第204話 帝都、急転
「おはようございます、陛下」
「……もう、そのような時間か」
ふぁ、とあくびを噛み殺しながら、当代皇帝ファルマス・ディール=ルクレツィア・ガングレイヴは立ち上がる。
外は既に明るくなっており、時間がそれほど経たことにすら気付かなかったらしい。ファルマス専属の侍女が、そのように呼びにくる時間だということにようやく気付く。
昨夜から、延々調整をし続けているのだ。
報告によれば、国境の状態は決して思わしくない。
ガルランド王国の裏切りから始まり、銀狼騎士団と黒烏騎士団の壊滅、加えてその両端――ダリア公国とエスティ王国の前線も、芳しくないという報告が相次いでいるのだ。
どうして国力の低いはずの三国連合との国境が、それほど荒れているのだ――そう、疑問に思わずにいられない。
「陛下……お食事は、どうなされますか?」
「こちらに運んでくれ。動けぬ」
「承知いたしました」
侍女が頭を下げ、それからファルマスの執務室を辞してゆく。恐らく、そのまま厨房に行って朝餉を取ってくるのだろう。
眠っていない体は食事を欲しがっていない。だが、少しでも食べておかねばならないだろう。
と、そこでふと眉を上げる。
何故、侍女が朝餉を運んでくるまで、それに気付かなかったのか――その理由は、一つ。
「……グレーディアはまだか?」
普段ならば、既にファルマスのもとに訪れているであろう、老齢の将軍を思い出しながらそう呟く。
勿論グレーディアにも休みは与えているが、この一月ほどは厳戒態勢が続いているため、休みを返上させている。そしてファルマスに常に付き従いながら、軍部関係の相談に乗る形でここにいるのが当然なのだ。
だというのに、まだ来ていない。
寝坊でもしているのだろうか――だが、元『赤虎将』として騎士団を率いていたグレーディアは、常に朝早くに目を覚まして鍛錬をしてから出仕する、と以前に言っていたのだけれど。
「お待たせしました、陛下」
「ああ……グレーディアは、まだ来ておらぬのか?」
「ロムルス将軍は……まだお見えになられていませんが」
「そうか。ならばよい」
「はい。失礼いたします」
不思議に思いながら、続けて書類を見る。
動かすことができるとすれば、アルメダ皇国との国境。しかし、戦力としては三国連合を合わせたものよりも強大なアルメダを前に、このように保っているのはヴィクトル・クリーク、バルトロメイ・ベルガルザードという特筆する二人の将軍の活躍があってのものだ。そこから、下手に動かして均衡を壊すわけにもいかない。
結局できることは、皇帝の名で民兵を募集するなりして、僅かな調練を施してから向かわせることくらいだろう。
問題は調練を行うことのできる人材も、そんな民兵を率いることのできる人材もいない、という残念な現状なのだが。
「ふぅ……少し、休むか」
あまり考えすぎても仕方ない。
ファルマスはそう思いながら冷めた朝餉を食べ、冷めた茶で流し込んでから立ち上がる。
本来ならば、懲罰を与えてもいいほどの遅刻だ。グレーディアは一体何をしているというのか。
ファルマスに対しての護衛、ならびに戦闘教官という立場にあるグレーディアは、宮廷の一室に住んでいる。考えもまとまらず、ただ逡巡し続ける頭を休ませるためにも、自ら起こしに行こう、と思ったのだ。
「折角だ、起こしに行ってやろう。まったく、あやつは……」
一人きりで宮廷の中を歩きながら、通りすがる侍女に笑みを返しながら、ファルマスはグレーディアに与えられた部屋へ向かう。
階段を降り、代わり映えのしない扉の並んだそこの、グレーディアの名札の書かれた扉、その前で。
ごんごん、とその扉を叩いた。
「おい、グレーディア!」
だが、部屋の中からは返事がない。
ただの寝坊ならば、反応はあるだろう。だというのに、全く反応がないのだ。
もしや何か体調でも悪くしたのだろうか、と僅かに不安になる。もうそろそろ、グレーディアもいい年だ。そういった体の不調は、何が原因で起こるか分からないのだから。
不思議に思いながら扉を引くと、鍵が開いていた。
中にいるにしても外出しているにしても、鍵が開いている、というのは明らかにおかしい。
「グレーディア、いるのか……?」
扉を開き、その瞬間に。
ファルマスは、目を見開いた――。
「グレーディア!」
その部屋の中央で、転がっているグレーディア。
ぴくりとも動かずに、ただ部屋の中央に転がっている。一体何があった――そう思いながら、転がっているグレーディアに近付く。
グレーディアはぷるぷると、その体を震わせながら。
「へ、いか……」
「どうした 一体何があった! グレーディア!」
「お、おおお、お逃げ、く、だ、さい……」
「どういうことだ!?」
グレーディアが指差すのは、その部屋のテーブル――その上で転がっている、カップだ。
さすがに皇帝であるファルマスが口に入れるものは、全て毒味が介されなければならない。だが、あくまでその護衛であるグレーディアについては、話が別だ。
カップから落ちているのは、恐らく水。
そして、その近くに置いてある水差しから入れたものであろう、ということも予想がつく。
つまり。
グレーディアは、何らかの要因で、この水差しに入れられた毒を飲んだ、ということ――。
「くっ……まさか……!」
「ど、ど、どう、か、お、お逃げ……」
「分かった! グレーディア! お前も死ぬでないぞ!」
ファルマスは、自分の命がどれほど重いかは知っている。
この命を守るために、誰であれ犠牲にしなければならない、ということも分かっている。
すぐに、安全な場所へ逃げなければ――そう、グレーディアの言葉に従い、部屋を出て。
そして。
「……」
ふと、思った。
どこにいれば、ファルマスは安全なのだろう、と。
宮廷は魔窟であり、ファルマスの命は常に狙われている。どこに行けば、ファルマスの安全は確保されるというのか。
くそっ、と苦虫を噛み潰したかのように、眉を寄せる。
ならばせめて、この身の安全だけでも確保する――そして、そのために行くべき場所は、一つ。
そこで、ざわざわと激しい喧騒が、階下から聞こえた。
まさか――そう、目を見開く。
そして耳を澄まし、何があったのか、ということをしっかり――。
「ファルマスを出せぇ!」
「愚かな皇帝に天罰を!」
「ひぃっ!」
「ぐあっ!」
「くっ……!」
大勢の、鎧が軋む音。そして悲鳴と怒号。
どう考えてもこの状況は、反乱と呼ぶ以外にない。
ティファニーとヘレナが不在の時を狙い、グレーディアを無力化して、ファルマスを守る者全てを排除してから行われたもの――。
もしもグレーディアを起こしに行く、という気紛れを起こしていなければ、今頃執務室になだれ込んでいたかもしれない。そう考えると、背筋にぞっと走るものがあった。
ファルマスは走る。
ひとまずは、自分の味方を得ることだ。そして喧騒の反対側へと走り、少しでも距離を取る。
ファルマスにできることは、生き汚くとも逃げることだけだ。
そして、ファルマスはその場所を知っている。
代々の皇帝とその側近にしか教えられない、秘密の抜け道だ。その抜け道を通れば、帝都から僅かに離れた山の中に出る。
今は生き延びて、そしてその上で報復を行えば――。
そんなファルマスの走った先、そんな、宮廷の奥。
抜け道に続く、扉の前。
そこに。
「これはこれは、おはようございます。陛下」
「……ディートリヒ」
飄々と佇んでいたのは、ディートリヒ・ハイネス公爵。
何故、この男がここに。
皇帝とその側近しか知らないはずの、抜け道へ続く扉の、まさにその前に――!
「宮廷で、何やら騒ぎが起きている。貴様、何か知っているか」
「おやおや、それはそれは……」
「もしや、貴様……!」
ディートリヒが顎髭をさすりながら、にやり、と笑む。
騒ぎという言葉にも何も反応しておらず、むしろ嬉しそうにファルマスを見る、その目は。
「いえいえ、何を仰いますか陛下。我輩が何を?」
「……答えろ! 貴様の差し金か!」
「くくく……」
そんなディートリヒの背後から現れたのは。
剣を構えた、五人の軽装の兵士。
最初から、ディートリヒは分かっていたのだ。ここに、ファルマスが逃げる抜け道がある、と。
その上で、ここで待ち伏せた、ということだろう。
「くっ……!」
秘密の抜け道は、使えない。存在を知られている以上、それは虎口に飛び込むようなものだ。
ならば、どこに行けばいい。
どこに向かえば安全なのだ。
せめて、この反乱に加担していない兵が、いる場所。
ファルマスは。
気がつけばその行き先を、後宮へ向けていた――。
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