思い出の忘れ形見

馬籠の石畳の坂を3人は無言で下ってゆく。足音と両脇の水路の水流れる音がその空間にある音だけで、夜深い馬籠はとても静かだった。

ちょうど車屋坂の枡形あたりに差し掛かった時、千代子が口を開いた。


この上の方に同級生が住んでいてね。


枡形は勾配の急なs字カーブで、その途中には阿弥陀堂という小さなお堂がある。その脇に路地があって奥に少し朽ちた一軒家があったのを2人は思い出した。


雪子と言って、気立の良い素晴らしい同級生だったのだけど、旦那さんを早くに亡くした人でね。


千代子に麻衣奈が視線を向けると暗がりでもわかるほど、過去を慈しむような表情を浮かべていた。


そして、ちょうど60歳の頃に親戚の子を2人預かることになったんだよ。


親戚の子ですか?


そうさ、両親が交通事故で亡くなってしまって、親戚中をたらい回しにあっていたらしくてね。それを親族の集まりで聞いた雪子が育てると言って預かったんだよ。


雪子さん、凄いですね・・・。


その年齢で子供を育てるという覚悟は生半可なものではなかったはずだ。


私も心配したんだが、それは杞憂だった。来たのは6歳くらいのお姉ちゃんと2歳くらいの妹の姉妹でね。それはもうとっても可愛くていい子達でね。この町内でも人気者だったさ。


千代子の沈んだ表情が仄かに緩む。


あ、入り口に掛かっている写真ってもしかして・・・


麻衣奈は種火屋の出入り口の鴨居に古い写真があったのを思い出した。それはとっても綺麗な初老のご婦人とその側で可愛らしく柔かに笑っている姉妹が写っていた。


その写真の子達だよ。でもね、3年くらい過ごした辺りで、2人を急に引き取りたいっていう親戚が現れてね。その2人も私も会った事があるのだけど、それはそれは素敵な夫婦で事故で子供を授かることができなくなってしまったから、引き取って育てたいとのことだった。姉妹にも相談をして数ヶ月かけて面会を重ねて向こうへ行ったんだ。


数ヶ月をかけて面会を重ねる。そこに雪子の優しさが垣間見えた。この姉妹を心底愛していたことが麻衣奈にも七右衛門にも理解できた。


雪子さんも辛かったでしょうね。


そんな雪子だからこそ、最後の別れの瞬間はどれほど、胸が張り裂けんばかりに苦しかっただろうか、そう思うと麻衣奈の涙腺が少し緩んだ。


その通りだよ。本当に辛そうだった・・・。落ち着いたら会いにいこうと楽しみにしていたんだが、しばらくして癌が見つかってね・・・、すぐに逝ってしまった。


それは・・・。


楽しみの矢先の病とはそんな理不尽があって良いのかと麻衣奈は憤った。あの額縁に入った写真で微笑む3人は見ている人が幸せになれるそんな笑顔だったのだ。2人もきっと来てくれるのを心待ちにしていたに違いない。


いや、病は仕方ないんだよ。誰だってなるからね。見舞いに行った時は2人を幸せな家庭に送り出せて本当によかったと言っていたよ。でも、やはり寂しそうではあったけれど。


千代子の声が少し震えている、涙は見せないが、その声色は『涙の跡』であった。


しかし、何かどうなったのかは分からないけれど、中神さんからの連絡ではどうやらその子たちらしい。雪子は亡くなっているし、よく遊びに来ていた種火屋の名前を言ったそうでね。


まぁ、千代子さん、今、悩むよりは言って見て聞いた方が早いよ。


場の雰囲気を無視して七右衛門はそう言って歩みを進め始めた。


そうれはそうですけど・・・。


もう少し話を聞いてもと麻衣奈は言おうとして、七右衛門の次の一言で言うのをやめた。


待ち時間ってのはとっても不安になるもの、子供なら尚更ね。


2人は頷くと中西医院の脇を過ぎて歩道のある2車線の道を駐在所へと歩いていく。

そうして歩いていると、前方から懐中電灯の光が二つ、駐在所方向からこちらへと向かってくるのが見え、距離が近づいて徐々に輪郭が見え始めると、よく知った声が話しかけてきた。


あれ、千代子さんに麻衣奈さん、あ、七右衛門もいるのか。


歩いて来たのは中西先生と熊崎看護師だった。


 交番から往診を頼まれてね。今行ってきたとこ。


そう言って中西は両手を空に伸ばして背伸びをした。よく見れば、熊崎は往診カバンと処置で使ったと思われるガーゼ類をまとめた袋を持っている。


2人は怪我でもしているのかい?


心配になった千代子が普段からは想像できないほどの早口で中西へと話しかけた。


千代子さん、怪我は転んだ程度だから大丈夫だよ。


それなら・・・。


安堵の表情を見せて一息吐いた千代子にさらに中西先生は話を続ける。


やっぱり繭さんと凛ちゃんだった。詳しい話は患者さんの事だから避けるけど・・・。あのまま家に戻すのはどうかと思うよ。


中西にしては珍しく歯切れが悪く、最後の方には怒気を含んだような言い方だ。


そんなにかい・・・。


悲痛な面持ちをした千代子の肩に中西先生が手を置く。


大丈夫だよ、私もきちんと入るから悪いようにはしない。落ち着いて迎えてあげてね。


中西先生、一つ聞いていいかな?


なんだよ、ヘボ画伯。


マルトリートメントで間違いないか?


いつになく真剣な表情で質問してきた七右衛門に、一瞬きょとんとした中西先生だったが、その意味を即座に理解した。彼女も忘れていたが、芸術家ってのは教育委員会と仲が良い場合も多い。そしてまた、ご多分に漏れずというべきかある程度、名前を知られている七右衛門は教育委員会の分科会の一員でもあった。色々な方面へ話を通すこともできる立場に彼はぶら下がっているのだ。早めに情報を共有しておく必要もあるだろう。


初見ですが、それで間違いないと断言します。


ありがとう、中西先生。


そう言うと一層七右衛門の顔付きが険しくなった。中西は千代子の手前、明言することを避けていたが、彼の言い回しから察して、しっかりと、これは虐待事案である事を告げた。


さて、2人も待っている事だし早く言ってあげてね。


千代子の背中を優しくぽんぽんと叩いて急かしてやる。


そうさね、まずは会ってやらないとね。


そう言って足速に駐在所へ向かう千代子に一礼した麻衣奈が付き添って行ったが、七右衛門はその場で空を見上げたまま立ち止まっていた。


ヘボ画伯、千代子さんには伝えにくいからあんたに伝えとく。


なんだ?


振り向く事もなく、満点の星空を見たままで彼は返事を返した。


今日の事は、児相(児童相談所)に連絡を入れる。これはしなきゃいけない事だと私は医者として思うから。


それは当然だろうね。そうしないとまずい。


それと、これは私個人のお願いでもあるのだけど・・・この件、私だけじゃどこまでできるかわからない・・・ 。もし・・・いや、きっと千代子さんなら引き取るって言い出すと思う。繭さんと凛ちゃんもお互いに納得して暮らすのなら、私はできるだけ手助けしてあげたい。そうなった時、身勝手なお願いなのだけれど・・・貴方も力を貸してくれると嬉しい。


ああ、そんなことか。


そう言って夜空から中西先生に向き直ると七右衛門はしっかりと頷く。


言われるまでもない。私だってお世話になっている恩人がそうしたいのなら、お互いに納得するのなら、手助けはやぶさかでないし、構わないよ。


そう言ってもらえると助かる・・・ありがとう。


お礼を言われる事でもないよ。さて、追っかけるかな。


じゃぁっと手をあげ七右衛門は2人の後を追いかけていく。後ろ姿を見送って、中西も夜空を見上げた。澄んだ空には星々が煌めいていて時より、飛行機や流れ星が動いていく。


大丈夫か?


後ろにいた熊崎が心配そうに声をかけた。


うん・・・。


少ししょげた声で返事を返して下がってそのまま背中を彼に預ける。

繭と凛を彼女は全く知らないわけではなかった。父親の手伝いで来ていた頃に数回、診察をした事もある。2人ともよく笑う素敵な子供達だった。3人で仲良く手を繋いで帰っていく姿を今でも覚えている。

しかし、あの素敵な笑顔は今日の診察では見る事は叶わなかった。それは痛々しくてとても言葉には言い表せないほど・・・。

ため息を一息つき、2人はその場を離れて夜空を見上げてながら帰路へと着いた。

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