第13話 家に帰るとき その三



 電車で見かけたとき、この男は一言も発さなかった。表情もほとんど変わらなかった。少しくたびれたような顔で、無感情に乗客を喰い続けていた。


 だが、今、男は興奮して目を血走らせている。白目の部分が真っ赤だ。黒目が金色に輝いて見え、ノコギリの刃のような歯をむきだして笑っている。


「見つけ……た」


 青蘭の匂いを——青蘭の内にある快楽の玉の匂いを追って、ここまで来たのだ。


「低級の貪食。そう言ってたな? 青蘭。こいつ、霊体ってことか?」

「うん。だから、ボクには退治できない」

「こいつ、おまえを追ってきて、どうするつもりなんだ?」

「貪食なんだ。喰うために決まってる」

「わかった」


 最初に遭遇した電車のなかでなら、あっけなく龍郎はこの低級な悪魔に喰われて終わっていただろう。

 だが、今は違う。今なら、青蘭を守ることができる。


 龍郎は青蘭を背中にかばって、男の前で身がまえた。

 男は龍郎のことなど目に入っていないようだ。まっすぐ、こっちに向かってくる。青蘭を見る目は恍惚としている。ずっと探し求めていた何かを見つけたときの目だ。


 龍郎は男と青蘭の軌道上に立ち、右手をつきだした。男は秒速何メートルなのだろうか? 百メートルを五秒でかけぬける勢いだ。しかし、軌道上に立てば、向こうから龍郎の手の内へ突進してくれる。


 しかし、相手が悪魔であると同時に怨霊であることを、龍郎は失念していた。龍郎の目前に迫った瞬間、男の体が床に吸いこまれた。いや、男が龍郎をさけたのだ。回避して、床のなかを通った。

 男の目から上だけが、いびつな笑みをふくみながら、龍郎の足の下をすうっとすぎていく。


「くそッ! こいつめ!」

 カッとなってスライディングで蹴りを入れると、手ごたえ——というか、足ごたえはあった。スコンと靴のさきが男の後頭部を直撃する。

「ぎゃッ」と声がしたあと、男の頭部も完全に床にひっこんだ。


「……どこに行った?」

「近くにはいるけど」

「うん。まだ匂いがする」


 見まわしていると、二人のすぐ近くの床から、男の手がニュッと伸びてくる。その手には、あのスーツケースをにぎりしめている。人間一人、丸々入りそうなほど巨大なスーツケースが、前衛的なオブジェのように、百貨店の床から生えていた。


 そして、鍵の外れる音がした。勢いよくスーツケースがひらき、なかからベロアのような赤い裏地がとびだす。それはカメレオンの舌のように自在に伸縮し、青蘭の体に二重三重とまきついた。

 とっさに、龍郎はスーツケースのベロをつかんだ。ただし、左手だ。退魔の力はない。右手に持ちかえようとした瞬間、ものすごい力で引きずられる。

 龍郎と青蘭はスーツケースのなかに飲みこまれた。パタンと、無情に音が響く。




 *


 その子どもは、いつも一人だった。

 まだ幼かったが、ワガママを言わず、朝から晩まで部屋のなかで留守番していた。


 母は子どもの目から見ても、とても美しかった。背が高く、スラッとして、色白で、華やかな服がとても似合った。

 父のことは知らない。

 物心ついたときにはいなかった。


 母は朝に出ていって、夜には帰る。だが、またすぐにいなくなる。暗くて寒くてさみしい部屋で、彼はずっと母の帰りを待ちわびている。


 部屋の窓から遠くを走る電車が見えた。毎日、それをながめていることだけが楽しみだった。

 あれに乗って母が帰ってくるのかな、次の電車かな、赤い電車が三十ほど通ったら、だいたい母は帰ってくる。


 カタカタ。ガタンゴトン。

 電車は好き。

 母のことは、もっと好き。

 部屋中ゴミだらけだけど、おいしいご飯を持って帰ってきてくれる母が好き。キレイな母が好き。ほんとはもっと、ずっといっしょにいたいな。


 ところが、ある日、母は大きな大きなスーツケースに荷物をたくさん入れて出ていった。

「旅行に行ってくるから、帰りが遅くなるわ」と言って。


 遅くなるって、どれくらい遅いのかな? 今日かな? 明日かな? その次かな……?


 お母さん。まだ帰ってこない。

 ご飯がなくなったよ。

 お腹すいた……。


 お母さん……今ごろ、どこを旅してるのかな? いつ帰ってくるの? 旅は楽しい? ねえ、お母さん。お腹すいたよ。お水だけじゃお腹いっぱいにならないよ。


 いったい、何回、お日さまが昇って沈んだのかわからない。通りすぎた電車も途中から数えられなくなった。彼は百までしか数えられない。


 お腹が痛い。ギュウギュウと刺すようにしぼられる痛み。お腹がすきすぎて、床をころげまわった。

 目につくものはなんでも食べた。コンビニの袋のなかに残っていた、変な匂いのするオニギリとか。カビの生えたパンのカケラとか。紙とかビニールとか。畳もむしって口に入れた。畳の上を這う蟻とか……。


 お腹、へった……お母さん、いつ帰ってくるの?

 旅は、そんなに楽しいの?

 ぼくも旅に行きたいな。お母さんといっしょに。

 そうしたら、きっと、毎日が楽しくて、お腹もいっぱいで、二人であの赤い電車に乗って、お腹もいっぱいで、見たこともないものいっぱい食べて、お腹もいっぱいで、お母さんも笑って、お腹もいっぱいで、ぼくも笑って、お腹もいっぱ——いっぱいじゃない!


 お腹がへった。お腹がへった。お腹がへった。お腹がへった。お腹がへった。お腹がへった。お腹がへった。お腹がへった。お腹がへった。お腹がへった。痛いよ。お腹がへった。苦しいよ。お腹がへった。お腹が、お腹がお腹がお腹がお腹がへったへったへったへったへったへった。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。痛い。苦しい。食べたい。お母さん! 痛いよ、お母さん! 体中が痛くて、だるくて苦しいよ!


 すると、目の前に誰かが立った。

 優しそうな顔の知らないお兄さんだ。

 しゃがんで、彼の頭に手をのせた。


「もう苦しまなくていいんだよ」


 ぽん、と頭をたたかれると、あれほど七転八倒した痛みが消えた。


「あっ、ぼく、今なら行ける」

「そうだね。ここは君のいるべき場所じゃない。ほんとの家に帰るんだ」

「ほんとの、家……」


 そこはきっと、あったかくて、美味しいものがたくさんあって、優しいお母さんが待ってるところ。


 帰ろうと、彼は思った。

 彼の意識は光のなかに溶けていく。

 やっと、いるべき場所に帰れると、かすかに感じた。




 *


「あなたが泣くことないじゃないですか。龍郎さん」


 悪魔が消滅し結界から出てくると、青蘭は微笑して、龍郎の手をにぎった。

 龍郎はおもてをそらした。


「泣いてない」

「泣いてますよ。ほんとにもう、可愛い人だなぁ」

「だって、かわいそうだ。ネグレクトだろ? 母親に捨てられたんだ」

「でも、これで救われたでしょ?」

「うん。そうだな……」


 そのあと、青蘭はゲームコーナーの前を通りかかったときにも硬直した。足がセメントで床に固定されたようになって、何かを凝視している。

 見れば、UFOキャッチャーのぬいぐるみだ。つぶらな黒い瞳のユニコーン。


「……もしかして、欲しいの?」

 瞬時に赤くなった青蘭を見て、龍郎はどうしようもなく愛しさがこみあげてきた。

「よし。じゃあ、とってやるよ!」


 その夜、ホテルの部屋中をUFOキャッチャーの戦利品で埋めて、幸せそうに眠る青蘭がいた。


(そういえば、前に青蘭の部屋の趣味って、どんななのか聞いたとき、答えてくれなかった。こういう部屋が好みなんだな)


 ぬいぐるみにあふれた子ども部屋のような室内。きっと、火事にあう以前の青蘭の部屋が、そんなだったのだろう。

 それは青蘭の心の傷の深さを物語っているようで、少し切ない。




 了

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