第75話 首つり峠 その六



 えっ? なんだ?——と思った瞬間に、激しい犬の吠え声が響きわたった。マルコシアスだ。危険を知らせている。


 そのときには周囲が急激に暗くなっていた。まだ昼の明るい時間帯だったのに、深夜のように真っ暗になった。


「わッ。なんだ?」

「結界だ。龍郎さん。悪魔の結界のなかに入った」

「青蘭」


 ぼんやりと白く青蘭のおもてが見える。ぎゅっと手をにぎると、冷静な気持ちが戻った。


 近くで鹿原が腰をぬかしていた。


「大丈夫です。鹿原さん。おれたちから離れないで」

「な、な、何が……なんで、こんな……」

「悪魔の作った封印のなかに入ってしまったんです」

「あ、悪魔?」

「そう。悪魔です」


 しだいに目が暗闇になれてきた。

 不思議なことに周囲の景色はさっきと変わらない。峠の廃屋の前だ。

 だが、暗闇のなかで人声がする。男女が低い声でボソボソと話していた。


「……何してるの? あなた」

「なんで、おまえがここに……まさか、つけてきたのか?」

「そんなこといいの。あなたこそ、ここで何してるのよ?」

「なんでもない」

「嘘つき。このごろ、休みになると、一人でどこかに行くじゃない。この前の日曜も」

「それは……美輝のお見舞いに行ってたんだ」

「じゃあ、その前に有給とってたのは?」


 問いつめられて、男は黙りこんだ。

 目をこらすと、その姿が見える。

 まちがいなく、鹿原輝だ。依頼ぬしの兄である。死顔しか知らないが、生きているときはこんな顔だったのだろうと想像できた。


 龍郎たちからは背中しか見えないが、相対しているのは妻の穂富だろう。

 暫時ざんじ、二人は向かいあったまま、にらみあっている。

 やがて、穂富が不穏な含みのある声音で言った。


「……これ、なんなの?」


 ポケットに手をつっこみ、ガサガサと新聞の切りぬきをとりだす。穂富はそれを夫の鼻先につきつけた。輝は黙りこんでいる。

 よく見れば、切りぬきには赤いボールペンで書きこみがあった。いくつかの数字がならんだなかで、一番上の一列だけが丸くかこまれていた。

 宝くじの当選発表の記事だ。


 輝は弁解の言葉を思いつかないのか、ただ沈黙を守っている。

 すると、とつぜん、穂富がいきどおった。


「あの子でしょ? 美輝の手術費用にするつもりなんでしょ?」

「それは……」


 問いつめられた輝はひらきなおったようだ。


「当然だろう。姪が生きるか死ぬかってときなんだぞ? おれたちは金に困ってない。二人で暮らしていくぶんには充分な稼ぎがある。だったら、奇跡で当たった金は、もっとも必要な人のために使うべきじゃないか」


 穂富の声がいっそう険しくなる。

「美輝があなたの子どもだから?」


 輝はあきらかに困惑した。


「は? 何言ってるんだ?」

「娘なんでしょ? あなたが弟の嫁さんと不倫してできた子よ。だから、あなたの名前をつけさせたのよね? わかってるんだから!」

「バカなこと言うな。美輝は勉の子だ。おれたちに子どもができなかったから——」

「嘘ばっかり! あんな子、死んじゃえばいいのよ!」


 穂富は輝になぐりかかった。

 女の力だ。ふつうだったら、もみあいになったとしても、輝が止められないはずはない。

 だが、このときは夜だった。しかも、まわりは足場の悪い荒れほうだいの山中だ。穂富を止めようとした輝は、伸びた木の根元に足をとられてころんだ。頭を強く打って、しばらく失神した。

 穂富は亭主のズボンからベルトを外し、首をしめた……。


 鹿原が叫ぶ。

「あ、あの女、兄さんを!」


 その声を聞いて、穂富はゆっくりとふりかえった。

 真っ黒なシルエットのなかで、両眼だけが真紅に燃えている。

 悪魔の顔だ。


「……あの人が悪いのよ。ずっと、わたしを裏切って、嘘ついて。浮気したって惚れた弱みでわたしが許すと思ってたんでしょ。バカにして」


 両眼の赤い火がしだいに強まり、炎が噴きだしてきた。みるみるうちに全身を包む。


 青蘭がつぶやく。

「嫉妬の悪魔だ」


 夫に裏切られたと思いこみ、裏切りの証である美輝が年々、成長していく姿を見せつけられ、自分自身には子どもが生まれなかった——そんな思いが穂富を長年、内側からあぶり続け、悪魔になった。


「ち……違う。美輝はおれと家内の娘だ。名前はおれのほうから言いだしたんだ。兄さんは悪くない」


 鹿原は反論するものの、嫉妬に狂った穂富の耳には届かない。

 両手をひろげて近づいてくる。


「ムダですよ。鹿原さん。真実かどうかじゃないんだ。ああなったら、もう……」


 龍郎は鹿原をさがらせ、右手をあげた。いったん悪魔になれば、もとに戻すことはできない。浄化するよりほかにない。


 だが、そのときだ。

 燃えさかる人形ひとがたの火柱のとなりに、ふわりと黒い影がゆれる。

 それは最初、ただの闇の凝固したものにしか見えなかった。


「穂富。おまえがそんなふうに疑ってたなんて、これっぽっちも気づかなかったよ。すまない。ほんとに、すまない」

「……あなた、なの?」

「結婚してからは照れくさくて、あらためて言ったことはなかったかもしれないな。でも、わかってくれてるもんだと思ってた」

「…………」

「ずっと、今でも、おまえのことが好きだよ」

「…………」


 火焔かえんと黒い影はよりそいあって、メラメラと音を立てた。

 炎のなかに自ら崩れおちていく。


 同時にあたりが明るくなった。

 悪魔が滅び、結界が消えたからだ。


「な、なんだ? 今のは?」という鹿原に、

「お兄さんの霊が、穂富さんを迎えに来たんですね」

「兄貴が? じゃあ、もう兄の霊も……?」

「いなくなりました。思い残すことがなくなったからでしょう」


 そのあと、廃墟の玄関口に置かれたスコップを見つけた。思い出の桜の木の下を掘ると、お菓子の缶が出てきた。子どもの好きそうなガラクタにまじって、通帳と生命保険の証書が入っていた。通帳は美輝名義になっていて、約六千五百万が預金されていた。生命保険の受取人は鹿原だ。額面は一千万。


「これだけあれば、美輝をアメリカにつれていけます。これまでかきあつめた金が八百万。寄付で一千万近くにはなっていましたから。残りは死にものぐるいで稼ぎます」

「がんばってください。応援してます」


 ぐねぐねと酔いそうなつづら折りの峠をおりて、町なかへ帰ってきたあと、鹿原は上目遣いに龍郎をチラチラ見ながら、おずおずと申しでた。


「それで、今回の依頼料はいかほどでしょうか?」


 手術に必要な金額は一億。総額で九千万円、集まったとは言え、庶民に一千万を稼ぐのは決して容易なことではない。これでは高額の探偵料を請求することはできない状況だ。


「では、三万円。支払い期限は十年後の今日までです」


 ハッと息をのむ鹿原が黙って頭をさげる。


 龍郎は青蘭の手をひいて颯爽さっそうと立ち去った。

 探偵はシビアでないともうからない商売らしい。




 了

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