第61話 ロバは愚か者 その三



 ガチャガチャと鎖の音を響かせ、狼が近づいてくる。

 四つ足のうち三つまでに足枷をつけている。

 まちがいなく、あの狼だ。


「なぜ、どうして、ここに——」


 混乱する龍郎に、グレモリーは端的に告げる。


「わたくしが呼びよせたのよ。わたくしも魔界を造った魔王の一柱ですもの。結界を張るのも解くのも自在よ」

「さっきは放置してたのに、今さらですか?」

「あのときは、あなたたちにブネを倒してもらわないといけなかったもの」


 そこはかとなく、イヤな予感がする。


 グレモリーは意味もなく誰かを助けるような甘い考えの女ではない。

 今ここに狼を呼びよせたなら、それなりの理由があるはずだ。


 そして、グレモリーはアンドロマリウスの計略に加担している。青蘭のなかにある快楽の玉を一刻も早く熟成させるために、悪魔の命を欲している。


 グレモリーは微笑した。

「さあ、マルコシアス。やりなさい。その枷を外してほしいのでしょ?」


 マルコシアス。

 それが狼の名前か。

 マルコシアスもソロモン七十二柱の魔王だ。ただの狼ではないと思っていたが、それならなぜ、足枷をつけられているのだろう。


「その足枷はあなたがつけたのか? マダム」

「いいえ。彼を楽園から追放した“神”がつけたのよ。でも、このていどの枷なら、わたくしにだって外せるわ」

「主を愚弄するのは許さないぞ」と言ったのはガブリエルだが、口論しているヒマはなかった。


 マルコシアスがうなり声をあげながら近づいてくる。牙をむき、今にも飛びかかってきそうだ。

 さっきは命がけで龍郎たちを助けてくれたのに、急にどうしたというのだろう。


 ほほほ、と貴婦人らしく口元を手で隠して、グレモリーは笑い声をあげる。


「マルコシアスはその枷によって記憶を封じられているの。彼は枷をすべて外し、もう一度、天使に戻ることを望んでいるのよ。だから、そのためならなんだってするわ」


 グレモリーが声高に命じる。

「戦いなさい。マルコシアス。彼らの息の根を止めれば、足枷を全部、外してあげる」

「やめろ! マルコシアス。おまえは青蘭を守った。青蘭を大切に思っていたからじゃないのかッ?」


 龍郎の声など聞くようすはない。

 いきなり飛びあがり、前足をつきだして襲いかかってくる。


 龍郎は青蘭の前に立った。

 気づいたときには剣が右手のなかに現れている。とびかかってくるマルコシアスの鼻面に剣を出した。

 跳躍のスピードと態勢を計算し、着地点となる場所に刃をつきだしたのだ。本来なら、さけられるはずがない。

 が、マルコシアスには翼がある。二、三度、羽ばたくと、ふわりと急上昇し、剣の上を素通りする。


 龍郎をとびこえて、マルコシアスは青蘭にとびつく。

 かえりみた龍郎の目からは、青蘭の首に獣の頭部がかさなって見えた。


「青蘭——!」


 が、そのまま数瞬、巨大な狼と少女のような立ち姿の青蘭は、静止画のように動かない。


「青蘭……?」


 かけよると、青蘭の手がマルコシアスの鼻を押さえている。

 目の色がふつうじゃない。

 両者の視線のあいだにだけ、今ここにあるのとは異なるどこかの景色が見えているかのようだ。


 やがて、パンッと弾けるような音がして、マルコシアスの前足の枷が一つ外れた。

 その姿がぼんやりと人型に変わる。

 しかし、完全に人の形をとる前に、もとの翼ある狼に戻った。

 それでも、マルコシアスは人語を発するようになっていた。


「……いつも、入江で歌うおまえを見ていた。思いだした。おまえの歌声を聞くことが好きだった。おまえを殺めることは、私にはできない」


 誰もが魅了された麗しき天使。

 その歌声には、ある種の魔法がかかっていたかのよう。


 彼もか、と龍郎は思う。

 ここにも愚か者がいたと。


 マルコシアスは傷ついた体をひきずり、闇のなかへ駆け去っていった。


 ガブリエルが叫ぶ。

「待て! マルコシアス! おまえは罪人だ。タルタロスから出てはならぬ」


 ガブリエルが追っていき、あたりが暗くなる。

 暗闇のなかから、ため息が聞こえた。


「しょうがないわね。男って、ほんとに」


 グレモリーだ。


 おそらく、重傷を負い、足枷までつけたマルコシアスに、ほんとに龍郎たちを倒せるとは考えていなかったはず。戦わせて、敗れたマルコシアスの魔力を青蘭に吸わせるつもりだったのだ。


「マダム。もういいだろう。おれたちをフォラスに会わせてくれ。それができないなら、あなたが実験について知るかぎりのことを教えてくれ」


 龍郎は語りかけたが、かえってきたのは言葉ではなかった。

 何かが鼻先で風を切る。

 とっさによけると、二の腕にふれるものがあった。かすかに痛みが走る。


 退魔の剣はマルコシアスが去ったときに消えていた。だから、あたりは完全な闇だ。

 あわてて、右手に意思をこめると、剣が現れ、その発する光でグレモリーの姿が見えた。片手にレイピアをにぎっている。


「マダム。なんのつもりだ。やめてくれ。おれたちは、あなたと戦うつもりなんかない」

「戦わなければ死ぬわよ」


 マダムは本気だ。

 しかもかなりのレイピアの使い手だった。切っ先を下げることなく、前へ前へとふみこんでくる。


 龍郎はけんめいに、退魔の剣でグレモリーの刃を受け流した。

 それにも限界がある。

 こっちを本気で殺そうとしている相手をいなすには、グレモリーの技量が抜群すぎる。


 しだいに壁ぎわへと追いつめられていった。

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