第136話 結婚前夜
時間の流れというのは随分と早いもので、ファルマスが唐突に結婚の日取りを決めてから今日まで、まるで矢のように過ぎていった。
大まかな婚姻の儀の流れについては勿論のこと、各国からの使者や重鎮、国内の有力貴族たちを集めた披露宴の流れについてもルクレツィアから教わった。何度も夢に見るほど躾けられたため、そのほとんどの流れは頭の中に入っている。
そして。
そんなファルマスとヘレナの婚姻の儀は、ついに明日に迫っている。
「それでは、お休みなさいませ。ヘレナ様」
「お休みなさいませ」
「ああ……」
ヘレナの寝る時間ということで、部屋を去るシャルロッテとエステルに生返事を返す。
もう日も落ちて長いし、ヘレナは寝る時間だ。シャルロッテが部屋の明かりであるランプの火を消して、そのまま退室する。
ヘレナはそのまま寝台で横になり、シーツを被る。
目を閉じ、そのまま――。
「……」
開く。
普段はそれほど長く、睡眠と格闘することのないヘレナだ。戦場では僅かでも眠る時間は貴重であるため、眠ることのできる時間に最低限の睡眠を取るのが当然のことである。そのため、早寝はヘレナの一つの特技でもあったのだが。
だが、今日は随分と寝付きが悪い。
明日の婚姻の儀に備えて緊張しているのか、それとも別の理由か。
「……」
今日は、最後の婚姻の儀にあたってのリハーサルだった。立ち位置、所作、表情、その全てをルクレツィアの指示に従って、淑やかな花嫁を演じたつもりである。元々演技は得意でないけれど、それでもこの一月の間みっちりと続けていれば覚えるものだ。
昨日は、合わせるドレスや装飾品の最終確認と着付けだった。これにはファルマスも同席し、ファルマスの衣装に合わせて細かい装飾品などを変えている間、人形にでもなったような感覚だった。ファルマスとルクレツィアが「こちらの方が良いですね」「そうね。先程のものよりもまとまっている感じだわ」などと喋っているのも、上の空で聞いていただけだった。
その前は、婚姻の儀に使われる大広間の確認と、装飾品の配置をルクレツィアが指示しているのを横で聞いているだけだった。その前は婚姻の儀にあたっての稽古――。
「……」
そりゃそうだ。眠くないなんて当然だ。疲れていないのだから。いや、精神的には十分疲れているのだけれど、肉体的に。
この一月。
ヘレナは、全く鍛錬を行うことができていないのだ――。
「いかん」
寝台から、起き上がる。
この一月、全く鍛錬をしていない。そりゃ、起き抜けに腹筋や腕立て伏せくらいはやっていたものの、中庭で行っている鍛錬には全く顔を出していないし、シャルロッテとの模擬戦も行っていない。加えて、今朝は早朝からずっとリハーサルの繰り返しだったため、朝の鍛錬すら行っていないのだ。
一日でも鍛錬を休めば、取り戻すのに三日かかる。
ならば今からでも、ヘレナは鍛錬をすべきなのだ。
「よし、行くか」
既にシャルロッテは去った後だし、部屋には鍵がかけられている。
だがこの鍵自体は、ヘレナにはいつでも開けることができるものだ。本来この時間の外出は推奨されていないのだが、ことここに及んでは仕方あるまい。
部屋の隅――そこで、この一月の間全く使われることのなかった、訓練用の大剣を手に取る。
ずしりと重く手にかかる負荷に、思わず笑みが浮かんだ。
ヘレナは心の底で、鍛錬に飢えていたのだと分かる。
「……」
大剣を抱えたままで、ヘレナは鍵を開けて部屋を出る。
昼間も涼しくなってきた季節だが、この時間になると肌寒い。だがどちらにせよ、これから鍛錬で汗を流すのだ。このくらいの気候の方が、丁度いいだろう。
肩に大剣を抱えて後宮の廊下を歩く姿は、巡回している銀狼騎士団の者から見れば不審者に思われるかもしれない。だが幸いと言うべきか、ヘレナが中庭に到着するまで誰ともすれ違うことはなかった。
「ふぅ……」
誰もいない、閑散とした暗い中庭。
そこでヘレナは大剣を振り上げ、そして振り下ろす。並の男では持てないほどの重量を持つ大剣に、腕がビキビキと引きちぎれるような感覚。ぶぉんっ、と風を切り裂く大剣の重量を、途中で止めることでより腕に負荷をかけることができるのだ。
上段からの振り下ろし、体重を乗せた薙ぎ、下段からの振り上げ、それを繰り返し繰り返し、ヘレナは己の腕を苛め抜く。
我知らず、笑みが浮かんでいた。やはりこの身は、後宮にある花ではない。やはり、この体には戦場こそが似合うのだ。
汗が一条、頬を垂れる。この一月ほど怠けていた体は、この涼しい気候でも汗を噴き出させるものであるらしい。
「は、ぁっ……!」
ぶぅんっ、と強く空気を裂いて、大剣が振り抜かれる。
そして少し休憩するか、とヘレナは大剣を下ろした。やはり、一月もろくに鍛錬をしていなかった体は、少しばかり鈍っているらしい。
体も大分温まってきたことだし、次は軽くランニングでも――そう、ヘレナは顔を上げて。
そこに。
「こんばんわ。良い夜ですわね、お姉様」
「ヘレナ様なら、絶対に来られると思いましたの」
「明日はついに結婚式なのですね! おめでとうございます!」
「皆の予想通りでしたねぇ……」
「わたくしも抜け出してきたわよ!」
マリエルが棒を。
シャルロッテが拳を。
フランソワが弓を。
クラリッサが全身鎧を。
アンジェリカが石を。
夜闇の中でヘレナに示すかのように、構えて。
「お前たち……?」
「お姉様、多くの言葉は必要ありませんわ。あたくしたちとお姉様との間で培われた絆は、語らずとも全てを教えてくれますの」
「マリーはよく分からないことを言いますの」
「わたしにもよく分かりません!」
「ええ。私にも正直……」
「分からないわね!」
「あたくしに味方はおりませんの!?」
マリエルの叫び声に、溜息を吐くシャルロッテ。
そして好戦的な目で、ヘレナを見据えて。
「まぁ、端的に申し上げますの」
「ふむ……?」
「最後の夜くらい、わたくしたちにお付き合いくださいな、ヘレナ様」
我知らず、口角が上がる。
ヘレナが感じるのは、心の底からの昂りだ。彼女らのその心意気を、ヘレナは師として全力で相対せねばなるまい。
ゆえに、ヘレナは告げた。
「いいだろう」
猛禽類のような笑みを、その唇に浮かべて。
「全員まとめて、かかってくるがいい!」
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