第69話 猟犬 その五



「わあッ! なんだよ。あんた。離せよ——と彼は言っている」


 こんなときなのに穂村は冷静に通訳する。

 龍郎はそれを聞きながら、ラマディンの腕をにぎりしめる右手をずらした。もしもラマディンが悪魔なら、龍郎の右手がつかんだ手首の部分は、ただれて火傷のようになっている。


 だが、何もない。火ぶくれもケロイドもない。ごくふつうの健康な皮膚だ。

 ラマディンはマイノグーラではなかったのだ。


「彼は悪魔じゃない」

「ふむ。そうだろうな。彼は君たちを見ておびえていたんだろう? 殺人者なら誰かを怖がりはしないんじゃないか?」


 穂村に言われて、なるほどと思った。

 たしかに、そのとおりだ。


「穂村先生。伝えてください。ディンダが殺された晩、ワヤンやラマディンは彼女に会ったのかと」


 答えはこうだ。

「会ったよ。約束してたから」というのがワヤン。


 つまり、こういうことのようだ。


 あの夜、ワヤンは家の外でディンダと逢引の約束をしていた。約束の時間に会って、しばらく話したあと、ワヤンは自宅へ帰った。


 ディンダを想うラマディンは、二人の仲を怪しんでいた。昼間、ワヤンたちが話しているところに、たまたま通りかかったため、ディンダの家のまわりを見張っていた。そして、二人が会っているところを目撃した。


「ディンダと別れたときに、誰かの視線を感じたんだ。ふりかえったけど、姿は見えなかった」と、ワヤン。

「それがラマディンだったということか」


 ラマディンはうなだれている。


「でも、ディンダはだまされていたんだ。こいつは他にもいろんな女とつきあって……話せば、ディンダだってわかってくれた」


 それはどうかと思う。

 恋に夢中になっているときには、他人の意見なんて耳に入らないものだ。

 しかし、今は恋のもつれを聞きたいわけじゃない。もっと重要なこと。ディンダを殺害したのが誰なのか、その手がかりが欲しい。


「じゃあ、ワヤンさんが帰ったときには、ディンダさんはまだ生きていたんですね?」

「ヤ」


 イエスとワヤンは答える。


「ラマディンさんもワヤンさんが帰っていくところは見ていたんですね?」


 ラマディンはうなずく。


「じゃあ、ディンダさんに不幸があったのは、そのあとですね?」


 ふたたび首肯。


「そのときのこと、ラマディンさんは見てないんですか?」


 ラマディンの顔色は急に青ざめた。表情もひきつる。

 これは何か見たのかもしれないと龍郎は考えた。


「犯人を見たんですか?」


 かまをかけると、ラマディンはゴクリと音が聞こえるほど激しく息を呑んだ。やはり、マイノグーラの化身した人物がディンダに近づいていくところを見たのだ。


「それは誰でしたか?」


 ラマディンはかなり迷っていた。さんざんためらったあと、龍郎が財布から十万ルピア札を一枚ぬくと、ラマディンはしぶしぶ固い口をひらいた。


「女だ。女のうしろ姿を見た。ディンダと話してた」

「どんな女の人でしたか? すごく背が高いとか。おれくらいの身長があった?」


 マイノグーラの特徴を言ってみたが、それにはラマディンは首をふる。


「じゃあ、どんな人でしたか?」

「うしろからしか見てない。ハッキリとは言えないんだが、あれは……」


 ラマディンは誰かの名前を告げようとしたかに見えた。

 だが、そのときだ。

 とつぜん、あぜ道のほうから人影が現れ、大声を出した。


「ここだ! こっちにいたぞ。悪魔だ!——と言っている」と、穂村が律儀に訳してくれる。


「逃げましょう!」

「もうまにあわんよ。かこまれている」


 穂村の言うとおりだ。


 あぜ道に出る方向には、いつのまにか十人近い村人が立っていた。

 みんな龍郎より小柄だし、なぐり倒せば逃げられるかもしれない。しかし、それは龍郎の望むところではなかった。村人たちはあの占い師に乗せられているだけだ。傷つけることは龍郎の性格ではできない。


「穂村先生。どうしましょう」

「ここは捕まるしかないんじゃないか?」

「でも、おれにはそんなヒマないです。青蘭を助けないと」

「青蘭を助けるためなら、マルコシアスが手を貸すだろう?」


 マルコシアス。

 背中に翼のある狼の姿をした魔王だ。

 先週、魔界からつれて帰り、現在は龍郎の家に居候している。海外旅行に同行させるには外見が特殊すぎるので、自宅に置いてきたのだが。


「そうか。マルコシアスなら結界をやぶることはわけないですね」


 マルコシアスは堕天した元天使だ。

 今でも天使と同様の次元を超える能力を有している。

 問題は龍郎の言うことを聞いてくれるかどうかだが。


 あきらめて、龍郎は村人たちに投降した。

 マデがやってきて、しきりに龍郎に罵詈雑言をあびてくる。穂村に教えてもらうまでもなく、「悪魔だ。恐ろしい。この男が村の娘たちを呪いの力で殺したのだ」とかなんとかわめいているのに違いない。


(この人、なんでおれを悪魔と断定するんだ? おれの右手がふつうでないのは事実だ。でも、ほんとの霊媒師なら、その力が邪悪を滅するものだと感じとれるはず)


 ラマディンは女がディンダと話していたと言った。たしかに相手が女で、しかも知りあいなら、ディンダは油断したはずだ。マイノグーラがその女に化けていたとしたら、かんたんに殺せただろう。


(もしかして、この人がソレなのか?)


 なんとかしてマデの手にさわれないだろうかと思案した。が、両側に村の男がひっついて、どこかへ龍郎をひったてていく。なぜか、穂村も同罪だ。


「さあ、ここに入っていろ」


 そう言われて、押しこまれたのは小屋だった。どうやら、そこが村の留置所のようだ。外から鍵をかける音が響いた。

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