第17話 学徒達の初舞台

 季節は移り、夏真っ盛り。


 様々な出来事と日々の勉学にグレイスが追われている間にも、アカデメイアでは一年目前期の研究発表が迫ってきていた。半年に一度、学生達が研究成果を発表する場。それが学年統一評価方式の研究発表会である。


 評価の方法は、各教授が学生の展示発表を見てまわり、特定分野において優れていると判断されたものに星を付ける『専門評価』が最初にある。そして、展示発表後には研究分野ごとに論文審査がなされ、細かい『点数評価』が行われる。


 順位判定では星の数が優先され、点数は二次的な評価となる。そのため学院順位で高い位置につくには、展示発表で『自分の研究内容を如何にしてアピールするか』が鍵となる。

 無論、ペナルティとしてグレイスに参加の権利は与えられていなかった。


「受験できないのは残念だけどさ、今回は見学だけでもしておいたほうがいいって」

「うん……そうする」

 ベルチェスタの励ましも、当日の活気付いた試験会場においてはグレイスの虚しさを強めるばかりだった。


「――はい、皆さん! 静粛に! これより学年統一の研究発表会を行います。先生方が回っていきますので、発表者は自分の定位置で研究内容の説明をするように!」

 特別講師のポールズ女史が発表会の進行を務めている。彼女の一声で学生達は各々の発表の場へと立つ。


 ベルチェスタやアンリエルも、それぞれに割り当てられた場所で発表の準備を済ませていた。立ち並ぶ学生の中には、頭一つ飛び出たエミリエンヌや、相変わらず気の抜けた笑顔のシャンポリオン、それにシュヴァリエの姿も見受けられた。

(……順番からすると……ベルチェスタの発表はすぐかな?)


 グレイスはベルチェスタの発表場所に向かった。そして応援の声をかけようと近づいてみたところで、そこに立つベルチェスタの表情が尋常でないことに気が付く。

 踏み止まって、遠巻きに様子を観察してみると……。


「……大丈夫……。大丈夫さ……はは……。練習どおりにやればいいんだから……。うん。……あー、あーっ……と。本実験の結果から考えられることは……」

 多少、熱気がこもっているとはいえ、さして熱くもない会場で汗をだらだらと流し、荒い息を吐きながら一人壁に向かって発表練習をしている。とても声をかけられる雰囲気ではない。


 そこへ、発表を見て回っていた教授の一人がやってくる。

 小さめの丸眼鏡に、気難しそうな顔。海向こうのブリテン出身、ジョン・ドルトン教授だ。化学、物理学に精通し、最近では気象学という新分野を打ち立てて、ロンドン王立協会の会員にも選出された実力者である。


「えー、君は十三番、ベルチェスタ・パストゥール……一年目の学生、と。……ん、取り組んだテーマは『クリームポトフの腐敗過程に関する考察』……? でいいのかな?」

「は? ……は、はい! それでは早速、説明をさせていただきます!」

 傍から見てもあからさまに動揺していると見える。ベルチェスタは前置きもなしで、いきなり発表を始めてしまう。


 発表場所には机が一つ設けられ、蓋のついた小さな鍋が幾つも並べられていた。その一番左に置いてあった鍋を手に取って蓋を開けると、途端に食欲をそそる好い香りが会場の一角に漂い始める。隣で発表をしていた学生がちらちらとそちらに視線を送っては生唾を飲み込んでいる。


「実験用として分量は少なくしてありますが、クリームポトフの材料は一般的な肉、野菜類の使用を想定して作っています。牛乳、バター、小麦粉で作ったソースの中に、ニンジン、ジャガイモ、タマネギ、豚肉を一欠け入れてあります」

 突然始まったベルチェスタの家庭料理講座『美味しいクリームポトフの作り方』に、さすがのドルトン教授も唖然として涎を垂らすしかない。審査員の興味を惹くといった意味では、成功しているといえようか。


 ――と、審査員の興味をたっぷり惹き付けたところで、話は本題に入る。ドルトン教授も涎を拭いて表情を引き締めた。

「こちらはまず、特に手を加えずに放置したクリームポトフです……。一日目、三日目、五日目と時間を置くに従い、カビの発生とその増殖が見られるようになります。……あー……あ! え……と、特に、七日目以降のカビの増殖には著しい進行が見られます」

 並べられたポトフの鍋を次々と開けていくに従い、美味しそうだったポトフは黒い点のようなカビに侵されていく。


「え、えーと……一方、これらの隣に並べたものは同じ鍋で作られたポトフで、一日毎に火を通しています。こまめに火を通したものは七日を過ぎてもカビが発生しませんでした。あ、ちなみに何も手を加えなかった、放置されたポトフは三日目でカビが発生しています!」

「――ちょっといいかな。これらのポトフは、一定の環境条件下で放置したのかね?」

 黙って話を聞いていたドルトン教授だったが、ここで一つ質問を投げかけてくる。


「え! 一定の……? あ、あー! えっと。……日によっては天候や気温は異なるので一定の環境では……ないです。で、ですが二種類のポトフは同時に、同じ部屋で放置したので、二つのポトフに関しての条件は同じです……」

「では天候、気温、それから湿度の変化は記録したかな?」

「はい、その日の天候と気温は……。湿度は……測っていません……」

 ドルトン教授の鋭い指摘にベルチェスタの声は小さくなっていく。


「……ん、腐敗の原因としては温度と湿度が重要と言われている。パラメータとして湿度は測っておいた方が良いだろう。乾湿計ならば用意できるはずだね?」

「はい、すいません……湿度までは注意していませんでした……」

「ふむ、そこだけ気になったのでね。……話を続けてくれたまえ」

「えー、そ、……そしてですね! 火を通し続けたら何日まで保つのか、試したところ……今回の実験では九日目の夜までカビの発生は抑えられました」

 九日目と書かれたポトフの蓋を開けると、乳白色のソースに黒い斑点がぷつぷつと現れ始めている。


「その後の腐敗速度も定期的に火を通しているクリームポトフはカビの増殖が遅かった、です。えー……、こ……ここでっ、一五日目のものについて二種類のポトフを比べてみますと……」

 一方は、やや大きな黒い斑点が見える。これは、火を通していたものだ。逆に火を通していなかった方は……。

「ぬう……。これはまた……」

 もっさりとしたカビの集合塊がソースや野菜の上に青緑色の花を咲かせている。


「更に、二〇日なりますと……!」

「ぬぬっ……!」

 火を通している方もさすがにここまで来ると、黒い斑点に加えて、白かったソースが黄ばんでしまっていた。しかし、火を通さず放置したポトフの方は、そんなことすら問題としない程の異様な変貌を遂げ、かなりきつい酸味の利いた臭いを撒き散らしている。


 隣で展示をしていた学生が、「うっ……」と口元を手で押さえながら試験会場の外へ走り去っていく。

「そして……、三〇日目に突入すると火を通していないポトフは……!」

「い、いや、もう結構。よくわかった! 私はまだ審査が残っているので次に行くとしよう!」

「……このように禍々まがまがしく……え? あ! まだ、あたしの考察が……!」

 逃げるようにその場を離れるドルトン教授。


 陰ながら見守っていたグレイスの元にも酸味の利いた臭いが漂ってきた。堪らず鼻を摘まむ。

 ベルチェスタの考察がこの後、どういった展開を見せるのかは気になったが、鼻と喉を刺激する酸っぱい臭いに耐えかねてグレイスもその場から退散することにした。

「うえぇー……。すっぱ……、酸っぱい……うぐぷっ!」

 あやうく胃の中のものを戻しそうになる。食道を這い上ってきた胃酸が喉を焼いた。


「顔色が優れませんね、どうしました?」

 込みあげてきた吐き気を抑え、背中を丸めて縮こまっていたグレイスに声がかけられる。 研究発表会に合わせてきたのか、アンリエルは華やかな薄緑色のドレスに身を包んでいた。長くてふわふわの髪も、いつもとは違って綺麗に束ね、結い上げている。


「あー……。アンリエル……。大丈夫、大丈夫。まぁったく問題ないよ……」

「そうですか? 目が潤んでいますが、本当に大丈夫なのですか?」

 柱の影で蹲っていたグレイスを目敏く見つけたアンリエルは、心配そうに、というよりはただ無表情で観察するようにグレイスの具合を窺っている。


「本当、本当に大丈夫だから……。それよりアンリエルは発表があるんでしょ? 自分の場所にいなくていいの?」

「その必要はありません。どうせ口頭発表は苦手ですから、下手に口を開いて評価を落とすよりは文書だけ掲載しておくのが得策です」

「……単に面倒だから、とか言わない? それ」

「そうとも言います。いえ、むしろそうですね。文字で書いてある事を一々説明するのは面倒です。二度手間で疲れます」

 本気でやる気がない様子だった。だが彼女の場合、研究発表会に出てきただけでもその姿勢を評価すべきかもしれない。


「それで、アンリエルは何について研究したの?」

 ――そもそもいつ研究なんてしていたのかと問いたい。

 グレイスが一緒にいた限りでは、本を読んでいるところしか見たことがなかった。


「手近なもので済ませました。テーマは『プリニウスの博物誌に関する評論』です」

「へぇ、意外とまとも……、あ、ううん! 難しそうなテーマだね、どれどれー……?」

 板壁に掲載されたアンリエルの評論文を読んでみる。


『……率直に面白い。が、この博物誌は学術的に体系立てられたものではないため、分類に疑問が残る。実際に実物を細かく観察したと思われる項目も多いが、想像や伝説上のものまで混じっていたりするのはどうだろう? 著者自身も面白がって書いている節がある。狼人間はありえない。あと、雪山に現れる巨人とか。他にも……(後略)』


「…………えと。これは何と言うか……。評論文、というより……読書感想文……?」

「思ったままの事を書きました」

 読書感想文だった。出だしこそ評論じみた文章になっているのだが、次第に文章が崩れ後半は多分に主観が混じってしまっている。評論文とするからには、もう少し科学的な考察があってしかるべきだろう。


「あのさ、アンリエル? でもこれはちょっとその……。教授達も評価するのが難しいんじゃないかな……と思うよ?」

「そうでしょうか? あれよりはましだと思うのですが」

 グレイスの遠回しな苦言は聞き流し、アンリエルは隣の掲示物を指差してみせる。

 そこには粗悪な紙に数式を殴り書きしたものが数枚、貼り出されていた。


「……なにこれ?」

 肝心の研究発表者本人はその場におらず、紙の上には尺取虫が這った様な汚い字で、延々と数式の羅列だけが書き連ねてある。数式が何を意味しているのか、グレイスには書いてある内容がさっぱりわからなかった。やがてその式が一つの解と証明を得たらしい所で、説明文が一言。


『――この世紀の発見を理解できない奴は馬鹿だ。――エヴァリスト・ガロワ――』


 どう見ても喧嘩を売っているようにしか見えない文章だった。

「何、これ? なんなの?」

「エヴァリスト・ガロワでしたか。この自分が天才と思い込んでいるような落書きは」

 アンリエルが忌々しげに掲示物を睨みつける。


「このエヴァリストって人、確か……」

「ええ。忘れもしません。数ヶ月前にベルチェスタの働く店で、私のパンを横取りしようとした男です」

「あれ? それは私のパンだったような……?」

 実際にはグレイスが確保したパンだったのだが、アンリエルの中では自分のパンを取られたことになっているらしい。


「……それにしても数式だけ書いた紙が貼り出されていて、本人は見当たらないね」

「どうです、グレイス? ここまでやる気のない発表に比べれば、私の方が幾分ましではありませんか?」

「え? ……うん。まあ幾分か、ね……」


 ――五十歩百歩。内心では大差ないと感じたグレイスだった。

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