第73話 悪魔の涙 その七



 バリ島のホテルに帰ってきた。

 東洋と西洋の豪奢が溶けあった、ヴィラの一室。


 ニョマンは警察に引き渡され、アングレアニは泣きぬれていたものの、そのおもてには、どこか清々しいものがあった。恋人がすでに亡くなっていたことは悲しいが、二人の愛が本物だったという事実が彼女の胸に残ったからだろう。


「あの指輪が、わたしを呼んでいたんだと思います。きっと、クルニアワンの魂が宿っていたのでしょう」


 そう言って、アングレアニは去っていった。

 恋人を信じ続けた彼女は、なんて強いのだろうと龍郎は思う。


「不思議な事件だったね。ホテルの庭で、思い出の場所に行ってくれと伝言を頼んだ男は、最初に波間で見た霊と同じ顔だった。だから、クルニアワンが生きていないことはわかっていたんだけど。あの崖、地元では『レインボー・クリフ』って呼ぶんだって。呼び名が違うと、ずいぶん印象が変わるな」


 ホテルの部屋に入ると、青蘭は神妙な顔つきで龍郎を見つめてきた。


「龍郎さん」

「うん。何?」

「ボク、龍郎さんに言っとかないといけないことがある」


 もちろん、青蘭は隠していることを打ちあけるつもりなのだ。

 それは、わかる。

 しかし、真剣な面持ちでそんなふうに切りだされると、別れ話なのかと勘ぐってしまう。ドキドキしながら待っていると、青蘭は口をひらいた。


「フレデリック神父が……」


 ああ、やっぱり神父か。

 神父と何があったんだ?


「苦痛の玉のカケラを持ってるんだ」

「えっ?」


 それはあまりにも予想外の内容だったので、龍郎はしばらく認知機能が停止した。神父とキスをしたとか、神父が気になるとか、神父とつきあうことにしたとか、そんなことを告白されると覚悟を決めていたのに。


「フレデリック神父が?」

「うん」

「苦痛の玉のカケラを?」

「うん」

「どこに持ってるの?」

「左手のなか。龍郎さんみたいに手のひらに埋没してる」

「おれにナイショにしてたのって、そのこと?」

「そうだけど?」


 龍郎は吐息をついた。

「……なんで、言わなかったの?」


 すると、ふいに青蘭の瞳がうるむ。

 泣きだしそうな目で龍郎を見るので、胸が痛んだ。


「責めてないよ。秘密にしとくようなことじゃないと思ってさ」

「だって……苦痛の玉が全部そろったら、快楽の玉と一つになるんだよ? ボクか、龍郎さんが消えてしまうんだ。そんなの、イヤだ。ずっと龍郎さんといっしょにいたい」

「青蘭……」


 なんてことだろう。

 青蘭は龍郎を裏切ってなどいなかった。それどころか、こんなにも深く龍郎を愛してくれている。


(ああ、クソッ)


 青蘭の浮気を疑うなんて、自分をなぐってやりたい。


「ごめん。青蘭」

「なんで龍郎さんが謝るの?」

「…………」


 龍郎が信用してなかったなんて言ったら、青蘭はひどく傷つくだろう。

 申しわけなさでいっぱいだ。

 もう二度と青蘭を疑うことはしない。何があっても絶対に信じると、龍郎はひそかに誓った。


「なんでもないよ。それより、苦痛の玉のカケラか。あと二つあるんだよな。そのうちの一方をフレデリックさんが……」

「どうするの?」

「青蘭のお父さんの星流さんもカケラを持ってた。おれがそれを継承するとき、たがいに相手を受け入れる気があったから、できたんだと思う。たぶん、むりやり奪いとることはできないよ。フレデリックさんがおれに譲るつもりなら、とっくにそうしてるはずだ」


 悪魔退治の力は強くしたい。

 しかし、そうすることによって、青蘭との今の時間が失われていく。

 なんとか解決法はないのだろうか?


 それにしても、カケラの一つを神父が所持しているのなら、残る一つはどこにあるのだろう。


 もうすぐ、快楽の玉は満たされ、青蘭の全身が契約のもとアンドロマリウスのものになるという。

 まもなく、そのときが来ると。


 苦痛の玉も、じょじょにではあるが行方がわかってきた。

 あるいはすべて集まる日が近いのかもしれない。


 そして、大きなうねりが押しよせる。

 それはもう間近に……。



 *


 翌日。

 ウルワツ寺院へ向かった。

 清美のお待ちかねの観光地だ。

 ホテルで現地のツアーを予約して、送迎車に来てもらって移動した。


 かなり早めに到着したため、あたりをウロウロする。寺院を見物したり、土産物屋をのぞいたり。


「青蘭。ルドラクシャだ。記念に買おう」

「おそろい?」

「おそろい」

「じゃあ、買う」


 ルドラクシャは菩提樹の種のことだ。本来は数珠マーラーに使用されるが、ケオンという白い貝の化石の飾りのついたブレスレットを買った。ケオンは珊瑚のなかからしか採取できないので、とても貴重らしい。

 ケオンもルドラクシャも幸運のお守りである。


「ああ、至福。眼福です! もっとイチャラブしてもらいたいです。でも、急いでください。五時すぎました。いい席とらないと! ウルワツに来たら、ケチャックダンスを見ないとですよ。ガイドさんがチケット買ってきてくれました」


 騒々しい清美にひっぱられて、寺院の広場へ急ぐ。大勢の観光客がみんな一方向に突進していく。すごい熱気だ。


 ケチャは六時から開演だというが、ずいぶん早くから陣取り合戦が始まっていた。幸いにして時間が早かったので、中央舞台と海を正面に見渡せる最良の席がとれた。


 ゆっくりと日が傾く。

 金色に海が輝く。

 そのなかで、ケチャックダンスは始まった。


 四方をかこむ観客席はすべて人で埋めつくされ、数百人が密集している。

 中央舞台には上半身裸の男たちが現れ、車座になって歌いだす。

 ケチャケチャケチャ、チャチャチャと独特のリズムが人の口から紡がれる。

 ウブドで聞いたガムランの音も中世的で印象深かったが、これも素晴らしい。


 やがて、仮面をつけ華やかな衣装をまとったダンサーが登場し、男たちのまんなかで妖しく舞いおどる。


 刻一刻と暮れる大海原。

 漆黒の闇がおとずれる。

 舞台に火がかれ、オレンジ色に夜を染めた。


 なんだか胸が苦しい。

 今ここで青蘭と手をとりあい、愛をささやきあうことは、決して永久ではないのかもしれない。


 だが、この一瞬は、たしかに二人——




 第八部 完

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