに」

「いえ、ちょっと時間ができたので」


 サッカー教室は相変わらずの盛況ぶり。

 柳原さんが忙しそうに子供たちとボールを蹴っていたが、俺の姿を見つけてこっちまで来てくれた。


「あの、もしよかったら平日も入れる日あるとおもうんで言ってください」

「助かるよ。じゃあ週末にでもシフトの相談しようかな。新しい学校はいい感じ?」

「ええ。良い人ばかりで戸惑ってるくらいです」

「そっか。日頃の行いがいい証拠だよ」


 人格者なんて言い方がふさわしいかわからないが、柳原さんは本当に人がいい。

 こんな人の元でずっと働けたら、とか思ったりもするけど、それよりも俺は彼から学んだことを今後に活かすために勉強して大学に行って、いつかは自分で彼のように教室をもちたいなんて夢が芽生え始めていた。


「天使さんとはうまくいってるみたいだね。いい表情してるよ」

「はい。今は本当に楽しいです」

「うんうんいいねえ。僕もそろそろ新しい恋でも見つけにいこうかな」

「あの、霞のお姉さんとはやっぱり」

「もう連絡先も知らないからね。サッカーやってたらいつか会えるかなとか思ってる自分もいたけど、やっぱり甘くはないよ。彼女も美人だし、もういい男捕まえて幸せに暮らしてるかもだし」


 笑いながらも寂しそうに空を見上げる彼もまた、天使の父親の被害者だ。

 でも、俺が彼の立場だとしたら、多分サッカーはおろか人生すら投げ出していただろう。


 ……やっぱり柳原さんは強い人だな。


「会えますよ、きっと」

「はは、それまで恋愛はお預けかい?工藤君達の仲睦まじい話を聞かされててそれは辛いなぁ」

「す、すみません」

「でも、多分待つと思う。今は仕事で忙しいしちょうどいいよ。うん、これからも頼むね」


 ぽんぽんと俺の肩を叩いてから、「気をつけて迎えにいくんだよ」と言って柳原さんは練習に戻る。


 ……ほんと、大人ってなんでも見透かしてるよな。

 

 

 少し練習を見たあと、終電前に電車に乗って元居た駅へと戻る。


 そしてコンビニへ霞を迎えにいくと、外でタバコをふかしている綴さんが。


「お疲れ様ー、天使ちゃんももうあがるから」

「ええ。タバコ、相変わらずですね」

「二十歳になったしねー。なーんかやめられないな」

「ほどほどにしてくださいね。身体壊しますよ」

「あー、そーいうお母さんみたいなこと言うんだ。天使ちゃんが吸ってても許しちゃうくせに」


 霞がタバコを吸っていた話なんてしたこともないのでもちろん例え話ではあるけども、霞がタバコを吸っていた時にそんなに嫌な気分にならなかったのはきっと、俺が彼女のことをその時から気になっていたからなのだと、ふとそんなことを思った。


 好きな相手だから許せる、許してしまう。

 そんな贔屓も、人間だからあって当然だ。


 誰もが綺麗で真面目で潔白ではない。

 でも、それが誰かの迷惑になるなら注意してやらないといけないし、本人の為にならないなら、言いにくくても喧嘩になっても道を正してあげることの方が相手思いな行動だと思う。


 だから東家は、ただわがままな息子に甘いだけで注意せず、臭いものに蓋をしていた結果、あんな事態になってしまったのだろう。

 でも、霞だって逃げるという選択肢を持っていなければ、もしかしたら東のようなことになっていた可能性だってあったわけで。


 いや、俺だって、誰にだってその可能性はあるわけで。

 だから、誰と出会って誰と過ごすかが、どれほど大切で恵まれていることかと今になってそれを実感する。


「お疲れ様。私のとこに来ずにまた先輩と話してるー」


 割り込むように霞が、着替えて出てきた。


「おつかれ、帰ろっか」

「先輩と何話してたの?」

「大した話じゃないって」

「ふーん、怪しいなあ」


 綴さんも今日はあがりということで、すぐそこまで一緒に帰ることに。

 その間も、俺の横を陣取って動かない霞を見ながら綴さんはクスクス笑う。


「天使ちゃん、ほんと女の子だよね」

「笑わないでください。私、先輩のことはライバルだと思ってますので」

「はいはい。でも、工藤君は天使ちゃんが大好きだもんね」

「え、まあ……」

「あーあ、私も青春したいなー。今度合コンでも組んでもらわないと」


 なんて言いながら綴さんは家の方へ。

 別れた後で、俺と霞はゆっくりと歩いて家を目指す。


「なんで自転車乗ってきてないのよ。歩いたら三十分はかかるわよ」

「すまん、柳原さんと話してたら時間がなくて」

「じゃあ、帰りにどこか寄って帰る?」

「この時間だったら牛丼屋くらいしか空いてないぞ」

「いいよ。遊馬の奢りね」

「なんでだよ」

「自転車を忘れた罰。あと、綴先輩とイチャイチャしてた罰で」

「わかったよ、ったく」


 嫉妬というよりは冗談なのだろうけど、彼女はいつだって俺のことを好きで、一番に考えてくれている。

 重い、ということもない。俺がその重みに耐えきれるだけの人間でなければきっと彼女の愛情も負担になってしまうのだろうが、色んな事を経てきたおかげか、俺は霞の気持ちが素直に嬉しいと感じられる。


「文化祭、やることないし一緒に回るか」

「そうね。私、去年は女子の相手するので精一杯だったからゆっくり回ってみたい」

「俺は……怪我明けでずっと屋上にいたなあ。だから初めての文化祭って感じだよ」

「お互い去年は楽しめてなかったってことね。じゃあ今年は楽しも」

「ああ、きっと楽しいよ」


 もうすぐ文化祭。

 俺も霞もつい先月までは、こんな穏やかな日常が来るなんて想像もしていなかった。

 少しいいことがあれば、また悪いことが起こる。


 悪いことが起きれば、それに続くように悪いことが続く。


 そんな理不尽な俺たちの日常も、ようやく終わったようだ。

 

 くよくよしていても始まらない。

 だから楽しもう。

 

 霞と夜道をゆっくり歩いて帰りながら、俺は前を向いてそう決意した。

 

 

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