第66話 地獄の犬 その三



 ホテルの庭を散策したり、スパへ行ったり、個室用とは別の大きなプールへ行ったり。優雅な時間はあっというまにすぎていく。

 ホテルのなかだけで一日をすごすのはわけもない。青蘭と二人でいるのなら、木陰でよりそいあっているだけで幸福なのだから。


「日が傾いてきたね。部屋へ帰ろう」

「うん。龍郎さん」

「何?」


 青蘭は微笑むだけで何も言わず、龍郎の腕をとる。

 甘ったるい気分に満たされて、ヴィラへ帰ったのだが、待っていたのは、それどころではない事態だった。


 窓からさしこむ落日の陽光が炎のようだ。その光のなかで、ナイトテーブル上のケースがガタガタゆれている。それも、今にもテーブルから落下しそうに激しくだ。


 窓は閉ざされ、快適にエアコンが効いていた。風のせいではない。風が吹きこんでいたとしても、災害級の台風でもなければ、重いケースが宙に舞いあがりそうなほど動くはずもない。


 周囲には誰もいなかった。

 特定の振動も感じない。

 ケースがそれじたいの力で動いているとしか思えない。


 龍郎はあわてて、テーブルにかけよった。ケースを両手で押さえる。すると、憑き物が落ちたように、ケースはおとなしくなった。ピクリとも動かない。試しに龍郎が手を離すと、すぐにまた暴れだすのだが。


「おれの右手のせいだ。たぶん、苦痛の玉の力がコイツを抑制してる。これじゃ、ずっと手を離せないよ」

「苦痛の玉の力を嫌うのは悪魔だよ。石が苦しんでるんじゃないの?」


 たしかに青蘭の言うとおりかもしれない。しかし、その仮説どおりだとすると、このまま、龍郎は利き手が使えない。食事もとれないことになってしまう。


「おれ、ずっとこうしてないとダメかな?」

「えっ? それじゃ、今夜、どうするの?」

「手が使えないのは困るなぁ」

「うん。口だけでもできるけど」

「そうか。青蘭に食べさせてもらうって方法があったか」

「いいよ。ボクが上になる」

「上? 青蘭、なんの話してるの?」

「えっ? 夜のお楽しみのことでしょ?」

「…………」


 龍郎は顔から火が出る思いだ。

 いつ、どこで話がすりかわったのだろう?


「えっと……とりあえず、コイツをなんとかしないと。これ、悪魔なのかな?」

「そうだと思う」

「これが悪魔なら、退魔できるんじゃ?」

「どうかな。石だから」

「そう言えば、穂村先生がコレのこと、変な呼びかたしてたよね。石物なんとか体とか」

「せきぶつかそうたいって言ってた」

「バーチャルの仮想って字をあてるなら、仮の体ってことだろ? 仮に石みたいな形をとった何かって意味かな?」

「そうかも」


 石に化身した悪魔……ということだろうか?


 龍郎は右手をケースから離さないよう気をつけながら、念入りに石を観察した。ケースを持ちあげて下からのぞくと、石の断面が見えた。それを見て、ギョッとする。


 キレイな直線の断面の内側で、青黒い流動的な物体が渦をまいていた。ときおりソーダのように気泡がはねる。

 この感じ、見覚えがある。

 昨夜の女。

 体が半分しかないあの不気味な女の切り口と同じだ。


「もしかして、この石……」


 龍郎がつぶやいたときだ。

 どこか遠くから犬の鳴き声が聞こえてきた。四頭か五頭くらいだろうか。それがだんだん近づいてくる。


「野犬かな?」

「いやな匂いが強くなった」


 まさかこの高級ホテルまで野犬は近づかないだろう。来たとしても敷地内へ入れない。柵や庭木で侵入経路を絶ってあるはずだ。ホテルの外周からヴィラまでは百メートル以上もある。


 と思っていたのだが——


「龍郎さん!」


 青蘭がテラスのある窓を指さす。

 まだ日が落ちていないのでカーテンは閉めてなかった。

 その窓の外に数匹の犬が次々と現れる。プライベートガーデンを囲む高い塀を跳躍し、テラスにとびこんでくる。


「なっ——塀、二メートルはあるぞ。ありえない」

「ヤツらもただの犬じゃないよ。龍郎さん。戦わないと」


 体の大きな黒い犬だ。ドーベルマンのように毛が短い。牙をむき、泡を吹いている。狂犬病にでもかかっているように見えた。ふつうじゃない。


 窓は閉まっている。だが、鍵がかけてあるわけではなかった。犬が窓ガラスに体当たりすると、その勢いで両開きの扉がひらいた。室内に狂犬の群れが入りこむ。


 龍郎はもうケースを押さえているどころではない。かまえをとったときには、右手の内に退魔の剣が現れていた。清浄な光を放つ神剣を大上段にふりかぶり、今まさにとびかかってくる黒犬の鼻先に打ちおろした。


 ギャンッと苦痛の鳴き声が響き、一匹は床に落ちた。鼻から首にかけて二つに裂けている。裂けめから光に焼かれるように、メラメラと燃えて空中に消えた。


 でも、まだ五匹もいる。

 それがただの野犬でないことは一目瞭然だ。ウウッとうなりながら牙をつきだす首が、急にグルグル回転しだした。と思うと、弾丸のように体から分離して、こっちにつっこんできた。


「危ない! 龍郎さん!」


 青蘭がロザリオをかかげる。

 黒犬の首はまぶしそうに目を閉じた。

 龍郎のことが見えていない。

 肩先をとびこえていこうとするので、上から叩きおとす。首は消えたが、胴体のほうから新しい首が生えてきた。首はつながっているときじゃないと致命傷にならないようだ。


「青蘭、おれから離れるな!」

「うん」


 次は二頭同時に左右から襲いかかってくる。

 剣を水平にないで、左、右と切りすてる。臓物がはみだしてくるかと思ったが、血の一滴も出ない。ただ紙のように燃える。

 燃えつきる前に一瞬、断面が見えた。ガラスか石のような切り口と、その内側で流動する濁った液体。

 あの半分の女と同じだ。

 これは、あの女の眷属けんぞくなのだ。


 ハッとしてケースを見ると、ガラスのふたが外れている。

 石が床の上にころがっていた。

 そして生き物のように脈打ち、増殖している——!

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