猫
ネコ飼い始めたからうちおいでよ、と彼女に言われて俺は戦慄した。ついに、彼女も。仕事終わり、おそるおそる彼女のうちへ向かうと、彼女は見たことのない、とろけるような笑みで迎えてくれた。「ほら、この子。かわいいでしょ?」甘ったるい声で紹介してくれる、まあるく包み込む腕の中には、なにもいない。
人類は度重なるストレスのせいで、いつしか「ネコ」という集団幻覚を見るようになった。子どもには見えないその生き物は、この世のすべてのものから愛されるような、小さくてふわふわして、やわらかくて気まぐれで、そんな姿をしているらしい。ばからしい、と笑っていたけど、二十歳を過ぎたころから気心知れた友達たちが、次々ネコの虜になっていくのを見て背筋がふるえた。いったい何なんだ、ネコ。
俺が見えない、というと彼女はどこかバカにしたような顔をして、「こーんなにかわいいのにねえ、残念」とだけ言った。俺が彼女の家に行くときは、たいてい料理を作っていてくれているのに、今日は鍋ひとつ使った形跡がない。ソファに座って待っていても、グラスひとつ出てこない。彼女は虚空を抱いてはくちびるを寄せている。それからというもの、彼女は変わった。何かにつけては、ネコちゃん、ネコちゃん。ネコが待ってるから、ネコが具合悪そうで、みて、このネコ、最高に可愛くない?
耐えきれなくなった俺は、もっと俺を見てくれと彼女に言った。そしたらあっさりフラれた。あっさりすぎて拍子抜けるほど、なんの未練も情念もなく、彼女は去っていった。俺はひとりになった。呆然としていたから、仕事でも大きめのミスをした。疲れ切って家に帰ると、電気をつける前に、なにか部屋の中をよこぎったような気がした。電気をつけても、なにか視線を感じる。部屋の隅の薄暗さにまぎれて、ちょこんと座る黒いもふもふが、おそらくとてもかわいいことを認めたくなくて、俺はまだそっちを向けない。
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