第82話 パンドラの箱 その四



 困りはてていると、なぜかポケットのなかでスマホが鳴った。信じられないが電話がかかっている。清美からだ。清美は夢巫女だから、また夢を通じて結界のなかまで意識をとばしているのかもしれない。


「はい。龍郎です」

「あっ、龍郎さん。穂村先生が話があるって言うんです。一回、家まで帰ってきてください」

「えっと、今、敵の結界のなかで、青蘭がさらわれて——」

「わかってます。それの相談もあるので、とにかく待ってますから帰ってきてください」


 さすがは夢巫女だ。何もかもお見通しらしい。


「わかりました」

「箱と絵は持って帰ってくださいね。大事な接点なので」


 箱と絵。

 つまり、龍郎が今この手に持っている箱のことだろう。

 絵はなんのことかわからなかったが、マルコシアスに頼んで、結界の外に出ると謎が解けた。


「マルコシアス。黒川の結界の外まで出ることができるか?」

「そのくらいなら簡単だ。乗れ」


 ふたたび背中に乗せてもらい、走りだす。空間の伸びていく感覚があり、砂漠の景色が薄れていった。膜をやぶるような感触とともに、黒川のアトリエに帰ってくる。ふりかえったとき背後に黒川の描いた絵があった。やはり、絵のなかにひきこまれていたらしい。清美の言う絵というのは、これのことだろう。


 マルコシアスの四つ足が床に着地する。

 前にむきなおった龍郎はハッとした。

 青蘭が倒れている。

 あわててかけより、抱きおこした。


「青蘭!」


 だが、返事がない。

 肌にぬくもりがなかった。

 かるく頰をたたいても、なんの反応もない。まるで人形だ。


「青蘭、青蘭?」


 急いで胸に手をあてる。心臓はかすかだが動いていた。ゆっくりと上下している。耳をよせると呼吸をしていることもわかった。

 生きてはいる。

 意識を失っているだけのようだ。


「青蘭は自力で結界から逃れたのかもしれないな。とにかく、つれて帰ろう」


 青蘭を自動車の後部座席へ運び入れ、黒川の絵と、龍郎がにぎったままのパンドラの箱を乗せて帰宅した。


 玄関先にカエルの妖怪が正座して待っている。それを見てホッとするようになってしまった。


「龍郎殿。よう戻られた。清美殿が待っておるぞ」

「うん。ただいま。清美さんはどこに?」


 居間のふすまがひらき、清美が手招きする。なかへ入ると穂村がぜんざいをすすっていた。龍郎のかかえた青蘭を見て、おおげさに頭をふる。


「遅かったか。ヤツにやられたんだな?」

「先生。青蘭はどうしたんですか? 呼んでも起きてこないんです」

「そりゃムリだ。なにせ、魂がぬかれとるよ」

「えっ?」


 龍郎は穂村の端的な答えに呆然とする。

 腕のなかの青蘭は眠っているようにしか見えない。だが、たしかに呼吸も脈拍も弱い。

 青蘭のこんな状態を前にも見たことがあった。魔界へ行ったときだ。辺土リンボへ堕ちたとたん、魂が体から離れてしまった。あのときの青蘭によく似ている。


「魂が……ぬかれた?」

「うん。どこかに封印されたようだ」


 そう言って、穂村は龍郎が持つ小箱をじっと見つめる。

 イヤな予感がした。

 すると、あっけなく——


「そこだね」


 ああ、やっぱり……。


 龍郎は頭をかかえたくなった。

 結界のなかで黒川は青蘭をこの箱のなかにつれさった。あれは青蘭の魂だったのだ。だから、アスモデウスの姿にも、青蘭の姿にも見えた。


「早くなんとかしないと!」

「まあ、急ぐことはない。君も汁粉でも食べたまえ。脳みそに糖分を補給してやらんとな」


 穂村が甘党だとは知らなかった。

 悪魔はことごとく、清美に餌づけされる。


「穂村先生。そんなこと言ってる場合じゃないです。早く、青蘭の魂を封印から解かないと」

「何、体も無事だし、心配はいらん。ところで、青蘭の兄のことだが」

「黒川水月が兄でした」

「それは偽名だ。というか、画家だそうだから、雅号だろう。彼はイギリス国籍で、本名はアルバート・マスコーヴィル」


 龍郎は青蘭を座椅子ソファーによこたえながら、穂村の説明を聞いていた。そこで、ひっかかる。


「マスコーヴィルって、たしか青蘭のおじいさんのファミリーネームですよね?」

「そう。アンドロマリウスが人間社会で名乗っていた名前だ」

「でも、青蘭の祖父には娘が一人しかいなかった。それが青蘭の母で……だから、マスコーヴィルの姓を継げるのは、今では青蘭しかいないはず」

「まあ、すわりなさい。最初から話してやろう」

「…………」


 長くなりそうだが、青蘭の現状は一分一秒を争うほどではないようだ。

 おとなしく青蘭の頭をひざにのせて座った。


 穂村は清美にぜんざいのおかわりを頼みながら話す。


「私がアンドロマリウスに頼まれ、実験を開始したのは、およそ四十年前だ。青蘭の母カレンが成人するまでに、天使としての器を造ることが目的だった。アンドロマリウスはそのころ、すでにマスコーヴィル家の当主として財をなしていた。だが、ヤツの本体は悪魔だ。人間の戸籍を手に入れるためには協力者が必要になるな? 早い話が戸籍を金で買ったんだ。マスコーヴィルの名は百年ほど前に、落ちぶれた貴族から譲り受けたらしい」

「なるほど」

「そのときのほんとの当主には親兄弟がいた。子どももな。今も彼らの孫子が生きている。どうやら、アルバートはその傍系の戸籍をアンドロマリウスと同じ方法で入手したようだな」

「でも、それじゃ、青蘭の兄と主張することはできないんじゃないですか? 従兄弟とかなんとか主張はできるかもしれませんが」


 カラリとふすまがひらく。清美が入ってきて、穂村と龍郎の前に汁粉の椀を置いた。


「龍郎さんも食べてください。疲れたときには甘いものがいいんですよ」

「そうですね。いただきます」


 ぜんざいは餅がトロトロ、小豆がホクホク。かなり甘いが、かと言って甘すぎず、絶妙だ。

 やっぱり、こういうときの清美のスイーツには抜群の効果がある。

 なんだか力が湧いてきた。


 餅をハフハフしながら、穂村が続ける。


「カレンが少女のときに、よんどころない事情でできた子どもであり、生まれると同時に親戚筋に養子に出された、と彼は主張している。要するに私生児だな。父親がわからないと。しかし、問題はそこじゃないんだ」

「というと?」


 やわらかい餅を子どもみたいにはしで伸ばしつつ、穂村は言った。


「ヤツに妹が存在するということだ」

「妹、ですか……」


 それはおそらくだが、あのアスモデウスに酷似した少女だろう。

 天使の香りの少女。

 アンドロマリウスの匂いを放つのは、黒川……いや、アルバートであり、あの少女は清らかな花の香りがしていたと、思いだす。


 穂村はうなずきながら、

「アルバートは妹のために、青蘭から快楽の玉を奪っていったのだと考えられる」

「なんのためにですか? 悪魔退治でもするんですか?」


 穂村は失笑した。

「まさか。アルバートの妹は心臓を持たずに生まれたからだ」


 心臓がない生き物なんて、生きていられないのではないだろうか?

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