第百四十五話「揺らぐ黒炎」

 炎の怪人であるヒノスメラにとって、かねてより水は絶対的な弱点であった。

 それはサメっちの身体を乗っ取った今でも変わらない。


『くっ……油断してもうた……あんなコケ脅しに……!』


 地下道に逃げ込んだはいいものの、折からの悪天候は既に彼女の全身をしっとりと濡らしていた。


 身体を包む陽炎は急速に衰え、黒い炎は濡れそぼった身体の奥へ奥へと追いやられる。

 他人の意思と肉体のコントロールを奪うヒノスメラの秘術は、糸がほつれるように解けていった。


『あかん、あかん……このままやと……! せめて濡れた服だけでも脱いで……』


 ヒノスメラは雨で濡れたパジャマのボタンに手をかけようとする。

 しかしその指先は彫像のように、ピクリとも動かない。


 それは肉体の主導権が、既にヒノスメラからサメっちに移ったことを意味していた。

 ひとつの身体にふたつの精神、眠っていた片割れが目を覚ます。


「うゆゆん……へくちっ!」


 小さな可愛いくしゃみとともに、丸い大きな目がゆっくりと開かれた。



「はぶるるるる、さささ寒いッスぅぅぅ……うぅん?」



 サメっちが周囲を見渡すと、そこはどうやら地下鉄のホームであった。


 しかし地上の大火災の影響か照明は落とされ、非常灯の明かりだけが無機質なタイル張りの床を照らしている。

 もちろん空調も動いておらず、構内の気温は外気を下回っていた。


「さむむッス……サメっちたしか、アニキの部屋で寝てたはずッス? ……はわっ!」


 小首を傾げながら己の服装を見てサメっちは二度驚いた。

 サメっちが身にまとっているのは、地下鉄のホームにまるでそぐわないよれよれのパジャマである。


「はわーっ! サメっちついにハイカイロージンになっちゃったッスか!?」

『徘徊はしてたけど老人やないと思うよ』


 動揺するサメっちの耳に、透き通った女の声が響く。

 もはや聴き慣れたヒノスメラの声は、少し疲れているようだった。


 それもそのはず。

 ヒノスメラはそもそも“乗っ取り”を解くつもりなどありはしなかったのだ。


 少なくともヒーロー本部を壊滅させ、アークドミニオンへの復讐を果たすまでは。

 東京を、日本を、怪人を蔑む者たちをひとり残らず焼き尽くすまでは止まらない。


 否、止まれないのだ。

 何故ならば正体を暴かれた彼女には、もう戻れる場所がないのだから。


(このを丸め込まんことには、うちはまたあの暗い地下に逆戻りや……いや、封印どころか、今度こそほんまに消され・・・かねへん……)


 アークドミニオンの怪人たちは、けしてヒノスメラを許しはしないだろう。

 ヒーローたちも、力を失った今のヒノスメラを好機とばかりに“処分”するに違いない。


 加えて敬愛するアニキを襲撃した事実を知れば、サメっちまでもがヒノスメラに恨みを抱くだろう。


 既に四面楚歌のヒノスメラにとって、サメっちを敵に回すことだけは絶対に避けなければならなかった。


(こんなところで蹴つまづいてられへん……今さら退けへんねん……。悪いけどうちのためや、もう少しだけ利用させてもらうでサメっち……)



 ヒノスメラはまるで地雷原を歩くように、慎重に言葉を選んだ。



『……堪忍なあサメっち、今ちょっとうちのせいでえらいことになっとるんよ』

「ヒノちゃん? ヒノちゃんがサメっちをここに連れてきたッスか?」

『せやで、んでもってヒーローどもに追われとるんよね』

「えええッス!?」

『しっ! 静かに!』


 サメっちが慌てて口をふさぐと、地下道の奥から何やら楽しげな歌が聴こえてきた。


「「「えっびばーで! ぷっちょへんざー!」」」


 状況に似つかわしくない陽気な歌が、無人の地下空間に反響する。

 どうやら地上だけではなく、地下にも数名のヒーローが送り込まれているらしい。


「なんでこんなことにッスゥ!?」

『まあその……なんや、外ぶらぶら散歩しとったらたまたま出くわしたんよ。ヒノちゃんも逃げるので精いっぱいでなあ』

「なるほどッス! ヒノちゃんがサメっちを守ってくれたんッスね! ありがとッス、ヒノちゃんは命の恩人ッス」

『…………せやな』


 本当のことを伝えるわけにもいかず、ヒノスメラは言葉を濁した。


 しかし自身が孤立無援であるとはいざ知らず、サメっちはヒノスメラに対して何の疑いを持つこともなく感謝の言葉を口にする。

 あまりにも呆気なく騙されるサメっちに、ヒノスメラの方が肩透かしを食らうほどであった。


(呑気なもんや……自分が踏み台にされとるっちゅーのに、この娘ほんまに怪人なんか……?)


 何もかもを素直に受け入れすぎるサメっちに、さすがのヒノスメラも少しばかりの罪悪感を覚える。


 覚醒に至るまでの経緯や社会的に迫害を受ける境遇から、怪人とは少なからず心に闇を抱えるものだ。

 強い恨み、深い憎しみ、激しい怒り、絶望、傷、そういったものが怪人を怪人たらしめるのだ。


 もちろんヒノスメラも例に漏れず、彼女の社会正義に対する恨みの根深さは筆舌に尽くしがたいものがある。


 しかしこのサメっちという少女は、ヒノスメラが思い描くそんな怪人像からはかけ離れていた。

 どこまでも愚直で、純粋で、無垢で、心の底からヒノスメラのことを信頼しきっている。


「ヒーローがたくさんきても、ヒノちゃんがいれば安心ッス。こんなところすぐに抜け出して秘密基地に帰るッスよ」

『……あ、ああ、せやね……』


 無論、アークドミニオン地下秘密基地に帰らせるわけにはいかない。

 幹部を手にかけた煉獄怪人ヒノスメラは、既にアークドミニオンからも追われる身だ。


 何も知らずに自分を信じるこの少女も、いずれはヒノスメラの裏切りを知ることになるだろう。

 いっそ“乗っ取られた”ままならば、一生知らずに済むものを。


(なんとしても、それまでにもういっぺんサメっちの身体を乗っ取らなあかんな……できればこの娘には、知ってほしゅうないわ……)


 ヒノスメラはサメっちを留めるべく、そして己の力を取り戻すべく、サメっちを言いくるめる。


『なあサメっち、先に服乾かさへん? そんな恰好で帰ったらみんなびっくりするんちゃうかな?』

「そう言われてみればそうッス。サメっち、ちょっとセクシーすぎるッスねぇ」

『ほら風邪ひくさかいに、それ一旦脱いでもうたほうがええんとちゃう?』

「どきっ! だ、誰も見てないッスよね……?」


 サメっちはヒノスメラに促されて、パジャマのボタンに凍える指先を添える。


 まったく疑いもせず言に従う無垢な少女に、ヒノスメラの心はまた少しだけ痛んだ。

 怪人らしからぬあまりの白さに、胸の黒い炎が冷たく揺らぐ。


(なんつー素直な……くっ……ええからはよ脱げっ! 濡れた服さえ脱がしてもうたらこっちのもんなんや……はよ脱がんかいっ!)




 しかし次の瞬間、彼女たちの耳にあの声が届いた。




「えっびばーで、ぷちょへんざー……」



 パジャマのボタンにかけた手を止め、サメっちは急いで身構えた。


 照明が落とされた地下鉄駅のホーム、暗闇の先にぼんやりと浮かび輝く勝利のVサイン。

 赤いスーツの上から炎を象った装甲をまとい、その男はまっすぐにサメっちのもとへと歩み寄る。


「ようやく見つけたぞ! ……って、あれ? なんか縮んでないか……?」

「はわっ! ビクトレッドッスぅ!?」


 ビクトレッドこと暮内烈人、執念の捜索であった。

 地下道へのシャッターが破壊されていることに気づいた烈人は、そこから地下道内に点々と続く極々わずかな水滴を辿ってきたのだ。


「朝霞さん、やりましたよ。冴夜ちゃんを発見しました! ちょっと縮んでますけど!」

『やはりヒノスメラは水に弱いみたいですね。弱っている今がチャンスです。暮内さん、対象を保護してください』

「わかりました! さあ俺と一緒にお姉ちゃんのもとへ帰ろう、冴夜ちゃん!」

「いやッスゥ! ビクトレッドはサメっちのこと何度もボコってるから嫌いッスゥ!」


 烈人の提案を即座に蹴ったサメっちは、両手を腰溜めに構えた。


 サメっちは過去の対戦において、ビクトレッドには二度にわたり敗北を喫している。

 そのリベンジを今こそ果たさんと、サメっちの瞳が燃える。


「今日のサメっちは、今までのサメっちとは一味違うッスよ!」

「なにっ……!? やはりヒノスメラの力か……!?」

「ふーかーひーれー波ァーーーーーッッッ!!!」

「うおおおッ!?」



 ……ぷすん……。



 サメっちは両手を前に突き出すも、漆黒の火炎光線どころかマッチ程度の火種すら起こらない。


「あれっ!? おかしいッス! ふかひれ波ッ! ふかひれ波ァーーーッ!」

「何も起こらないじゃないか! そうかわかったぞ、冴夜ちゃんはお兄ちゃんと遊びたいんだな!? ぐ、ぐわーーーッ! やられたーーーッ!」

「ふかっ、ふかひれ波ッスァーーーッ!!」


 茶番に付き合う烈人を完全に無視して、サメっちはふかひれ波を撃とうと構えを繰り返す。

 しかし何度やっても結果は同じであった。


 サメっちの耳に、ヒノスメラの必死な声が響く。


『濡れとるから力が出えへんのよ! サメっち、戦ったらあかん! はよ逃げえ!』

「はううっ! ヒノちゃん濡れてるだけでもダメなんッスか!?」


 きびすを返して遁走を図るサメっちの小さな身体が、ひょいと持ち上げられる。


「はわッス! 放すッスぅ!」

「はっはっは! ようし捕まえたぞう!」


 一瞬にして距離を詰めた烈人は、まるで子供をあやすように両脇に腕を通してサメっちを拘束した。


 濡れて怪人としての能力を存分に発揮できないサメっちの腕力は、そこらへんにいる11歳の少女となんら変わらない。

 どれほど抵抗したところで、ヒーロースーツを身にまとった烈人に敵うはずもないのだ。


「ほーら、高い高ーい!」

「ふぎゃーッス! ヒノちゃん助けてッスー!」

『サメっちぃ! サメっちを放さんかいこのアホぉ! なんでや! なんで肝心なときにうちはぁ……!』

「助けてぇッスゥーーーーーッ!」


 地下鉄のホームに、少女の叫びが響き渡る。


 まるでその声に応じるかのように、烈人が来た方向とは逆の闇の中から――。



 ――ビュオンッ!!



「あっはっは、楽しいかい冴夜ちゃぐはあああああああああッッッ!!!」


 風を切る轟音とともに、サメっちの身体が放り出される。


 闇の中から飛来した“鉄塊のような剣”は烈人の側頭部に直撃した。


 赤い身体が側転し続ける人形のように、ぐるんぐるんと回転しながらホームの端まですっ飛んでいく。


「はんっ、寄ってたかって女児誘拐か。ヒーロー本部もずいぶん“らしく”なってきたじゃあないか」


 剣が飛んできた暗闇から、地下道の空気よりも冷たく澱んだ声が染み渡る。


 非常灯の明かりに照らし出されたのは、緑と黒に彩られたいびつな曲線である。

 死神のエンブレムが施されたマントをたなびかせ、緑の影はぬらりとサメっちの、ヒノスメラの前に姿を現した。


「捜したぞぉ、サメっちぃ……」

「あ、アニキ……?」

『……あかん……ヒーローより厄介なのが来てしもた……』


 いつもの優しいアニキとは違う。

 一番舎弟のサメっちでさえ背筋が凍るほどの邪悪なオーラを身にまとい。



「さあ年貢の納め時だ。覚悟しろよ……煉獄怪人ヒノスメラ」



 極悪怪人デスグリーンは、完全武装でサメっちの前に立ちはだかった。




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