第39話 涙石 その五

 *


 龍郎は川のなかを進んでいった。


 あのころ、とても好きだった彼女。

 不幸せな人で、でも、自分の運命を決して恨んだりしなかった。

 最後まで気丈にふるまった。


 あの日、指輪を持って病院に行ったときには、すでに遅かった。

 わかっていたことだったけど。

 それでも、自分の気持ちを伝えたかった。


 だから、見つけないと。

 あの指輪を……。


「龍郎くん。もっと、こっち。もっと……」

「うん。そうだね……」


 ぼんやりしながら、言われるがまま、龍郎は深みへ深みへと進んでいく。


 すると、そのとき、とつぜん誰かの腕が龍郎の手をつかんだ。


「龍郎さん!」


 目の前にものすごい美形が立っている。ビックリするような美女だ。


 とたんに、龍郎の心は乱れた。

 探していた大切なものがなんだったのか、一瞬、わかったような気がする。


(えーと……)


「せ……」


 せ——なんだっけ?


 グッと頭のなかを押されたような重圧を感じて、龍郎の意識は、また朦朧もうろうとする。


「龍郎くん。わたしに指輪をくれるんだよね? わたしと来てくれるでしょ?」

「紫透……」


 しかし、なんだろうか。

 動けない。

 心が二つに引き裂かれそうに痛む。


 すると、目の前の美女の瞳から、水晶のように透明な涙がこぼれおちた。


「龍郎さん。わたしはあなたの恋人にはふさわしくないよ。わたしは汚いし、ワガママだし、普通じゃないし、醜い。わたしはいつも、あなたを裏切ってる。あんな化け物にいいようにされて。あなたが愛想つかすのはしかたないよ」


「……せ……ら」


「でも、好きなんだ! あなたがいないと……どうしていいかわからない。お願いだから、行かないでッ!」


 青蘭が麗しいおもてを涙でグチャグチャにして、しがみついてくる。

 水びたしになって、必死で。

 あの傲慢ごうまんな青蘭が、行かないでくれと、なりふりかまわず懇願こんがんしている。


 龍郎は自分の内から、あたたかいものがあふれだしてくるのを感じた。湯水のように、とめどなく湧きあがり、抑えられない。


「おれも……好きだよ。たとえ、どんなおまえでも。おまえがいないと、ダメなんだ」


 かたく、抱きあう。

 すると、紫透の姿が急速に薄れた。まだ残る微笑は、どことなく、さみしげだ。


「ごめん。紫透。あのころは、ほんとに君を好きだった。でも、今、大切なのは青蘭なんだ。この世の誰より、青蘭を愛してるんだ」


 夕暮れの薄闇に吸われるように、紫透は溶けていった。




 *


 頭からずぶぬれになって、龍郎は青蘭とともに草むらにころがった。むしょうに疲れている。紫透の霊に取り憑かれかけていたのだと思う。


「ごめん。おれ、もしかして、あやつられてた?」

「うん」

「たぶん、おれのなかに心残りがあったからかな」


 つぶやくと、青蘭が龍郎の胸をこぶしで叩いてきた。見目形は華奢で艶麗だが、力は男なのかってほど強いので、かなり痛い。


「イテテ。痛いって。青蘭」

「イヤだ! 龍郎さんが他の人のこと、ちょっとでも好きだなんて、許せない! 龍郎さんの心は全部、ボクのものだ。全部、全部だ。すみからすみまで、全部!」


 なんて激しい恋人だろうか。

 そんなところも愛しいのだが。


「ごめん。ごめん。心残りっていうのは、愛というより後悔だ。あの指輪を渡せなかったから。紫透は再生不良性貧血だったんだ。難病にも指定されてる。重症だったから、長くないのわかってた。青春のさなかでさ。まだまだ、やりたいことあって。花嫁になるのが夢だった。せめて、あの指輪を渡して、結婚しようって言いたかったんだ。まにあわなかったけど。病状が急変して。お別れ言うヒマもなかった。おれが病院にかけつけたときには、もう……」


 青蘭はべそをかいた目で、龍郎をにらんでくる。


「それでも、ダメ。許さない」


 龍郎は笑った。

 青蘭はこれまで出会った人のなかで、ダントツに不幸だ。たぶん、青蘭以上にヒドイ境遇で、幸薄い人なんて、これから一生かかっても出会わないだろう。

 だから、自分は青蘭に惹かれるのだと、龍郎は自認している。


「全部、おまえのだよ。おまえのことしか考えてない」


 見あげると、星空が美しい。

 銀粉のようなまたたきを見ながら、今度は赤い石の指輪を買おうと、龍郎は思った。


「知ってる? 青蘭。おれの誕生石。九月だからサファイアだけど。ルビーとサファイアって、同じ石なんだ。同じ石の赤いのがルビー、青いのがサファイア」

「正確には、赤以外の色がサファイア」

「そう。見ためはまったく異なるけど、同じなんだよ。おれたちみたいだろ?」


 青蘭は機嫌をよくして、龍郎のとなりによりそってきた。龍郎の胸に顔をうずめてくる。甘える仕草は子猫だ。


「ペアリング、買おうか?」

「うん」


 星のきらめきは、満天のダイアモンド。

 宇宙の彼方から歌声まで聞こえてきそうだ。


 やがて、おずおずと、青蘭がささやいた。


「さっき、怖かった。ほんとに龍郎さんをつれていかれるんじゃないかと思って。龍郎さんが死んじゃったら、どうしようって。ボク……もう一度、戦えるようになりたい」


 龍郎も決意した。

 このままではいけない。

 青蘭には、アンドロマリウスが必要だ。


「あの場所に行こう。青蘭が育った島へ。青蘭の記憶が戻るかもしれない」

「うん」


 あの場所に、こんなにも早く、ふたたび向かうことになるとは思ってもみなかった。


 あのとき、青蘭の記憶の奥底で歌う、アスモデウスを見た。

 忘却の天使。

 今度こそ、とりもどせるのだろうか?




 了

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