第115話 女官との夜
アレクシアは、言葉通り七日間で全ての引き継ぎを済ませた。
その七日間は、ヘレナから見ても筆舌に尽くしがたいほど、シャルロッテの教育に勤しんでいた。そして七日間、「申し訳ありませんが、軒先をお借りします」と告げられて入り口の扉横に寝台を持ってきて、朝から晩までもしくは夜中までシャルロッテに教育を施していた。
そして、七日目の夕刻。
「それではシャルロッテ、あなたをヘレナ様に仕える女官として認めます。今後は、ヘレナ様をよく支えるように」
「は……はい。ありがとうございました、アレクシア様」
「今後、私は宮廷に仕えることになります。ヘレナ様にお仕えするのは、あなたとエステルの二人だけです。それを理解した上で、ヘレナ様の名誉を損ねるような行動はしないように。分かりましたね」
「はい。心に命じます」
「よろしい。ではエステル、今後、シャルロッテの補佐をお願いします」
「承知いたしました」
アレクシアは、これから宮廷――皇族に仕えることになる。
勿論それは、ヘレナが皇后となるまでの僅かな期間だ。ファルマスが言うにはもうすぐとのことだが、まだ準備が整っていないらしい。ファルマスがヘレナを皇后として娶ると宣言する前に、恐らくヘレナの将軍就任の報告がなされるだろうと言われている。
そしてアレクシアは、事前に皇族直属の侍女となることで、新たに皇族としてやってくるヘレナを迎えるという形だ。
色々と迂遠に思えるけれど、それが宮廷のあり方であるならば仕方ない。
そもそも即断即決を美徳とするヘレナではあるものの、軍というのもそれほど迅速な行動をするというわけではない。
どこを攻めるというある程度の目処が立ったところで、そこから諜報部による現地調査や敵対勢力の情報収集が行われ、それから作戦参謀による作戦立案、参加騎士団の調整など行われ、参加する将軍たちによって組まれた作戦本部による兵站や武具の調達が行われる。そして、実際に戦争が行われるのはその後だ。そんな軍における、将軍に次ぐ地位にいたヘレナであるからこそ、事務方の面倒臭さはよく分かっている。
恐らく皇后を迎えるにあたって、すませておかねばならないことも多いのだろう。ファルマスには然程大きな拘りもないだろうけれど、そういうことにうるさい老臣も多いのだと聞く。
「それでは、ヘレナ様」
「ああ、アレクシア」
あくまでも一時的なものでしかないが、これがアレクシアとの別離となる。
後宮に不慣れなヘレナを、今までずっと支えてくれたアレクシアとの別れだ。なんとなく、ヘレナの胸にも寂寥感が過る。
今後は、アレクシアでなくシャルロッテが自分に仕える女官になるのだ。その事実も、激しい違和感を覚えてしまう。
「今まで、ありがとうございました」
「おいおい……それほど、大した時間を離れるわけじゃないぞ?」
「それは分かっていますが……慣れた職場から、新しい場所に移るわけですから。少しばかり、寂しいと感じてしまいます」
「陛下の準備が整い次第、私も皇后だ。そのときには、また私を支えてくれ」
「微力ながら、全力を尽くします」
「ああ」
ふぅ、と小さく嘆息。
ちなみに、アレクシアが皇族直属の侍女になるために七日後離れると聞いて、シャルロッテは「いよっしゃあああああああ!!」と叫んでいた。もっとも、叫んだ直後にアレクシアに睨まれて小さくなっていたが。
ちなみに現在も、部屋の隅でアレクシアの様子を伺いながら直立不動のシャルロッテである。
「明日からという形だが……今アレクシアは、私に仕える女官というわけではないのだな?」
「……そうですね。今は、皇族に仕える侍女という形です」
「ならば、私たちは今主人と侍従という形ではない。座ってくれ、アレクシア」
「……そう、ですね」
ふふっ、とアレクシアも僅かに笑みを浮かべる。
ヘレナが後宮に入って、アレクシアはずっと仕えてくれていた。そして皇后になるヘレナに、皇族直属の侍女としてアレクシアは仕えてくれる。
つまり今、ヘレナが皇族というわけでなく、アレクシアが皇族直属の侍女であるというこの時間だけ、アレクシアはヘレナの従者でないのだ。
「シャルロッテ、もう今日は外していい」
「……承知いたしましたの」
「それでは、御前を失礼いたします」
「ああ」
シャルロッテ、エステルがそれぞれ退席する。
もっとも、扉を閉めて出て行った直後に、「やっと自由ですのぉぉぉぉぉぉ!!」と叫ぶ声が聞こえてきた。シャルロッテ、せめてもう少し離れてから言わないものだろうか。
アレクシアにもその声が聞こえたのか、僅かに眉根を寄せている。
「やはり、まだ教育が足りませんでしたか」
「まぁ、少しの期間だ。構わんだろう」
「唯一、シャルロッテだけが心残りです。もっと時間があれば、一流の女官としてヘレナ様をお支えできるように教育を施したのですが」
「……一応、合格点には至ったのではないのか?」
「妥協に妥協を重ねた上での、ぎりぎりの合格点です。なんとか赤点を回避した程度でしかありません」
「おいおい……」
随分と、厳しいことだ。
もっとも、そのくらいの厳しさがなければ、シャルロッテはすぐに甘えそうである。
「ヘレナ様も、今後はシャルロッテを甘やかさないようにしてください」
「ああ……なるべく、気をつけるようにはするが」
「そう言いながら、ご自分のことをご自分でなさる未来が想像できますが」
「いや、まぁ……」
アレクシアが嬉々としてやっていた、ヘレナの着替えや湯浴み。
そのあたりは、シャルロッテには別にやらせなくてもいいかなぁ、とか思っていた。別に、着替えとかは自分でできるし。
「さて、それではヘレナ様」
「ああ」
「今この場にいるわたしは、ヘレナ様に仕える女官ではなく、ただのアレクシアだとお思いください」
「……」
そのように前置きをするということは、割とヘレナの耳に痛いことを言うということだ。
こんな枕詞と共に、もの凄い駄目出しを喰らったことを覚えている。あれはまだ、後宮に入って初日のことだったけれど。
聞きたくないなぁ、と思いながらも渋々頷いた。
「ああ……だが、一つ訂正させてくれ」
「訂正?」
「ただのアレクシアじゃない。私の友人のアレクシアだ」
「……」
そんなヘレナの言葉に、アレクシアが僅かに頬を染める。
そして、少し諦めたように小さく嘆息した。
「ヘレナ様はずるいですね」
「……ずるい?」
「そんな風に言われては、離れるのが寂しくなるではありませんか」
「私も寂しいからな……そうだ」
ヘレナは立ち上がり、そのまま部屋の隅にある棚へと向かう。
そういえば、ここにまだ残っていたはずだ。最近は、全く使っていないから。
「アレクシア、たまには付き合え」
どんっ、とそのテーブルに置くのは。
酒――レイルノート侯爵家御用達の高級酒でなく、ヘレナが軍にいた頃によく飲んでいた安酒だ。安いが度数はきつく、それなりに美味いために何本も持ってきていた。
そして、ヘレナの分とアレクシアの分、二つのグラスを用意する。
「……ヘレナ様」
「うん」
「わたしは、酔うと脱ぐ癖がありますがよろしいですか?」
「うむ。私は酔うと泣く癖がある」
「……それもそうですね」
自分で言って悲しくなるが、ヘレナも酒癖が悪いのだ。
そして、どちらにせよ最後の夜――ならば、少しばかり潰れてもいいだろう。
ヘレナのグラス、アレクシアのグラスそれぞれに琥珀色の酒を注いで。
「乾杯」
「はい」
ちん、と二人のグラスが合うと共に。
アレクシアとの最後の夜を楽しもうと、ヘレナは一気に呷った。
ちなみに、翌日の朝。
出仕してきたシャルロッテは、上半身裸で「ヘレナ様ぁぁぁ……」と棚にすがりつくアレクシアと、「私が悪いんだぁぁぁ……」とテーブルに突っ伏して泣くヘレナを見て。
そっと扉を閉めて、何も見なかったことにした。
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