3-13 アッシュはシルフィアに紅茶を淹れる
早朝の白百合城は森からの湿った涼気に包まれていた。アッシュは野鳥の声を聞きながら庭内を歩く。庭内には三階建ての
グラハム・ルドフェルの体に意識を移したアッシュを待ち受けていたのは、久しぶりの平穏。ラガリア王国からロアヴィエ皇国への帰還と、牢屋、森での白百合城監視が続いたので、寝所での睡眠すら二週間ぶりであった。藁を重ねたものではなく、羽毛で作られたベッドでの睡眠は、アッシュにとっては初体験でもあった。
自分に関心を払う者がいないと分かったのでアッシュは森に行き、キーシュの死体を探す。野犬の餌にはなっておらず、埋葬してあった。墓標代わりらしき木の板に木彫りの天使像が添えてあったので回収した。それから、軍にいたときの習慣で剣の訓練をしたくなったが、グラハムに成りきる以上は余計な行動を控えなければならない。
昼過ぎにボーガから「主がお呼びだ」と伝えられたため、アッシュはシルフィアを探した。中庭の東側隅にある建物のドア脇に日よけの傘があった。城郭内は、この傘がシルフィアの在所を示す。建物の一階は厨房兼食堂であった。火事による延焼を避けるため、居城とは別棟にしてある。二階部分が料理人の部屋となっており、ボーガが寝所として使用している。
中に入れば料理の熾火が残っていて、室内は暖かい。シルフィアにとってはくつろげる空間らしく、長椅子に座り足を揺らしていた。白色で統一したリンネルのドレスとタイツで肌を隠すのは前日と同じだが、肩を出す薄着になっている。木造の粗末な土間には不釣り合いの格好に見えるが、当人が肩肘を張っていないからか、意外なことに馴染んでみえた。
「紅茶を淹れてちょうだい」
子供が遊んでとねだるような、明るく弾んだ声。昨晩よりも幼く聞こえる。娼婦のような蠱惑的な響きは、寝室に置き忘れてきたのだろうか。
(普段はボーガやユウナが紅茶を準備しているのだが……。二人はエナクレスに仕事の説明をしているから、俺に声がかかったのだろうな)
アッシュは紅茶の正しい淹れ方など知らないので、記憶を頼りに茶葉や食器類を用意する。湯を先に用意するのか、茶葉を淹れた水を火にかけるのかすら分からない。そもそも紅茶自体が高級品なので、アッシュは一度も飲んだことがない。
どうにか淹れることのできた紅茶を出して、アッシュが下がろうとすると呼び止められる。
「貴方も座りなさい」
「はい」
返事をしつつ、アッシュは対応に困る。
(グラハムは同席を求められたことなどないぞ……。まさか、俺の行動を観察している?)
この場に居座るのは拙いと判断し、理由をでっちあげて退室を試みる。
「厩舎の屋根に傷んだ所があるので、雨が降る前に点検をしておきたいのですが」
「肝心の馬がいないのだから、雨漏りの心配は不要よ。教えてあげる。主の命令は絶対なの。同席を求められたら断ってはいけないのよ。そんなんじゃ、ユウナにバレるわ」
「……なんのことでしょう」
「しらを切る必要はないわ。貴方、昨晩訪ねてきたキーシュという男なんでしょう」
(バレている? いや、腹の内を探っているだけか?)
「一応、元の体は治療して礼拝堂に安置してあるのだけど、動かないようだし、中身が入れ替わるわけじゃないのね。貴方が見に行った墓の下は空っぽよ」
「すみません。なんのことか……」
「はあ……。あのね、下品なことだから私の口からは言いたくないのだけど……」
シルフィアは心底、呆れた口調。アッシュを疑っているにしては、苛立った様子ではない。頭の上で手を組み「んっ」と背筋を伸ばす。
「ほら」
「……ほら、とはなんのことでしょう?」
「グラハムならね、私がこういう格好で腋を出していたらジロジロ見てくるの。本人は気付かれていないつもりだったようだけど。貴方、紅茶を出すときに前かがみになっても私の匂いをかがなかったでしょ?」
あまりにも突拍子のないことだから、アッシュは一瞬、言葉の意味が分からなかった。理解してからもシルフィアが冗談を言っているとしか思えなかった。
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