第10話 地獄へのカウントダウン
「お帰りなさいませ、ヘレナ様」
「あ、うん……」
ようやく後宮に戻ってきたヘレナは、アレクシアがそう迎えてくれると共に大きく嘆息した。
午前はファルマスに施す鍛錬を主としていたために、身体的な疲労はそれほどない。だが、ファルマスとアントンの二人の前でアレクサンデルを踏むという謎のプレイは、ヘレナの鋼の精神力すらゴリゴリ削る代物だったのだ。
これほどまでに疲れたのは、一周忌の夜会に出席したとき以来ではなかろうか。
「陛下はいかがでしたか?」
「ああ、目は覚ました。陛下より手加減するなと言われていたし、私も手加減をしなかったのだが……」
「わたしから見れば完全に拷問でしたね」
「……」
アレクシアの言葉に、唇を尖らせる。
決して拷問などではなく、あくまで体力のまだ完成していない者に対して施す初期の鍛練である。そもそも、これから
現在はウルリカ、タニア、ケイティと同程度の体力しか持っていないだろう。そして、一日中鍛錬を行うことのできる三人と違い、ファルマスは午前のみでありかつ午後には仕事をしなければならないのだ。そのあたりの配分も考えて、少しばかり厳しめの鍛錬を行わせたのとが逆に不味かったらしい。
別に、そんな厳しくしたつもりはないのだけれど。
延々と走らせたり、走らせながらダッシュを繰り返させたり、ふらふらになっていれば後ろからハリセンで叩いたり、そのくらいしかしていない。
「しかし、ヘレナ様は本当に自由ですね」
「む?」
「いえ……当然のように陛下を背負って、衛兵に普通に挨拶をするだけで外に出ることのできる者など、他におりません」
「まぁ、そうだな……」
アレクシアの淹れてくれたお茶を啜りながら、頷く。
今回はファルマスが倒れたから、やむなく外出をしてファルマスを送っていったのだ。だが本来、後宮にいる側室は誰一人出ることができないという事実は知っている。基本的には外出しないし。
そして、後宮にいる者は基本的に他の男には会ってはならない。身内の面会ですら同性のみと決められているくらいだから、他所の男に会うことはそれだけで不義になるのだ。今回、アントンはまだしもアレクサンデルと会ってしまい、そしてあのようなプレイを強要されたことは、頭の固い皇帝であれば不義ととられるかもしれない案件である。
ファルマスの心が広くて良かった。
「まぁ、後宮もこれから改善されてゆくみたいですけどね」
「そうなのか?」
「はい。昨夜、女官長に全員が呼び出されて、お話があったのです」
「ほう」
女官長――最近はあまり会っていないイザベルである。
基本的にヘレナの世話を行うのはアレクシアであり、イザベルと会うのは稀にルクレツィアがやってきたときだとか、そういう場合だけだ。アンジェリカが後宮に勝手に入ってきて勝手に鍛錬をして帰るのは、もう放置することに決めたようで同席していないのである。
そして、女官の事情についてもアレクシアが話すことはあまりないため、イザベルの存在を思い出したことすら久しぶりな気がする。
「三ヶ月後だそうです」
「何がだ?」
「ファルマス皇帝陛下の結婚が発表されるのだとか」
「ぶっ!?」
思わず、お茶を噴き出しそうになるのを堪える。
ファルマスの結婚――どう考えても、その相手はヘレナである。本人にも言われたし、その本人から改めてアレクサンデルに話があったし。
まさか、その発表の日取りまで決まっているとは思わなかった。
というか、そういうのはヘレナに最初に教えてくれるものではないのだろうか。
「それにあたりまして、後宮のあり方も変えてゆくのだそうです。基本的には後宮を解体するおつもりだそうですが、それでも現状、正室となる相手が決まっている以上は後宮の意味がありませんので」
「あ、ああ……?」
「ファルマス陛下は、側室を娶るつもりがないようですからね。そんな状態で、後宮にいる側室の不義も何もないとお考えです。ただ後宮にいるというだけで、その全てに制限をかけるのは偲びないとの考えを示されておりました」
「……」
よくわからない。
つまり何だ。後宮がなくなるかもしれないということは分かった。
だが、それ以上のことは何も分からない。結局、ヘレナにできることは曖昧に頷くのみである。
「ですので、現状の『血縁の同性であるならば面会は可能』という法を変えるおつもりです。分かりやすく申し上げますと、フランソワ様へわたしの兄であるバルトロメイが面会を申し出ても大丈夫になると思っていただければ」
「そうなのか!?」
「これは極端な例ですけどね」
アレクシアの言葉に、驚きを隠せない。
今まで、身内の女性でなければ会えなかったのだ。それを、血の繋がりもない異性と会うことが可能になるとなれば、それこそ会いたい者など大勢いるだろう。
そんな風に後宮が変わってくれるのならば、ヘレナとしても歓迎だ。
「しかし、三ヶ月後か……」
「はい。陛下は、三ヶ月後には国中に、ヘレナ様を正妃として娶ることを大々的に発表するおつもりです」
「あまり、時間がないな……」
「準備は全て、陛下が整えてくれるでしょう。ヘレナ様は待てばよろしいかと……」
「いや、そういうことじゃない」
ヘレナの言葉に、アレクシアが首を傾げる。
三ヶ月。
それは――ヘレナの計画上、あまりにも短すぎる。少なくとも、もう半年は余裕があると思っていたのだから。
「二期生は……ギリギリ、可能か。カトレアとエカテリーナの二人だけならばなんとか……」
「……あの、ヘレナ様?」
「まずは、時間もないし一期生から行うとしよう。その間、陛下への指導はエカテリーナから行わせる形に手配する。陛下には申し訳ないが、どうしても外せん」
「ヘレナ様、な、何を仰っているので……?」
うむ、とヘレナは立ち上がる。
ヘレナの指導を受け、一人前の戦士となった五人の令嬢たち。
彼女らに施す、最後の試練があるのだ。
「まずは、陛下に伺いを立てなければな……ああ、陛下の許諾を得ることができれば、私は三日ほど後宮からいなくなる。その間は、まぁ三期生の指導でも見ていてくれ」
「……ヘレナ様、わたし嫌な予感しかしないのですが」
「そんな大したことをするつもりはないさ」
ははっ、とヘレナは笑う。
フランソワ、クラリッサ、マリエル、シャルロッテ、アンジェリカ。
この五人ならば――きっと、この試練にも耐えることができる。
「ただ、山登りをさせるだけだからな」
そんなヘレナの不敵な笑みに。
アレクシアは、ただ苦笑いを浮かべることしかできなかった。
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