第62話 天使はおやすみ
随分と穏やかな日常が続いている。
休校が明けてから一週間、学校は新任の先生たちによる不慣れな授業ばかりが続き退屈していた。
それにクラスメイトのほとんどが俺と天使をあたたかく応援してくれているので、なんか照れ臭くはあるが以前よりはずっと和んだ空気が教室中に漂っていた。
放課後は天使がコンビニでアルバイト、俺もようやく新居の候補になるアパートを見つけて来週末には親に来てもらってから契約内容を聞くところまで段取りができた。
そんなこんなで週末になり、俺は柳原さんのサッカー教室にきている。
「工藤君、僕は子供たちみんなにまずゴールを決める楽しさを教えてあげたいんだ」
「いいですね。プロになる子なんてごく僅かですし、サッカーを好きになってもらうことの方が大切だと俺も思います」
「うんうん、そうだよね」
柳原さんは子供にも随分と懐かれている。
俺が色々教えてあげても、子供たちに感心こそされどすぐに飽きて他のことをはじめてしまう。
それに比べて柳原さんが近づくと嬉しそうに彼の話を聞いては試し、また話を聞きにくる子供たちを見ていると彼の天職はむしろこういう仕事なのではないかと思えて仕方ない。
しかしそんな心優しい彼が、怪我をしたくらいで他人に暴力なんて振るうのだろうか?
……いや、サッカーに命をかけていたからこそ、その可能性を絶たれた失望感はきっと誰にもわからないほど大きいものだったのだろう。
俺はまだ中学生あがりだったけど、彼は日本のトップとしてこれからの未来が本当に約束されたスターだったのだから。
「工藤君、足の調子はどうだい?」
「いい感じです。少しは動かしてないと固まってしまいますし」
「そうか。なら少しいいかな。おーい、みんな集合!」
柳原さんが号令をかけると、子供たちが集まってきた。
そして
「今からコーチと僕が試合するからみんな応援よろしくねー」
と話すと、子供たちはワクワクした様子で騒いでいた。
「い、いやいや試合って」
「バスケみたいにさ、一対一もいいじゃんか。抜いたら勝ちってやつ」
「まぁ。そういえば柳原さんこそ膝は」
「大丈夫、全力じゃなければね」
彼の最後の一言に少しだけ柳原というプレイヤーのプライドを見た気がする。
全力は出すまでもないと、そう聞こえたのは何も俺の考えすぎではない。
彼の自信たっぷりな様子を見れば自然と、そう言いたいのだろうと伝わってくる。
もちろん俺のプライドにも火がついた。
そして久しぶりにワクワクした気持ちでボールを蹴る。
あの日本代表のエースだった人と実際にサッカーをするのだから無理はない。
普通なら絶対に相手をしてもらえないような相手との対戦に、心が躍る。
「じゃあ、工藤君からでいいよ」
俺はボールを渡されて、彼の前に立つ。
そして少し緊張が残ったまま、思いきり柳原さんを抜こうとボールを蹴ったのだが気が付かないうちに俺のボールは彼の足元にあった。
「あ、あれ?」
「あはは、そんな単調ではダメだよ。次は僕の番ね」
そんなまさかと思いながら、今度はボールを持つ彼の前に立って構える。
さすがにすぐ抜かれることはないだろうと思っていた矢先、彼が動いたと思うと既に俺の後ろに立っている、そんな感覚になるほど一瞬で俺はかわされていた。
「え……」
「いやぁ力みすぎだよ。視野も狭いしそんなんじゃ僕は止めれないなぁ」
高いレベルでサッカーをやっていたからこそわかるが、全く歯が立たなかった。
柳原さんは「まだやる?」と訊いてきたが断った。何回やってもこれは無理だ。
「工藤君、君は高校レベルなら相当すごいんだろうけど大人のレベルではないね」
サラッと、そう言われて俺も少しはムキになる。
怪我をしていたせいもあるんだと、そう言い訳をしたくて仕方なかったが、すぐに言いたいことを飲みこんだ。なぜか、それを言ってしまたら元も子もない。なにせ柳原さんだって怪我持ちなのだから。
「……すごいですね」
「まぁ上には上がいるってね。若いうちに知っておくほうがいいよ」
「どうしてそんなことを俺に?」
「うーん、経験かな。僕もそうだったけど自分が一番って気持ちは常に持っておくべきプライドなんだけど、同時に上がいるからもっと頑張らないとって謙虚さもないと人間はそこで止まっちゃうから」
「でも、俺はもうサッカーは」
「恋愛だっておんなじだよー。ずっと自分が一番で特別だなんて思ってたらある日突然サヨウナラなんてこともあるんだから」
「……それも経験ですか?」
「あはは、その通り」
結局この日は子供たちが柳原さんのプレーを見て真似をして、教室どころではなかったので自由にボールを蹴らせてから夕方に解散となった。
先にあがった後、柳原さんに言われた言葉を思い出しながら電車に乗る。
……ずっと特別ではない、か。
俺と天使は馴れ初めもこれまでの過程も全部があまりに歪だったので、どこか深い絆で結ばれていると勝手に思っていた。
でも、そんな過去に胡坐をかいているだけではいつか冷めてしまう時もあるかもしれない。
だから俺はずっと天使の一番であるためにも、これからも毎日上を見て頑張っていかないといけないのだと、改めてそんな決意をしていた。
「ただいま」
「おかえり、どうだった今日は?」
家に帰ったら大好きな彼女が料理をしながら待ってくれている。
それだけでもう涙が出そうなほど幸せだ。
エプロン姿でこっちをむく彼女を見ると、なぜか無性に愛おしくなり、抱きしめてしまう。
「ちょ、ちょっとどうしたのよ急に」
「……可愛いな、お前」
「なんなのよ、嫌なことでもあった?」
「いや。柳原さんに、お前のこと大事にしろって」
「なにそれ、サッカー教室なのに恋愛指南までしてくれるの?」
「まぁ、人生についてのお勉強だな」
「ふふっ、いい先生捕まえたんだね。よしよし」
今日は天使が作ったシチューを食べながら、二人でベットの中で新居の候補地のサイトを見ながら眠りについた。
こんな幸せがいつまで続くか、いつまで保てるかと不安になるが、それはきっと俺がまだ未熟なせいだろう。
いつかちゃんと仕事について、俺の力だけで天使を守ってやれるようにならなければ彼女との未来はない。
だから今を精一杯生きる。学校も、仕事も彼女との生活も全部全力で頑張って、後悔のないようにしなければ。
そう決意した夜はいつもより少し蒸し暑く、虫の鳴き声が特に耳に残る寝苦しいものだった。
そして翌朝。日曜日ということで天使と二人でテレビを見ていると、目を疑うようなニュースが飛び込んできた。
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