第57話 麗しき死体 その二



 龍郎は崖の下をのぞきこんだ。


「見ろッ! アンドロマリウス。階段がある!」


 崖の岩肌をけずって造られた階段が、細く下方へと伸びている。崖下は闇に閉ざされ、見えない。


 アンドロマリウスは舌打ちをついた。


「ああ。だが、これはリンボへ続く道だ」

「リンボへ? なんでそんなことわかるんだ?」

「リンボから這いあがるには無限階段を突破するしかないと聞いたことがある。タルタロスから、さらに下へ続く階段はリンボへの道だ。そうじゃないか?」


 龍郎は息を呑んで、深淵を見つめた。

 悪魔さえ恐れる地獄の底の底。

 そこへ続く無限の階段。

 行けば、帰ってこられないかもしれない。

 青蘭の魂がどこにあるのかわからない今、まだそこへ行くのは早いのではないかと考えた。


(でも、この場所の最奥に囚われている天使……最奥ということは、タルタロスのなかでも、もっとも深い場所だ。それって、リンボのことじゃないか? ベリトの言ったことだから信用はできないが、もしも、ほんとうに天使がいるのなら会ってみたい)


 龍郎は思いきって足をふみだした。

 ふたたび舌打ちをついて、アンドロマリウスがついてくる。魔王のころの彼ならともかく、人間の青蘭の体では、姿を見せずに襲撃してくる弓の名手にはかなわないのだ。


 階段をくだり始めると、またあの獣の遠吠えが聞こえた。風に乗って遠くから響く。どうもこの深淵の下層から、その声は届くようだ。


「上から見たら細く見えたけど、けっこう幅があるな。手すりはないけど」


 横幅が二十メートルくらいある。

 これなら人間よりもっと大きな生物でも、らくに上り下りできそうだ。人間用の階段ではないだろうから、悪魔サイズということか。


「あそこに横穴がある」

「この匂い……悪魔の住処だな」

「住処? こんなところに?」

「リンボの入口にいる必要があるのは誰なのか。予想はつく」


 岩壁に片手をあてて、龍郎は進んでいった。

 近づくと、ほら穴はほのかに光っていた。見なれた青白い光だ。獣臭いような匂いが漂う。

 あの遠吠えのぬしだろうか?


 どうせ悪魔であることは間違いない。

 用心しながら歩みよる。

 目前まで迫ると、とてつもなく巨大な洞穴だ。さっきまでいた鍾乳洞と同等の高さはある。


 なかはゆるやかな坂道になっていた。階段とは逆に上に向かっている。

 しばらく進んでいくと、広い空間があった。

 そこにいる者を見て、龍郎はギョッとした。ヘカトンケイルだ。岩石を自分でけずったらしき椅子やテーブルがある。


 予想がつくと、アンドロマリウスは言った。

 考えてみれば、そうだ。

 タルタロスとリンボの境にあるこの場所は、牢番の住処にはピッタリの位置だ。


 ヘカトンケイルはとくに何かするでもなく、ぼんやりと椅子に座っているように見えた。

 いやにニヤけている。

 ぼとり、ぼとりとヨダレがテーブルの上に落ちる。


 違う。何もしていないわけじゃない。

 たくさんある腕のうちのひと組みの指を細かく動かしている。テーブルの上に何かを置いているようだ。テーブルが高すぎて、龍郎の目線では見えないだけだ。


(こいつ、服を持っていったんだよな?)


 部屋のなかに、それらしきものは見えない。サイズは小さいが色がついている。視界のなかにあれば、いやでも目につくはずだ。ということは、見えていない場所に、それがある。

 そう思って見れば、ヘカトンケイルの指の動きはヒモを結んでいるようだ。


(テーブルの上に何かある)


 何かというより、人……ではないだろうか?

 なんとかして、テーブルの上をたしかめたい。


 壁は多少のおうとつがあるが、ロッククライミングができそうなほどのでっぱりはない。

 やきもきしていると、ヘカトンケイルはようやく満足したようすで、を持ちあげた。


 息が止まりそうな衝撃を受けた。

 青蘭のピンク色のドレスを着せられた、

 なぜ、こんなところにあるのか。

 それはとっくの昔に失われたもののはずだ。海の藻屑となり、この世から消え失せたはず。


 白銀のようなプラチナブロンドは波打ちながら、背丈に近いほど長くなびき、透きとおるように白い肌をひときわ美しくいろどっている。

 ほんのりと赤い唇。

 瞳は閉ざされているが、その美貌は比類ない。


 アスモデウスだ。

 以前、青蘭の記憶のなかで見た、智天使のころのアスモデウスの器。

 青蘭の屋敷がクトゥルフの邪神に襲われたとき、アンドロマリウスとともに海底に沈んだはずのアスモデウスの肉体だ。


 アンドロマリウスが深く呼吸を吸いこむ音が、ハッキリ聞こえた。

 アンドロマリウス自身も、アスモデウスの肉体は消滅したと言っていた。まだ存在していると知らなかったのだ。


 アスモデウスはヘカトンケイルの手によって、岩壁の棚のような突起の上に載せられた。ひじをかけ、頭をもたれかけておけるでっぱりがある。そのため、彼女は椅子に腰かけた人形のようだ。

 あきらかに、飾るために、そこに置いたのだ。


 アンドロマリウスはうめいた。

「……アスモデウス」


 美しい青蘭のおもてが、憤怒に染まる。

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