第3章 夏ひとつ目

人魚姫とかき氷 1

 


 「それにしても、こんなにも海が似合わない人、初めて見ました」

「……ああ、うん。そのセリフ、そっくりお返しするよ」


 僕と糸が、こうしてお互いを褒め合っているのはとある海水浴場の、海の家の砂に傾いだパラソル付きテーブルの向かい合う椅子の上である。

 ただ、厳密に言うならば、二人で海の方に体を向けているので、パラソルの下、テーブルを挟んで横並びだろうか。


 目の前に広がるのは、ひしめくポップアップテントの色とりどりの屋根やパラソルに、人混みを掻き分け当てもなさそうに練り歩く若者や、迷子になられては困ると隙間を縫うように走り回る幼児を追いかける必死な親。

 海は、遠くにちらちらと見えるだけだ。 

 ……そして、暑い。


「海の家、といってもオシャレなやつばかりじゃないのは分かりましたけど……こうやって海水浴場に来て、大音量で聴きたくもない曲ばかり流されるのは、苦痛以外の何ものでもないと思うのは罪ですかね。シキさんは、どう思います?」


 この海水浴場にある海の家は、近くの民宿が夏の間だけ開ける簡素な造りの小屋ばかりで、糸の言う『オシャレ』の意味するところが一体何なのかは分からないが、何棟か並ぶ海の家で若者たちばかりがたむろする海の家と、家族連れが集まる海の家の違いを見比べると、なるほどその微妙なる違いがよく分かる。

 僕と糸が居るのは、もちろん……。


「なんで音楽を流すんだろうね……。面白いことに、音楽を流すことを禁止した海水浴場の集客率が下がった話を聞いたことがあるけど……若者の高揚感をさらに煽ることが必要なんだろうか。いや、まてよ。思考を停止させるためかな? こんなに大音量で音楽をかけられていたら考えることも出来ないよね」


 ふと、隣りに座る糸を見た。


 潮風に長い髪を靡かせ、ギラギラした太陽と眩しい砂浜の照り返しに夏服の白いセーラー服、紺色のプリーツスカートを着た糸の足元を見れば、どうやら素足で砂を掘る感触を楽しんでいるようである。

 ……夏服のスカート、ちょっと短いよね?


 それにしても、前を通り過ぎる男どもの遠慮のない視線が、糸の脚の長く、真っ直ぐなその白い肌を舐めまわすのを見かけるたび砂を掛けてやりたくなるのは、どうしたものだろう。


「海水浴場において思考を停止させたり低下させたりするのは、何も考えず楽しめということなんでしょうけど……楽しんだ後、そこに残るのは後悔しかないような気もするんですが」それは単に、わたしにはこの場に来る資格がないということなんでしょうか? もしかして若者失格ですか?


 糸が眩しそうに目を細め、海の方向を眺めて降り注ぐ大音量に負けじと言ったその言葉は、あっという間にかき消されてゆく。

 ……資格云々は僕も同じようなものだけど、何はともあれまず若者は、自分を若者とは言わない気がするけどね。うん。

 

「待ち合わせは、この海水浴場ですよね?」


「そのはず……なんだけど、なぁ」

 物凄くスタイルの良い女性が目の前を通ったので、思わず目で追ってしまう。小麦色に日焼けした背中から腰のライン、さらにその下に続く……「あの胸は偽物フェイクですよ?」

 糸の声に、パッとその顔を振り返る。

 一見すると無表情な糸の目の奥に、僕の煩悩を軽蔑するような何かが覗いているのは、気のせいだろうか。

「ち、違うよ。僕が見てたのは胸じゃなくて、形の良いお……」

「……お?」


 お、から始まる言葉を何か思い出そうと、脳をフル回転させるのだが耳障りな音楽が僕の思考を低下させる。早く何か言わなくては、とその時だ。


「ごめんなさ〜い。待った?」


 セージグリーン色のビキニトップに包まれた、純正品と思わしき、たわわに実ったその健康的な色の柔らかな果実の如き丸みを帯びた双丘を、歩くたびに波打たせた女性が二つのかき氷を手に現れ、僕の窮状を救ってくれたのであった。……うーむ。大人の色香というのだろうか。その色のビキニを選ぶとは、なかなかの上級者とみた。


「……依頼人の方、ですか?」

「やーん。高校生? すっごい美人だね。あ、もしかして妹さん? 一緒に来たの? 仲良いんだー。それにしても兄妹揃って美男美女って、尊いわ」親の顔が見てみたい、と間違った使い方をしながら、かき氷をテーブルの上に置くと、うふふと笑うこの女性の、こちらの質問に答える気はなさそうなその一方的なお喋りを聞きながら、どうやらこの人物が事務所に電話をくれた依頼人のようだと、僕は目星をつけた。



 北村ふしぎ探偵事務所に置かれた雀荘の名残りであるピンク色の公衆電話がひび割れたような音を鳴り響かせ、久しぶりに依頼人と繋がったのは、終業式を終えた糸が事務所に顔を出したその日だった。


 先に階下したの喫茶店に寄って挨拶をしたと思われる糸が、テイクアウトのコーヒーを持ってガラス扉を開けた時、受話器の向こうの女性が僕に向かって明るい声で尋ねたのである。


「あのー。ふしぎ事務所って、出張とかしてくれます? 不思議な話を聞いて貰いたいんですけど、電話じゃ……ちょっと」


 そうして僕は、何故か当たり前の顔をしてついてくる糸を伴い、依頼人に指定されたこの海の家へ『出張』に行くこととなったというわけだった――。

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