17.
「便りを出したいのなら、北を回る商人に頼んでやることはできる。必要なら言ってくれ。ここで家のことをしてくれるのなら、給金はもちろん払う。今すぐ決めなくていいから、よく考えて」
ノキエは話を締め括って立ち上がる。
「疲れたろう。今日の食事は火を使わないものでいい」
労うことのできる男なのだと、改めて思う。ノキエが殊更に細やかなのか、それとも普通なのかがわからない。片付けた食器を納戸に収め、食堂を見回す。いつもならそこに座っているはずのマウニがいない。
この家の中にいるのは、よく知らない男と自分だけだ。悪い男ではないらしいし、少なくとも自分をツゲヌイから救ってくれたけれども、ほとんど何の情報もない男。そんな男に仕えて生活をしていくと決めてしまって良いのか。
時間をかけて考えても良いと、提示してもらってはいる。自分にカエルをさせようと思っているかどうかは知らない。ノキエは望んでいないように見えるけれど、もしもそうしようと思ったら逃げ場所はない。あれはベッドの上でしか行われないものじゃない。
暗くなる前に慌てて食事の支度をし、ノキエの部屋をノックした。いつも通り食事を部屋に届けるつもりが、食堂に来ると言う。戸惑うサウビに、ノキエは言った。
「まったく知らない人間同士が同じ家に寝起きするのも、勝手が悪いだろう。妹を嫁に出したばかりの、寂しい男の話し相手をしてくれ」
ドアを背に、ノキエは微笑んだ。
「私も一緒に食事を、と」
マウニと一緒に食事をするのは抵抗がなかったが、本来は使用人の自分が主人と共に食事をすることは、おかしなことだという自覚はある。
「この家では上下はない。お互いの仕事があるだけだ。どの部屋もどの道具も、あんたの好きに使って構わない。ただ俺の場所は、弄らないでくれ」
「でも、ノキエさま」
「ああ、敬称も必要ない」
戸惑った顔のまま、サウビはノキエにつき従って食堂に入る。籠にセットしたままのノキエの食事と、自分のためのパンの切れ端とチーズがある。
「何故あんたの食事だけが粗末なんだ」
「男の人と同じものを食べてはいけないと」
ぱん、とノキエが掌を合わせた。
「男と女は役割が違うだけで、別にどちらが偉いわけじゃない。そんな戯言は忘れてしまえ」
北の森の食卓が蘇る。両親も姉妹も、確かに同じ食事をしていた。足りなくて分け合うことはあっても、誰かだけが口を奢らせていることなんて、確かになかった。それは自分たちに手に負えない仕事ができたときに、更に貧しい手伝いの人を雇ったときも同じだった。
自分の持っていた普通をツゲヌイに提示したとき、男は女よりも優れている生き物なのだから女は男に従うしかない、同じ扱いなど以ての外だと頬を打たれたのだ。三年の間に、自分の価値観はどれほど変わってしまっているのだろう。
食卓を整え直して、向かい合って座った。前日の宴会の料理に少し手を加えただけの簡単なもので、お茶だけが暖かい。
「マウニのいない食卓は、静かだな」
突然気がついたように、ノキエは呟いた。
「もっと早くに、手伝いの女を頼めば良かった。ひとりのときはギヌクや村の誰かに来て貰うように言っていたんだが、そうも行かない晩も多かったろう。あんたが来てからあれは、毎日楽しそうにしてたから」
兄と妹だけの生活を、サウビは思った。忙しい兄に頼れずに心細いこともあったろうに、マウニはそれを見せていなかった。
「あんたの里には、きょうだいがいるのか」
「三つ下の妹と、九つ下の弟が」
言いかけた瞬間に、激しい郷愁が襲ってきた。妹と弟という言葉を口に出したのが、久しぶりだった。
疲れたろうから今日はもう下がってくれ、続きはおいおい話そうと、ノキエは言った。それでもまだノキエの真意は見えないと、内側から閂を降ろしたサウビの部屋のドアは、一晩中コトリともしなかった。
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