第二十話 天使と悪魔

第20話 天使と悪魔 その一



 怖いほどの晴天だ。

 海の色が明るい。

 龍郎の見なれた日本海の色とは、色彩がまったく違う。澄んだマリンブルーの水中に、鮮やかな色合いの魚影が閃き、サンゴ礁が丸い花のようにゆらめいている。


 楽園の景色とは、こういうものなのだろう。


 だが、そこはかとなく美しいこの風景のなかに、青蘭はいない。今、どこで何をしているのか。また一人で泣いているのではないのだろうか。


 不安だ。

 青蘭がいないと落ちつかない。

 きっと、龍郎自身が青蘭を求めているから。大切なものを失いたくないから。青蘭が無事な姿でいてくれないと、心配でしかたない。


 船は海上を走る。

 陸地が見えなくなると、海の景色はどこも同じにしか見えないが、ちゃんと目的地をめざしているらしい。


 船長は冨樫さん。乗りこんでいるのは、龍郎、フレデリック神父、それに、なぜか冴子だ。

 ついてくると危険だと、さんざん脅して龍郎は止めたのだが、冴子は聞いてくれなかった。


「ほんとに危ないから! 悪魔が出るんだよ? 君なんて喰い殺されるから」

「龍郎って、嘘つくのヘタね」と、笑うばかりで、とりあってくれなかった。


 神父も止めてくれればいいものを、

「何かあれば、彼女のことは私が守ろう。龍郎くんは心置きなくやってくれたらいいんだ」——なんて言うので、ややこしいことになってしまった。


 まさかと思うが、フレデリック神父は、いざというとき冴子を囮にでも使うつもりなのだろうか?

 もしも、その屋敷に今でも悪魔が住みついていたら、若い女性は悪魔への供物となる……かもしれない。


 聖職者がそんなことをするとは考えたくないが、フレデリック神父のことは、どうも信用できないのだ。


 しかし、けっきょく神父に押しきられる形で、冴子をつれてきてしまった。

「こうしているあいだにも、青蘭の身に危険が迫っているかもしれないぞ」と言われれば、いたしかたない。寸刻も惜しい。


「冨樫さん。あと、どのくらいで到着しますか?」


 龍郎は激しいエンジン音のなか、操舵室にいる冨樫にたずねた。

 冨樫は娘を亡くしたばかりのせいか、ひじょうに無口だ。しかし、龍郎の問いにふりかえり、「一時間だ」と答えた。


「ありがとうございます。島についたら、おれたちを置いて帰ってくださっていいので。ただ、帰りも迎えに来てもらいたいんです。そうだな。五日後にでも」


 冨樫は沈黙のまま、うなずく。

 家族を亡くした痛みは、龍郎にもわかる。ほんとは冨樫の娘の身に何があったのか知りたいのだが、聞けるふんいきではなかった。


 あきらめて、龍郎が操舵室を出ようとしたときだ。思いがけず、冨樫のほうから呼びとめた。


「兄ちゃん。あんた、何しにあの島へ行くんだ?」

「大切な人が苦しんでいるからです。あの島で何かがあった。その原因をつきとめなければ、その人の苦しみは終わらない。だから、行くんです」


 冨樫はしばらく考えこんだ。

 そして、口をひらく。

「あれは悪魔の島だ。あそこにかかわったのがいけなかったんだ」


 龍郎は冨樫の目をのぞき見た。真剣な眼差しだ。大切な娘があんな姿になって、長いあいだ苦悩したに違いない。嘘や偽りは受けつけない目をしている。


「……あなたには真実を話さなければなりませんね。と言っても、おれも何も知らないから調べに行くんだが。じつは、おれの大切な人というのは、あの島の屋敷に住んでいた一人娘の青蘭です。青蘭は火事にあう前の記憶がないんだ。今でもそのときのことで苦しんでいる。真実を知りたいんです。あのころ、屋敷で何があったのか。冨樫さん、あなたの娘さんがああなった原因、あなたは知っていますか? 噂では、娘さんは人魚の肉を食べたんだということですが?」


 冨樫は首をふった。猪首の襟元まで赤くなるのは憤激のせいらしい。


「なんで鈴子があんなふうになっちまったのか、わかんねえ。鈴子は屋敷で家政婦をしてたんだ。奥さまも優しいし、旦那さまもいい人だから、とてもいい仕事だと喜んでた。ときどき、鈴子に頼まれて本州に買い物をするときなんかに迎えに行ったもんだが、たしかに若奥さんも若旦那も、それは綺麗で優しげな人たちだったよ」


「青蘭の両親ですね」

「娘は坊ちゃんが生まれる少し前に雇われたんだ。若奥さんが身重でお世話係が必要だからってな。給料がすごくいいんで、たまげたがね。マグロ漁から帰ったくらいの額だった」


 それは、スゴイ。

 いくら人手が足りないからと言っても、高額すぎやしないだろうか?


「たいそうな金持ちの屋敷だったから、気前がいいもんだって、おれも娘も、そりゃ喜んだ。が、行かせなけりゃよかった。あんなことになるとわかってりゃ」

「そう……ですよね。あの屋敷に何か変わったふんいきはなかったですか? 噂で言うような人魚の肉がどうとかいう話とか」

「とくに変なことはなかった。島にケーブルがひいてあったんだろうな。電話も通じて、毎晩、娘からかかってきてた。前日まで、ふつうに元気だった。なのに急に電話がこなくなって、あんな姿になった娘が帰されてきた。二十年前は、それでもまだ娘とわかる風貌だったが……」


 つらい思い出を話す冨樫の顔つきは険しい。こんな話をさせなければならないのは、ほんとに心苦しい。しかし、青蘭を救うためにはわずかの手がかりでも欲しいのだ。


「そう言えば、冨樫さん。さっき、若奥さんって言いましたよね? もしかして、屋敷には他にも住人がいたんですか? 青蘭の家族が?」

「ああ。いた。大奥さんが。おれは見たことがないんだが、なんでも、若奥さんよりも、さらに美人で、ひとめ見るとふるえがつくようだって話だったなぁ。それはもう天使のような美女だったと」

「天使のような……ですか」


 なんだか、ひっかかる。

 青蘭の祖父は悪魔だったという噂がある。その妻が天使のようだった……それは、ただの比喩なのだろうか?

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