第76話 ナイアルラトホテップ その三



「おいおい。君の弁護士、いくらなんでも電灯くらい、とりかえといてくれないかな。切れたんじゃないか?」


 黒川が肩をすくめるのだが、他の三人は無言だ。

 龍郎、青蘭、フレデリック神父。

 三人ともエクソシストだから、空気感の違いにすぐ気づいた。


「……結界に入ったな」と、神父が低声でささやく。


「ですね。せめて書類くらい受けとらせてくれてもいいのに。容赦してくれなさそうだ」


 それにしても龍郎は気になった。

 この結界を作った悪魔は、ずっとここに巣食っているのか。あるいは、龍郎たちが到着したこのタイミング。最初からターゲットをしぼり、龍郎たちの到来にあわせて罠を仕組んだのか?


 どちらなのかによって、かなり対処が異なってくる。

 龍郎たちを待ちぶせしたというのなら、そもそもこの事務所に来るように仕向けたとも考えられる。となれば、当然、狙いは青蘭だ。


「龍郎。油断するなよ。君はいつも青蘭を危険にさらすからな」

「そういうフレデリックさんこそ、黒川さんを守ってください」

「わかっているさ」


 龍郎は青蘭とならんでソファーにすわっていた。左手で青蘭の手をにぎりしめる。手をつなぐだけで、トクン、トクンとたがいの心臓の脈拍がわかる。


 暗がりのなかで息を殺して、なりゆきを見守っていた。結界のなかへ誘いこんだということは、悪魔は何かを仕掛けてくるはずだ。


「いったい、なんなんだ? 窓の外が見えないな」

「黒川さん。おれたちから離れないでください」


 度胸がいいのか、事態を把握はあくしてないせいなのか、黒川はキャリーケースをひきまわしながら、室内をウロついている。

 しかし、それもしかたない。

 数分待っても何も起こらないのだ。


(変だな。たいてい悪魔の結界のなかに入ると、襲ってくるもんだけど)


 このままではらちがあかない。


「離れるなって? そんなこと言っても停電のままじゃ困るじゃないか。クーラーは……つけなくても大丈夫みたいだが。やけに寒いな。日当たりが悪いせいか?」


 ぶつぶつ言いながら、黒川は事務所のドアをあけた。そして「あッ」と大きな声をあげる。


「黒川さん。どうかしましたか?」


 黒川の背中で外がよく見えない。

 龍郎は立ちあがって廊下をながめた。

 黒川とむきあうように誰かが立っている。


 黒川の肩ごしにその姿を見て、龍郎は驚愕きょうがくした。それはもうこの世にはいないはずの者だ。

 ふわふわと波打つ長い黒髪。

 かなり整った彫りの深い造作。

 瞳に虹彩がなく、青い流動体のように渦を巻いている。


 マイノグーラだ。

 先日、バリ島へ行ったときに遭遇し、退魔滅却したクトゥルフの邪神。

 いや、よく見ると、肌の色が違う。

 マイノグーラは褐色の肌だったが、そこにいる者は白い肌をしていた。しかし、面立ちはそっくりだ。


「マイノグーラ……か?」


 邪神のことだから倒したと思っても、人間には想像もつかない方法で再生したのかもしれないと考えた。


 邪神は笑った。

「わが名は——」と言う声を聞いて、それがマイノグーラではないと悟る。マイノグーラの声はかなりアルトだったものの、まがりなりにも女声だった。が、この声は完全に男性のものだ。


「わが名はナイアルラトホテップ。アザトースの腹心にして千の顔を持つ神と呼ばれている。這いよる混沌ともな」


 ナイアルラトホテップ——

 付け焼き刃の知識しか持たない龍郎も、さすがにこの邪神の名は知っていた。クトゥルフ神話において、クトゥルフの次くらいに有名な神だ。

 無貌の神とも言われ、あらゆる姿に化身することができるという。

 マイノグーラに酷似こくじしたこの姿は、そのせいだろうか。


「マイノグーラは私の従姉妹だ。愚かな女だったがな」と、ナイアルラトホテップは感情のない声音でつぶやくように告げた。龍郎の心を読んでいる。


「復讐に来たのか? おれたちがマイノグーラを倒したから」

「復讐? バカバカしい。今日は君たちを招待しよう」

「どこへ?」

「来ればわかる」


 邪神とふつうに話していることが不思議だ。クトゥルフやツァトゥグアなどは外形からして、ふためと見られない醜怪な化け物だし、意思の疎通そつうなんて、とてもじゃないがとれなかった。


 しかし、そう言えば、マイノグーラは下品ではあったものの人語を話し、考えかたも人間くさかった。


 文献によれば、ナイアルラトホテップはしばしば人に化身して現れる。精神構造もいくらか人間に近いのかもしれない。もちろん、だからと言って百パーセント人類と同一ではないに決まっているが。


「気をつけろ」と、神父が忠告する。

「私は以前、こいつと出会ったことがある。カルト教団の教祖のふりをして、人間を邪神の奉仕種族に作りかえていた」


 すると、ナイアルラトホテップは忍び笑った。

「やあ、セオ。久しいな。だが、今は再会を喜んでいるいとまはない。ただの人間にすぎないおまえは、おとなしく『待て』をしているがいい。あのころのように」


 カッと神父の白皙が赤く染まるのを、龍郎は初めて見た。どんなときでも腹が立つくらい冷静沈着な男だったのに。


 神父がロザリオを左手に持ち、ナイアルラトホテップにとびかかっていく。

 その瞬間、空間がくずれた。

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