第百八十二話「湊の宣戦布告」

 湊がサメっちから脅迫を受ける十分ほど前のこと。



 医務室のベッドに横たわる林太郎のもとを、ひとりの少女が訪れた。


「アニキっ! アニキっ!」


 サメ柄のパーカーフードをぷらぷら揺らしながら、サメっちは林太郎の身体を両手で揺さぶる。

 それでも林太郎は、うーんうーんとうなり声をあげるだけであった。


「アニキーーーッ!」


 馬乗りにされたところで、林太郎は割れそうな頭を押さえながらようやくサメっちを制する。

 まるで日曜の朝にいつまでも寝ていたところ、子供から外出をせがまれた父親のようであった。


「……急性アルコール中毒で倒れた病人をあんまり揺らしちゃあいけないよ。勢い余って涙が口から出ちゃうかもしれないからね。アニキはもはや吐くものすらないけどね……」

「アニキまた二日酔いッスか!」

「よくわかったね。じゃあそろそろ降りようか」


 自分の腰の上に馬乗りになったサメっちを、林太郎は両手で抱えて床に下ろす。


「うぅ……くそ、まだ視界がぼやけていやがる……」

「クックック、二日酔いにきく冷たい水はいかがであるかな?」

「ああ、ありが……」


 重い身体を起こした林太郎は、コップを受け取ったところでようやく訪問者がサメっちだけではないことを知った。


「ドラギウス総帥!」

「おお、意外と元気そうでなによりである」


 それはタガラックによるアルハラ地獄とも呼べる絡み酒の最中、さっさと闇の空間にひとり逃げ込んで難を逃れたドラギウス三世であった。


「ええおかげさまでご覧の有様です。ドラギウス総帥も今から飲んできたらどうです? 工業用エタノールならまだ残ってると思いますよ」

「まあまあ、そういきどおるでない。悪かったのである、フハハハハ! それよりもお主ら極悪軍団に吉報を伝えてやらねばならんのである」


 まったく悪びれないドラギウスはひとつ咳ばらいをすると、一枚の書類を取り出す。

 いぶかしげな林太郎であったが、書類を手に取った途端みるみるうちに顔色が変わった。


「ドラギウス総帥……これは……!」

此度こたびの超巨大ロボ撃破作戦は、おぬしとタガラックの功績によるところが大きい。そこでアークドミニオンから臨時ボーナスインセンティブを支給するのである」


 書面には極悪軍団による粉骨砕身の活躍が、細かく項目分けされて並べられている。


 そして項目の一番下には、ドラギウスのサインと共に総支給額が記載されていた。

 労力に見合うだけの、かなりの金額が。


 林太郎は書類とドラギウスの顔を何度も見比べた。


「こんなにもらっちゃって良いんですか!?」

「うむ、正直なかなか痛いのである。しかし此度は特にタガラック……絡繰軍団にかなりの骨を折ってもらった手前、補償をしてやらないというわけにはいかないのである」

「ですがそれと俺たち極悪軍団になんの関係が?」

「絡繰軍団にだけ臨時ボーナスを出すと角が立つであろう? そこでいっそのこと一律で支給してしまおうと思ったのである。まあタガラックの顔を立てるためにも受け取っておくがよい。クックック……フハハハハ!!」


 それだけ言うとドラギウスは高笑いを残し、闇色に裂けた空間へと姿を消した。



 残されたのは小金持ちになった林太郎とサメっちである。

 降って湧いたボーナスに、さすがの林太郎もにやける頬を隠せない。


「もう怪我をおしてプロレスに参加したり、部下をAVアニマルビデオに出演させたりしなくていいんだ……!」

「いち、じゅー、ひゃく、せん……はわわ、いっぱいッス! アニキいきなりお金持ちッス!」

「そうだサメっち。なにか欲しいものはないか?」


 林太郎はほくほくした顔のまま、サメっちに問いかけた。

 まるで夏のボーナスを手にしたお父さんである。


「いっぱい頑張ってくれたぶん、みんなにもご褒美をあげないとな」

「ほんとッスか! じゃあ……サメっちアレ欲しいッスぅ……」


 サメっちは身体全体をもじもじさせながら、恥ずかしそうに目を逸らして下を向く。

 そんないじらしい様子に、林太郎は思わず笑みをこぼす。


「ケーキかな? それとも新しい服かな? お金はあるんだ、さあアニキに遠慮なく言ってごらん!」


 サメっちはパッと顔を上げ、いい笑顔を見せながら言った。


「無人島!!」

「なるほどね、これは他のみんなにも意見を仰いだほうがよさそうだ」

「アニキ、無人島買ってくれるッスか!? わぁいッス!」


 林太郎はサメっちの頭にポンと手を乗せると、がっちがちに固まった笑顔のままサメっちに語りかけた。


「よぉしサメっち、湊にもそれとなく欲しいものがあるか聞いてきてくれるかい? たぶん隣の部屋にいると思うから」

「了解ッス! サメっち早速聞いてくるッス!」


 サメっちはよろこびいさんで医務室を飛び出した。


 ひとり残されすっかり二日酔いの痛みのことも忘れた林太郎は、書類の額面を見ながら溜め息をつく。


「さすがに島は無理だなあ……まあ、湊ならいきなり無人島が欲しいなんて無茶を言い出したりはしないだろう。国内慰安旅行ぐらいで手を打てればいいけど」





 ――――そして十分後。





「さあ、なにが欲しいか言うッス! 白状するッスゥ!」

「ひぃぃぃぃ! ごめんなさいぃぃぃ!!!」


 サメっちはそれとなく・・・・・湊に迫っていた。


 林太郎の秘密のことで頭がいっぱいだった湊にとって、サメっちに脅迫される理由について思い至ることなどひとつしかない。


「さあ! さあ! さあッス!」

(消される! 本当に林太郎は秘密を知った私を消すつもりなんだァァァ!!)


 秘密とは、誰しもが心に築く聖域だ。

 そこに忍び込んだ者は、誰であれ口を噤まねばならない。


 何故ならば聖域の守護者の耳は、どんなさえずりも聴き漏らさないからだ。


 賊の息の根は止めねばならない。

 おしゃべりな口が二度と開くことのないように。


 迂闊にも聖域へと踏み込んだミナトに、聖域の守護者サメっちが迫る。


「たとえば、南の島とか……行きたくないッスか……?」

「あひっ!? ま、待て! 話せばわかる!」


 南の島と聞いて湊の脳裏に浮かぶのは“南極”の二文字だ。

 実際に林太郎とサメっちは南極で死ぬ思いをしてきたと聞いている。


 湊にぐいぐい迫るサメっちの両の眼には、いつになく真剣な炎が宿っていた。

 ニヤリと笑みを浮かべながら、唇から覗く牙は鋭く白く恐ろしげな輝きを放っている。


 湊は思う、今日が自分の命日であると。


「なにかしてほしいこと……あるッスよねぇ……?」

「はひっ、きっ……気持ちだけ! 気持ちだけで充分ですぅ……!」


 その一言を口にすることが、今の湊ができる精いっぱいであった。

 ショッキングな事実を突きつけられたその頭は、未だ混乱の衝撃から立ち直れていない。


「…………気持ちッス?」


 しかしその言葉を受けて、サメっちは湊からスススと距離を取った。


「気持ちだけッスか? ほんとにそれだけッスか? ほほぉん?」

「……な、なに……?」

「ほほぉん? なるほどッス……ほほほぉん……」


 サメっちはじーーーーーっと視線を湊に向けたまま、ゆっくり音もなく後ずさる。

 そしてそのまま部屋から廊下に出ると、湊から目を逸らすことなく静かに扉を閉めた。



 脅迫者が去ったあと、室内にはふたたび静寂が訪れた。

 湊は椅子から滑り落ちながら、ようやく呼吸の仕方・・・・・を思い出した。



「はぁっ……はぁ……こ、怖かった……」



 他人の秘密を、ましてや“極悪”の名を冠する栗山林太郎の秘密を探ることが、よもやこれほど危険な橋であったとは。


 湊の目の前に置かれた試験管は、林太郎がひた隠してきた彼の“正体”を如実にょじつに暴いていた。


 もはや疑いの余地もなく、栗山林太郎は『人間』である。


 もちろんなにか深い事情があって、人間であることを隠しているのは想像に難くない。

 そしてそれは、自分が軽率に触れるべきものではなかったのだと、湊は目に涙を浮かべる。


「…………」


 湊は林太郎のことを少しでも知りたかった、ただそれだけだ。

 どうしてその衝動を止められようか。


 しかし湊の行動は、結果として林太郎の逆鱗に触れた。


 だからこうしてサメっちをさし向けてきたのだ、きっとそうに違いない。

 実情はどうあれ、湊の頭の中ではそういうストーリーが完成していた。



「……謝ろう」



 暗い部屋でひとり、湊はそう小さくつぶやいた。


 デリケートな問題に触れてしまったことを正直に話そう。

 そして今まで通り、なにも知らない温かな関係に戻ろう。


「出しゃばった私が悪いんだ……」


 記憶は返上できないが、関係は築き直せるはずだ。



 ――そんなことを考えながら、乱れた白衣を直したところで湊の顔が一気に青ざめる。



 とっさのことであったがよくよく思い返せば、自分はサメっちにいったいなんと返答したか。


『気持ちだけ受け取っておく』


 湊はサメっちに、確かにそう伝えた。


 相手に多くを求めないことは高潔さを示すものであり、清貧せいひん的な美徳といえる。

 しかしそれは遠慮の意を示す常套句じょうとうくであることからわかる通り、少なからず拒絶のニュアンスが含まれる。



 つまり――。



『見返りは受け取らない。交渉にも応じない。お前の脅迫なんかに屈すると思うな!』



 ――餌をちらつかせながら対価を求める相手にとって、湊の言葉は遠慮とはまったく逆の意味に捉えられかねないということだ。


 なにせ湊は相手の秘密を握り、マウントを取ってしまっている・・・・・・・・・

 人の裏をかくのが得意な林太郎ならばこそ、拒絶の意味と受け取られてしまう可能性は高い。


「あわ……あわわわわ……これはひょっとして、すごくまずいんじゃないか……?」


 すなわち剣持湊は、あろうことか。

 栗山林太郎の“絶対の秘密”を握った上で、彼から持ち掛けられた提案を突っぱねたのだ。


 これはもはや、宣戦布告に他ならない。



「……っ!」


 慌てて部屋を飛び出した湊であったが、広い廊下を見渡してもサメっちの姿はもうどこにもない。

 それどころか、隣の医務室で横になっていたはずの林太郎の姿も消えていた。


「……どどどどど、どうしよう……」


 剣持湊は白衣のすそから手裏剣をバラまきながら、誰もいない廊下にぺたりと座り込んだ。




 ………………。



 …………。



 ……。




 とんでもない誤解が生じているとはいざ知らず。

 サメっちはひとり廊下を歩きながら、湊の言葉に頭をひねる。


「むむむ、気持ちだけ……? 気持ちってなんッスかねぇ……? オジキやウサニー大佐ちゃんなら知ってるッスかね?」


 考えてもわからないことは、聞くのが一番手っ取り早い。

 頭に多くの疑問符を浮かべたサメっちが向かった先は、古巣ふるす・百獣軍団のトレーニングルームであった。



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