第206話 後宮の戦-武姫集結-
「へ、陛下!? 一体……!」
「よい、道を開けよ!」
「は、はぁ……」
後宮の入り口で、出入りを制限している衛兵二人を押しのけて、ファルマスは後宮の中へと入る。
とにかく今は、身を隠すことが第一だ。そして、後宮という名前であるそこは、その名に恥じぬ程度には広い。少なくとも、百人を越える側室がそこで暮らせる程度には、だ。使われていない部屋も多くあるし、自分の痕跡を探られないように気をつけて隠れれば、数日くらいは凌ぐことができるだろう。
だが。
必死に、そう後宮の廊下を走りながら、自己嫌悪に震えそうになる。
ファルマスが後宮へ向かったことは、ディートリヒによって兵に伝えられるだろう。そうなれば、血気盛んな兵がこれから、後宮に雪崩れ込むのは間違いない。
そうなれば被害を受けるのは誰か――それは、何も知らない側室たちである。
ファルマスの都合のためだけに、この後宮に集められた美姫たち――彼女らが、ファルマスが生きながらえるためだけに犠牲になるのだ。
耐え難い現実に、唇を噛む。
だが、ファルマスにできることは、自分が生き残ることだけなのだ。皇帝である自分が死ねば、それだけで国は混乱する。そして、このように我欲によって国を簒奪しようとするような輩に、民を慮る政治などできない。
何よりも優先すべきは、民の幸せ。
そのために、ファルマスは絶対に生き延びねば――。
「……」
ファルマスの足が止まる。
本当に、それで正しいのだろうか。数多の屍の上に築かれたその玉座に、何の憚りもなく座ることができるのだろうか。
いや、むしろ。
このように隙を突かれ、命の危機にすら陥っているこの状況は、あってはならないものではないか。
それほど臣下に慕われない皇帝など、存在しているだけで害悪ではないのか。
思考は逡巡し、止まった足は次の一歩を踏み出さない。
ディートリヒがどう指示をするかは分からないが、ここでじっと立ち竦んでいたとしても、何も状況は変わらないだろう。
ならば、いっそのこと抵抗することなく捕まり、その上で策を――。
「な、何者だっ、貴様らっ!」
「愚帝はここにいるのだろうっ! 通せっ!」
「こ、ここは後宮だ! 男の出入りは……!」
「そんなもの知るか! 殺せっ!」
「ぐあっ!」
まずい。
衛兵が、あっさりと処断されるのが分かる。
一体何を考えていたのだ、と後悔する。
決めたではないか、血塗られた道をゆく、と。
奸臣の粛清のためだけに愚帝を演じ、全ての準備が整った瞬間に、宮廷を血に染める、と。
大願を抱きながら、このようなところで、死ぬわけにはいかない――。
何より。
「ヘレナ……!」
彼女が帰ってきたときに、迎えるべき皇帝は、己でなくてはならないのだから。
だっ、と後宮の奥へ向けて駆け出す。
ファルマスが母ルクレツィアから聞いた、宮殿から逃げ出すための抜け道は、先程のもの一つだけだ。後宮のどれほど奥へ向かっても、外に出る道はない。
だが、それはあくまで正攻法ならば、だ。
確か、ヘレナの部屋にある。戦場へ持っていっていない限り、必ずある。
それを用いて――。
「いたぞっ! ファルマスだっ!」
「追えっ! 殺せぇっ!」
追っ手は、既にファルマスの背中を捉えている。
ならば、生き汚くもファルマスが生き延びるための方法は、一つしかない。
必死に走り、向かう先はヘレナの部屋。そこには、必ず存在するはずなのだ。
ファルマスがヘレナに与えた、身の丈ほどの大剣が。
女官五人がかりで運べる、相当な重さの武器だ。だが、それ以外にファルマスに、武器の当てはない。
とにかく、戦う――それが、ファルマスの生き延びるための方法。
「……おやー?」
「くっ!」
身を翻して、渡り廊下から飛び降りて中庭へと降り立つ。
平時は、側室とその家族を呼んで茶会が開かれるほどに、ある程度の大きさがある庭だ。この庭の先に、三天姫の部屋――つまり、ヘレナの部屋があるのだ。
そして同時に、他の二人の部屋もある。
それが理由なのかは、全く分からないのだが。
そこに、見たことのある少女が、いた。
「……へ、陛下!?」
「へ? 陛下なのですかー?」
「そなた、は……」
ファルマスが最初に会った、側室は。
寵姫ヘレナ以外に唯一、ファルマスの渡ったことのある少女。
それも特に寵愛だとかそういう理由ではなく、当時にヘレナとの関係が若干悪くなっていた部分があったのだ。そこで、ヘレナと最も親しい、というこの娘のところへ、一夜だけ訪れたことがある。
確か、その名前を――フランソワ・レーヴン。
「に、逃げよ! 余を追って、ならず者が向かって来ておる!」
「えっ!?」
「はいー?」
「なんとっ!」
フランソワと、もう一人いる少女。随分と間延びした声で、全く焦燥感がない。
せめて側室は、全員部屋の中に隠れて――そう、ファルマスが次第に近付いてくる、背後に目をやって。
その瞬間に。
「はぁっ!」
「え……?」
「うぎゃああああああああ!!!!」
先頭で走っていた男が、顔を押さえて倒れるのが分かった。
続いて、ひゅんっ、ひゅんっ、と風を切る音が、ファルマスの脇を抜けてゆく。
それが一つ、二つ、と続いてゆくたびに、ならず者たちが一人ずつ倒れてゆく――これは、一体、何だというのか。
「わー、さすがですー、師匠ー」
「勿論です! わたしはバルトロメイ様に相応しい妻になるのですから!」
「な、何なんだぁっ!?」
男たちも、目の前で何が起こっているのか理解できない、といった様子だ。
それも当然だろう。ここは後宮であり、後宮にいるのは貴族の令嬢ばかりである。戦いなど何一つ知らない、淑女ばかりである。
だというのに。
この少女が構えているのは弓であり、放たれたのは矢。
それが、百発百中で。
走ってきた男たちの眼球を、間違いなく貫いているのだから。
「わけがわかりませんの」
「何ですか、こいつらは。男の身で後宮に……!」
そして、まるで最初からそこに集まっていたかのように。
「ど、どういうことですかこれ!?」
「い、いや、私にも分かりませんけどっ!」
次々と、そう高い声と共に。
「兄様!? え!? 何あいつら!」
「やぁん……武器、持ってらっしゃいますわぁ……」
そこに、それぞれの手に武器を持った側室たちが、集まってくる。
その中の一人が、アンジェリカ――こんな朝早くから、後宮で何をしているのだ。
だが、それを糾弾しているような暇はない。
「あ、アンジェリカ……? こ、これは一体……」
「兄様、話は後よ! まずはわたくしたちの後ろに!」
「は? あ、ああ……」
逆らうことができずに、ファルマスはアンジェリカに引かれて後ろへと下がる。いつの間に、これほどの力がついたのだろう。
そんなファルマスの視界に映るのは、八人の女性の背中。
一人は弓。
一人は剣。
一人は拳。
一人は脚。
一人は全身鎧(フルプレート)。
一人は双剣。
一人は銀食器(シルバー)。
一人は……何かよく分からない。
そんな彼女らが、不敵に笑いながら、後宮へと侵入してきた男たちと対峙する。
「さぁ、皆さん! どうしますか!」
「どうしましょー」
「決まっていますの。後宮への男の侵入は、死罪ですの」
「下賎な男が……!」
「それでは、私もリクハルド様と共に本気を出します!」
「わ、私も頑張ります!」
「兄様に格好いいところを見せるんだから!」
「はぁん……あれで斬られると思うと……あれで突かれると思うと……ひぅん」
「……」
分からない。
本当に何も分からない。
だが。
ファルマスの目の前にいる、彼女らは、側室として迎え入れた貴族令嬢ではなく。
まるで、その身を戦場に置く、武姫だった。
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