第66話 真里菜vsロザリー 1

 四人目の選手――副将である一年生の内川聡子が、無事に勝利を収めるのを見てから、和泉真里菜は立ち上がった。

 一人目、熊沢奏多が相手にしていた選手をはじめとして、大した相手はいなかった。熊沢は八秒という僅かな時間で勝利を収め、次鋒である江藤加奈子も三十秒という短い時間で決着。さらに中堅の西野は十秒で内股一本勝ち、副将の内川に至っては、開始と共に仕掛けた背負い投げで鮮やかな一本勝ちを決めた。ここまでの試合、実質的な試合時間はトータルで一分もかかっていないという圧倒的な現実がそこにある。

 既にスコアとしては、四対ゼロで栄玉学園の勝利だ。


 そして、最後に控えているのは――栄玉学園最強の女子、和泉真里菜。


「お疲れ様です、内川」


「大したことのない相手だったっす。全員、白帯なのも納得っすね」


「私だけは楽しませてもらいますよ、相手は黒帯ですからね」


「和泉先輩の前で、何秒保つか分からないっすけどね」


 ははっ、と笑う内川が自分の席に戻ってゆくと共に、真里菜は試合場の端で一礼を行った。

 柔道は礼に始まり、礼に終わる。試合場は神聖なものであり、これから全力を賭して戦う場所だ。そこに敬意を評し、礼を示し、試合場に上がる前には一礼を行うのが選手の義務でもある。

 同じく、逆側では金髪の少女が一礼。武人はフランス人だと言っていたが、確かに日本人離れしたルックスだ。背丈は真里菜より僅かに高い程度だが、全体的に均整のとれた体つきが、どことなくその背を大きく感じさせる。


「……」


 真剣な眼差しで、そんな風に自分の相手を見ながら。

 真里菜の心の中にあったのは、ああ、今日のお昼ご飯美味しかったな、という感想だけだった。


 武人に師事するようになってから、真里菜の食生活は激変した。

 今まで茹でた鳥ささみ、茹で卵、玄米という高タンパク低カロリーの食事を主に行いつつ、必要な栄養素はサプリメントだけで補充していた食生活――今思い出すと、唖然とする代物だ。間違いなく体に良いことは分かるけれど、それだけだ。そこに、食事の楽しみなどどこにもないのである。

 今は、鳥ささみ肉を使用した玄米の親子丼、鳥ささみ肉を使用したチャーハンなど、真里菜の主に食べるものは大きな変化を遂げた。

 加えて、今まで全く興味を持っていなかった夕食における食卓――そこに並ぶ、真里菜のもの以外の食事を見て、食べたいと思ってしまったのだ。ハンバーグやエビフライ、カレーにシチューといった毎日の夕食において、真里菜も同じものを食べるようになった。何があろうと鳥ささみ、茹で卵、玄米以外の何物食べようとしなかった真里菜にとっての、大きな変化である。

 これに対して、母は喜んだ。「やっと私のご飯を食べてくれるのね」と感涙していたほどである。父の方は「毎日の栄養管理こそが……いや、だが娘が食事に興味を持ってくれたことを喜ぶべきか……」とどことなく釈然としない様子ではあったけれど、概ね好意的な反応だった。唯一、姉の梨央奈だけが「わたしの取り分減るじゃないー」と不満げな様子だったが。


 さらに、間食も嗜むようになった。

 今まで梨央奈がよく食べていた、お菓子というものを食べるようになったのだ。

 武人が作ってくれたクッキーを食べて以来、我慢できなくなったのである。梨央奈の部屋に置いてある備蓄のお菓子を勝手に持ち出し、自室で一人で食べたことも何度もある。

 何を食べても武人の作るものほど美味しくは感じられなかったが、それでも満足することができた。特に気に入ったのはポテトチップスで、一晩で一袋開けることも何度となくあった。食というものが、これほど幸せを齎してくれるのかと感動したほどである。


 そんな風に考えながら、試合場の中央へ。

 そこで、目の前の女――ロザリー・ラコートと睨み合う。

 敵チームの中で、唯一黒い帯を巻いたロザリー。今までの四人は大したことのない素人ばかりだったが、せめてこのロザリーだけは自分を楽しませてくれるのだろうか。


「正面に、礼!」


 審判の言葉と共に、神棚に対して礼を行う。

 一つの通過儀礼のようなものであり、別段真里菜は神を信じているわけではない。いるかどうかも分からない神様よりも、自身の修練を信じる方がいい、と考える程度には無神論者である。


「互いに、礼!」


 そして正面を向き、ロザリー向けて一礼。

 フランス人だとは思えないほど流麗な所作で、同じくロザリーも真里菜へと一礼をする。外国人といえど、同じく柔道の道を志している者だ。基本的な礼儀については学んでいるのだろう。

 そして、礼が終わればやることは一つ。

 ここからは、ただ敵を倒す戦士となる。


「はじめ!」


「はぁぁぁぁっ!!」


「おぉぉぉぉっ!!」


 咆哮と共に、真里菜は駆け出してロザリーの襟首をとる。

 ロザリーも同じく迫ってくる真里菜の右襟、左袖をとってくる。真里菜が左襟、右袖をとっている状態であるため、この構えは喧嘩四つだ。互いに向き合っている腕で襟と袖を取り合うというのは、互いに技が掛けにくい状態となるのである。

 腰を引き、懐に入られないように腕を伸ばしながら、暫し膠着。

 そして、その間に真里菜は己の勝利への道筋――どこを攻めれば良いのか、考える。


 いくら注意を向けても、人間である以上全身から隙を失くすという行為は不可能である。

 ゆえに、真里菜が行うのは相手の観察、そして『崩し』だ。左右に振る行為、上下に揺らす行為、前後に揺さぶる動き――それが相手の体を崩し、その持つ隙を明確にするのである。

 いくら技が鋭かろうと、何一つ崩しもせずに相手を投げ飛ばすことなどできない。ゆえに、全ての技はその体を崩すことから始まるのだ。


「は、ぁっ!!」


 そして、真里菜の持ち得る最大の強みは、その観察眼。

 僅かな隙があればそこを崩し、そこを攻める。そして、相手の隙がどこにあろうと対応できる――それだけの技を鍛えている自信もあるのだ。

 ゆえに、それは真里菜の見つけたロザリーの隙。

 引いた袖に注意を向け、襟に対しての注意が疎かになっている、その瞬間。


 真里菜はロザリーの掴んでいる袖を払い、そのままロザリーの懐へと入り込んだ。

 完璧なタイミングで、完璧な挙動で入った一本背負い――それが、和泉真里菜という女が最も得意とする技。

 小柄である真里菜が数多の巨漢選手を投げ飛ばしてきた、まさに柔よく剛を制すという言葉を体現した、最強の技である。


 だが。

 そんな、完璧に放ったはずの一本背負いが。


「少し、焦りマシタ」


「……っ!」


 まるで、大地に根が生えたかのように鎮座する、ロザリーという女を。

 投げ飛ばすには、至らなかった。


 すぐに体を返し、ロザリーの正面へと向かう。

 背中を向けている状態というのは、隙だらけなのだ。目がそちらに向かない以上、どのような攻撃を受けてもされるがままになってしまう。

 このままでは投げられる――そんな焦りと共に、真里菜は必死に体を動かすが。


「やぁぁぁぁぁっ!!」


「――っ!!」


 その動きは止まることなく、静止した真里菜へと襲い掛かり。

 真里菜の足が宙に浮くと共に、その体を持ち上げられた。

 背負い投げに対する返し技――裏投げ。


「あぁぁぁぁっ!!」


 必死に宙で体を捻り、畳に叩きつけられるまでの僅かな間に、その動きを逸らす。

 これがただの選手であったならば、この裏投げだけで終わっていただろう。それほどの鋭さを持つ攻撃だった。

 だが真里菜は自分の体を必死に捻り、どうにか背中から落ちることだけは防ぐ――その結果、肩から畳へと叩きつけられた。


「技あり!」


 審判の言葉と共に、真里菜は目を見開く。

 中学から今まで、ただの一度たりともとられたことのないポイント。まさか、こんな練習試合で奪われるなど思ってもみなかった。

 だけれど、ロザリーはそのまま寝技へと移行することなく立ち上がり。

 にっ、と真里菜へ向けて、笑みを浮かべた。


「それで終わりデスカ? さぁ、まだまだやりまショウ」


「……」


 真里菜が攻め立てていたがゆえに、僅かにめくれ上がった柔道着の袖。

 そこから覗く――太く鍛えられた、まるで丸太のような腕。

 背丈は真里菜とさして変わらずとも、その柔道着の下が、途轍もなく鍛えられたそれと理解できる。

 同時に、真里菜はようやく分かった。

 ロザリー・ラコート。


 この女、強い――!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る