第78話 天空の悪魔 その三



 体は大きいが低級な悪魔だ。

 龍郎たちにとって、たいした敵ではない。

 龍郎は右手をあげ、青蘭はロザリオをとりだす。


 悪魔はものすごい勢いで突進してくる。

 退魔の剣を出すまでもないと、龍郎は判断した。出会い頭にこぶしを叩きこんでやろうと考える。それで充分なはずだ。


 悪魔が口をV字型につりあげて覆いかぶさってくる。

 龍郎はひろげた右手でふれようとした。すると、とうとつに悪魔は消えた。鉄骨のような体がグシャグシャにゆがみ、ボールのようになって見えなくなった。


「あれ? 消えた。龍郎さん、やった?」

「いや。浄化できた感じじゃない」

「じゃあ、逃げだしたんだ?」

「うーん……」


 そんなふうでもなかったのだが、消えてしまったものはどうしようもない。

 あきらめて、龍郎たちは最初の予定どおり、レストランをめざした。


 ショップの前を素通りすると、スカイレストランが見えてくる。

 モダンな日本料理の店。予約はタクシーのなかから入れてあった。なれない都会であちこち歩きまわるより、一ヶ所ですますほうが楽だ。


「本柳さまですね。どうぞ、こちらへ」


 ホール係に案内され、窓ぎわの席につく。美しい夜景を見ながら、ちょっと贅沢な食事を楽しめる。ドレスコードがあるが、今日は依頼人に会うため、龍郎も青蘭もスーツを着ていた。


 コース料理を頼み、食前酒が運ばれてきたころには、悪魔のことはもう忘れかけていた。いちいちかまっていられないほど、あちこちに悪魔はひそんでいる。東京には悪魔のいない場所などないのかもしれない。


「あっ、どうしよう。龍郎さん。ボク、お金が使えないんだった」

「いいよ。おれのおごり」

「……ボクの愛が注入できない」

「まだ言ってるんだ……」


 前菜からスープ、メイン料理もひととおり終わったころだ。

 離れた席に一人で座っていた男が、急にフラフラと立ちあがった。圧倒的にカップルや家族など、複数の客が多いなかで、その男は人目をひいた。


「なんだろう。あの人。ぐあいでも悪いのかな?」

「どの人?」

「青蘭のうしろだよ」


 青蘭の位置からは背後になっていて見えない。

 龍郎は一人の客もいるんだなと思い、なんとなくうかがっていた。男のようすから誰かを待っているんじゃないかと思う。さっきからずっとスマホを気にしているのだ。

 それがふいに立ちあがったから、ついつい凝視してしまった。


 よく見ると、男は手に大きなカッターナイフを持っている。ワナワナふるえながら、通路へふみだしてきた。

 何かに取り憑かれたかのような暗い顔つき。ギラギラした目が、幸福そうに高級料理を食すカップルたちを睥睨へいげいする。


(あいつ——)


 マズイと思ったときには、男が走りだしていた。両手でカッターナイフをにぎりしめ、青蘭の背中へとまっすぐ、つっこんでくる。


「青蘭、危ない!」


 龍郎は椅子をけたおし、男にとびついた。危ういところで男の手首をつかむ。相手がふつうの男なら、それで充分、押さえこめるところだ。しかし、男は口から泡をふきながら、龍郎の手をふりきってナイフをつきだそうとする。常人とは思えない力だ。


 そのとき、男の口のなかに変なものが見えた。白い鉄製のリボンのようなもの。一瞬でひっこんだが、見間違いではなかった。


 あの悪魔だ。

 龍郎たちの前で消えた白い死神のような悪魔。

 男はアレにあやつられている。


 店内に悲鳴が響きわたった。

 客たちが騒然とする。

 店員が青くなってすくみあがっているのが見えた。


「青蘭。ロザリオを」

「うん」


 青蘭がロザリオを出して男の前にかざす。すると、男はとびはねるように硬直した。白い影のようなものが、サッと遠ざかる。男は魂がぬけたように、そのまま床にくずれおちた。失神しているのだ。


(……退魔は、できていない?)


 滅却したような感覚がなかった。

 悪魔じたいは無傷だ。


「青蘭。もうここを出よう。退魔できなかったのは残念だけど、憑依ひょういするタイプのやつだ。おれたちは標的にされてるみたいだし、これ以上、ほかの人をまきこみたくない」


「わかった」と言ったあと、青蘭は小さく吐息をついた。

「デザート、食べたかったな」


 スイーツ好きの青蘭の嬉しそうな顔を、龍郎も見たかったが、いたしかたない。店員が警察を呼んでいる。長居すると面倒だ。

 龍郎は急いで会計をすまし、店員がひきとめるのも聞かず、レストランをあとにした。


 いや、あとにしようとした。

 直前にタタタッとうしろから駆けよる足音を聞いた。ふりむくと、女の店員が大きな肉切り包丁を手にとびかかってきた。

 口中から白いリボン。

 女の手や足にも巻きついている。


 店員が叫んだ。

「よくも、わたしをふって、そんな女とッ!」


 きっと、つい最近に恋人と別れたのだろう。そういえば、さっきの男も待ち人来たらずの状態だった。

 心のスキマに悪魔が入りこんでいる。


 龍郎は女がぶつかる前に右手をあげた。念をこめると手の平が強い光を放つ。

 店員は目をくらませて立ちすくんだ。


「焼けるーッ!」


 包丁をとりおとし、両目を押さえている。

 龍郎はすかさず、女の口からはみだした白いリボンをつかんだ。

 それは遠目で鉄骨のように見えた。が、間近で見ると骨だとわかる。人骨だ。肉や血はとうに崩れおち、骨だけになったスカスカのがらんどう。


 店員の口からつぶれたような絶叫があがり、背後に悪魔が分離した。


 同時に悪魔の姿にかさなって幻影が見える。物静かなふつうの男だ。東京の大学に通うために田舎から出てきたものの、誰とも親しくなることもなく、ただ時間だけがすぎていく。

 好きな女の子がいないわけではなかった。でも、こっちから話しかけることはできず、卒業してしまった。


 そのあとは働きアリのような毎日。

 生活のために起きて食って会社へ行って、自宅のアパートに帰って寝る。そのくりかえし。


 学生のころに好きだった女の子が男とならんで歩いているのをぐうぜん見かけた。腕には小さな子どもを抱いている……。

 嘆息を一つして、また働く。

 何が楽しいのかわからない。

 人生なんて、ただひたすら灰色の時間をけずっていくだけ——


「……自分からふみだせばよかったんだ。じゃないと何も変わらないよ」


 龍郎の右手が、がらんどうの胴体にふれると、それはガラガラと音を立てて崩れた。

 もう何も残らない。

 男の空虚な思いも、ようやく解き放たれた。


 店長が走りよってきて、しきりに謝罪する。


「申しわけありません。おケガはありませんか? 食事代はお返しします。彼女は警察に引き渡しいたしますので、なにとぞご容赦ください」

「いえ。けっこうです。警察も帰してください。被害届、出しませんから」


 龍郎はふりきって外へ出た。

 天空にそびえる塔をあとにする。


「都会の人は悪魔につけいられやすいんだな」

「悪魔と似たような感情を持ってると、あやつられる」

「最後に残った思いが虚しさだけだなんて、悲しいね」

「うん」


 大切なものは自分の手でつかんでいないと。

 なくさないように、しっかり。


 青蘭の手をギュッとにぎりしめながら、龍郎はそう考えた。




 了

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