第四幕
第12話 女学生の輪
入学準備の休校期間が終わり、アカデメイアでの講義が始まると、校内はにわかに慌ただしくなる。在学生も実家から寮に戻ってきて、学院は途端に活気溢れる場所へと変貌するのだ。
講義が始まって間もない頃は新入生達もこの雰囲気に圧倒されてしまうのだが、やがて勉強が忙しくなってくるとそんなことを一々気にする人間もいなくなってしまう。
(……しかし、耐え難いほどに騒々しいな。この人ごみの中を歩くのは気が滅入る……)
そんな大勢の人ごみの中にいる一人、今年の新入生であるシュヴァリエ・ベルヌーイは、目の前に広がる人の群れを見てうんざりしていた。
先程まで隣を歩いていた友人のシャトレ嬢は先へ進んでいってしまい、シュヴァリエは取り残されてしまった。もっとも、向かう教室は同じなので探す必要もなければ、急いで追いつく必要もない。
人ごみを掻き分けて歩いていると、講義が行われる教室前の廊下では在学生、新入生が入り混じって、開講される内容について情報交換をしている姿も多く見受けられた。
「なあ、もう通年で聴きに行く講義は決めたか?」
「とりあえずプルースト教授の化学入門は外せそうにないね……」
「それならドルトン教授の原子論も一緒に受けたほうが良くないか?」
「凄い人の数です。化学関連の講義は人気が高いようですよ、グレイス?」
「……ヴォークランの爺さん、今年もまた教壇に立つんだと……」
「おいおい……あの爺さん大丈夫なのか? 去年の講義なんか、あれ何言っているのかわからなかっただろ。そもそも講義する以前に教壇に立てるのかよ?」
「うわ、すみません、通してください……! アンリエル、どこー……?」
「今年はポールズ講師が燃焼論についての講義を新しく始めるそうだな」
「新しい講義といえば新任の非常勤講師、プロシア出身らしいけど専門分野は何かな?」
人ごみの中で同じ新入生の学生を何人か見かけた。だが声をかけるほど親しくもなく、向こうも気づかないで横を通り過ぎていった為、シュヴァリエは特にどうすることもなくその学生を見送った。
「はいはい、ちょっとごめんよ。グレイス! こっちこっち!」
「あ、ベルチェスタ……! アンリエルもそっちにいたんだ……」
人の波に揉まれてさまよっていたグレイスを、ベルチェスタが引っ張り出してどうにか救出する。まだ講義は開講第一日目だというのにグレイスは既に疲弊していた。
「どうする? 化学入門は三人とも聴講するとして、他に聴く講義は決めた?」
「えーっとね、この自然科学概論っていうのも受けようかな……」
「ほうほう、そりゃいい。あたしもその講義は必須だと思っていたところだよ。で、アンリエルは特に聴きたい講義とかあるのかい?」
「選ぶのが面倒なので私はグレイスと同じ講義でいいです」
やる気のないアンリエルの言葉に、ベルチェスタはがっくりと項垂れる。
「あんた……本当にやる気が……。ああ、もういいや……言うのはやめよ」
そうやって、何だかんだと教室の前で三人が相談していると、廊下の先から見知った顔の学生が歩いてきた。
「あら、皆さんお揃いで。通年で聴きに行く講義はお決まりになって?」
遠くからでもその存在感が際立って見える一人の女性。
一度会えば忘れない、華やかにして優雅な立ち姿で現れたのは、
「あ、入学式の時の……」
「げ、シャトレ……」
「大女です」
「……エミリエンヌ・デュ・シャトレ、ですわ」
若干怒りのこもった口調で、眉を吊り上げながら改めて名乗りを上げる。
「……それで、今日は取り巻きの男二人はいないみたいだけど?」
「取り巻きなどと低俗な呼び方はやめてくださる? 我が愛しのフランソワでしたら、専攻が言語学ですもの。寂しいですけれど、共通するのは考古学とギリシア語の時間くらいのものですわ」
シャンポリオン(=フランソワ)と重なる講義が少ない為か、エミリエンヌは残念そうに溜め息を吐いていた。
「えと……シュヴァリエ、も見かけないようだけど……?」
「何を言っていますの? シュヴァリエならそこに居るでしょう」
怪訝そうな顔をしたエミリエンヌの指摘に振り向いたグレイスは、ちょうど人ごみを抜け出てきたこちらを見て「わひゃあぁ!」などと大仰に驚くと、腰を抜かして廊下の床に尻餅をつく。
――失礼な反応だ。
「廊下の真ん中で立ち話などするな。通行の邪魔になる」
人ごみに揉まれた苛立ちも含め、文句の一つも言いたくなる。座り込んでいたグレイスも弾かれたように立ち上がり、廊下の隅へと移動する。
「別によろしいのではなくて? どなたも気にしていませんわよ、シュヴァリエ、貴方以外はね」
自分が注意されたと思ったのだろう。気に食わない表情で、廊下のど真ん中に立ったエミリエンヌが反論してくる。
(……これがシャンポリオンの言うことなら、素直に聞くんだが……)
エミリエンヌ、シャンポリオン、そしてシュヴァリエの三人は初等学校からの友人だ。
長い付き合いの中では喧嘩もしたし、楽しく遊んだこともある。だが、エミリエンヌの態度はいつの頃からか、シャンポリオンには甘く、シュヴァリエには厳しく接することが多くなった。
とは言っても、別段に険悪と言うわけではない。機嫌の良い時はシュヴァリエも馬の遠乗りに付き合わされたり、剣の稽古相手をさせられたりする。そのくせ、こちらが研究の手伝いを頼んでも殆ど協力しようとはしないのだから、自分勝手できまぐれな性格だ。
(……現に今も、どういうわけか毛嫌いしていた連中と会話をしているしな。行動の基準が理解できない……)
エミリエンヌの行動を訝りながら、彼女自身がこれまで差別的に見ていた三人組をシュヴァリエも改めて観察してみた。常識に欠ける貴族の子女に、どこか影のある不気味な少女、そして男のような服を着る普通市民の娘。
シュヴァリエの視線に気がついたのか、三人の内一人、グレイスが何故か慌てた様子で口を開く。
「あ、あー、そうだ! 講義、どんなのを受けるつもりなのかな? その、シュヴァリエは例えばどういう分野を専攻しているの……?」
やや遠慮がちな声でシュヴァリエの専攻分野について質問してくる。恐らく、彼女らも廊下で何の講義を受けるか情報交換をしていたのだろう。
「俺の専攻は結晶学だ。ただ結晶学と一口に言っても、化学も物理学も数学も、自然科学全般を相手にすることになるからな……。時間の許す限り、なるべく多くの講義に出席するつもりだ」
シュヴァリエがグレイスの質問に答えると、どういうわけか隣にいたエミリエンヌが満足そうに微笑んだ。
「シュヴァリエときたら自然科学の範囲でなら何にでも興味を持ちますもの。貴女達とも、そのうち何かの講義で顔をあわせることがありますわ。仲良くしてあげてちょうだいな」
益々、不可解な言動だった。しかし少し考えて、シュヴァリエはエミリエンヌの言動の理由に一つ思い至ることがあった。
つい最近、図書館に一人でいる所へエミリエンヌがやってきたことがある。彼女はシュヴァリエに対して「新しい学友の一人でも作りなさいな。寂しい男ですわね」などと、自分の事は棚に上げて文句を言っていた。
(……そうか。シャトレの方こそ、女友達を作りたかったのか……)
入学式の時に喧嘩をして以来、話しかけられなかったのだろう。その内に、エミリエンヌ以外の三人は仲良くなってしまった。他に同学年で女子学生はいないから、彼女一人が女子の輪から外れてしまった形になる。
ひょっとすると廊下でシュヴァリエと三人が話し込んでいるとでも見て取ったのだろうか。ここぞとばかりに、シュヴァリエを橋渡しとして自分も輪に加わろうという目論見に違いない。
(……素直じゃない奴……)
エミリエンヌは相変わらず高圧的な態度は崩さない。罵り、毒を吐きながら、けれども次第に他の女子三人との会話を楽しみ始めた。特にアンリエルとの相性は最悪のようだったが、互いに遠慮なく口喧嘩できる学友と見なせば悪くない。
普通市民の娘、ベルチェスタとはまだ会話がぎこちないが、エミリエンヌの強引さを考えれば、近しくなるのは時間の問題と思えた。
「……しかし、話を聞いているとあんたも化学とか物理学に興味がありそうだね?」
「興味? そんなものではありませんわ」
女子特有の途切れることのない会話。その流れを断ち切るかの如く、当然の見解と思われたベルチェスタの指摘をエミリエンヌはきっぱりと否定する。
「わたくしが抱く感情はもはや興味の域を超えた愛! 物理学に対する情熱ですわ!」
エミリエンヌは拳を握り締めて力説する。彼女の胸の内では、物理学に対する想いが、まさに恋慕にも似た熱い熱い情熱の炎で燃え滾っていた。
「暑苦しい情熱ですね。……焚きつけたのはベルチェスタですよ?」
「うっわ……。あたし、まずいこと聞いちゃったのか?」
一人、背後に情熱の炎を立ち昇らせるエミリエンヌ。「どうにかしなさい」と、アンリエルがベルチェスタを責める。
「……世界を支配する完璧なメっカニズム! 完成された自然法則の美しさ、おわかりになりまして!?」
エミリエンヌは完全に自分の世界に入り込んでいた。そして他人をも引きずり込もうとするのだ。この強引さは時として危うい。付き合いの浅い人間は恐れ、離れていくのだ。
「うーん、なんとなくは……」
「わかりませんよ、そんなもの。ここは無視して行きましょう。これ以上、相手にしていると首が疲れます」
「そーそー。急がないと講義が始まるよ」
アンリエルとベルチェスタは廊下の中央に立ったエミリエンヌの左右両側を通り抜けて教室に入っていく。後には一足遅れたグレイスと廊下の真ん中で拳をぶるぶると震わせているエミリエンヌが残された。
「……わ、私もこれで、失礼しまーす……」
いそいそと軽く頭を下げながら、エミリエンヌの横を通り過ぎようとする。グレイスが右に一歩を踏み出すとエミリエンヌもそちらへ一歩踏み出した。
「あ……、ご、ごめん……」
一歩下がって左に行くグレイス。だがエミリエンヌもまたそちらへ動く。
……劇烈に嫌な予感がした。何をする気だろう、止めるべきか。
グレイスが恐る恐る顔を上げると、――がしっ、とエミリエンヌはグレイスの両肩を力強く掴んだ。
「ねえ、グレイス……? わたくし、この前も言いましたわよね? 低俗な人間とつきあっているとそれに合わせて堕落してしまう、と。ですが逆に、こうは言えなくて? より高尚な人間とつきあっていけば、自分を高めることもできるのだと……」
「いや、あの……どうなんだろー……? 結局は本人の努力次第だと思うけど……」
「その通りですわ……。努力をするのか、しないのか、決めるのはあなた自身。ですから……あのように低俗な連中とつきあうのは、おやめなさい。わたくしとでしたら……あなたはきっと高みに至ることができましてよ? そうなさいな……。わたくしが、あなたを、同じ高みへと導いてさしあげますわ……」
エミリエンヌの黒く大きな瞳が、熱を帯びた視線をグレイスに絡みつかせる。彼女の悪い癖だ。気に入った同志を見つけると、自らの懐深くに抱き込もうとする。
「い、いえ! そんな、お手を煩わせてご迷惑でしょうから! 失礼します!」
そこはかとなく危険な雰囲気を感じ取ったグレイスは、エミリエンヌの視線から逃れるように、一目散に教室へと走っていく。
……一度は捕らえた獲物に逃げられてしまったエミリエンヌだが、さして落胆した様子もなく黙ってグレイスを見送っていた。ふぅっ……と息を抜いて姿勢を崩し、前に掛かった髪を片手で大きく撥ね上げる。
「グレイス……。あの子は脈ありですわね」
走り去っていくグレイスの後ろ姿を眺めながら、エミリエンヌは不敵な笑みを浮かべるのだった。
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