第191話 武姫、出陣

 翌朝。

 ヘレナは早起きをして、いつも通りに鍛錬を行った。そして、朝一番からの出陣であるためにファルマスを起こし、先に後宮から出るよう促した。

 これから行うべきは、戦地への出陣である。気合を入れて、まずヘレナは隣――マリエルの部屋を訪れた。


「おはよう、マリエル」


「おはようございます、お姉様」


 寝ていれば置いていくつもりだったのだが、残念ながらヘレナの新兵訓練(ブートキャンプ)を乗り越えたマリエルは、惰眠を貪るような真似はしないらしい。既にヘレナが来る前に簡単な訓練を終わらせていたのか、少しだけ上気しているのが分かる。

 最早、ここに至っては仕方あるまい、とヘレナは肩をすくめた。

 マリエルはどうやら、完全に覚悟を決めているようなのだから。


「では、行くぞ。マリエル」


「はい、お姉様」


「ここから先、向かうのは地獄だ。覚悟をしておけ」


「地獄であれ奈落であれ、お姉様のいる場所こそ私のいるべき場所です」


「いい返事だ」


 くくっ、とヘレナの思っている以上に、覚悟を決めたマリエルの言葉に笑う。

 既にヘレナは、マリエルを一人前の戦士として認めたのだ。そして、マリエルにとってそれが己の矜恃でもあるのだろう。野暮なことは言うまい。

 ファルマスからはなるべく生きて戻らせるようにしてくれ、と言われたが。

 一人前の戦士として認めた以上、そのように特別な待遇をすることは、マリエルの矜恃を汚すことにもなるのだから。


 マリエルと並んで歩き、後宮の廊下を抜ける。

 そして、そのまま後宮の入り口へ、向かおうとして。


「……」


 そこに。

 シャルロッテ、フランソワ、クラリッサが。

 手ずから鍛えた面々が、じっとその入り口にいた。


「……お前たち」


「わたくしたちも連れてゆけ、などとは申しませんの。マリーから話は聞きましたの」


「どうか! ご武運を祈ります!」


「お気をつけて……どうか、生きてお戻りください、ヘレナ様」


 シャルロッテ、フランソワ、クラリッサがそう述べる。

 良い弟子を持ったものだ、と苦笑する。ヘレナは、この三人には出征することなど一言も告げなかったのだ。

 マリエルと同じく、自分も連れていけ、と言い出すと思って、あえて言わなかったのに。


「マリー」


「ええ」


「分かっていますのね」


「ええ、分かっていますわ」


「ならば良いですの。一応、あなたの武運も祈ってあげますの」


 ふん、とマリエルとそう話しながら、肩をすくめるシャルロッテ。

 一体何を分かっているのかは謎だが、二人の間ではちゃんと伝わっているようだ。

 そして、そんなシャルロッテの横から、ヘレナに抱きついてくるのはフランソワだ。


「ヘレナ様……!」


「フランソワ、ありがとう」


「どうか! どうか! 生きてお戻りください! フランは、まだヘレナ様に! 教わりたいことがたくさんあります!」


「ああ。そう簡単に死にはしない」


 必死に涙を堪えているのだろう、微かに震えるフランソワの頭を撫でる。

 思えば、最初に鍛えてほしい、と言い出したのはフランソワだ。一番弟子、と呼んでもいいかもしれない。

 だというのに、連れてゆくのがマリエルだけだ、ということに少なからず不満は感じているだろうに、そんなことは一言も出さない。

 ただ、ヘレナの身を案じてくれるだけだ。


「ヘレナ様……」


「クラリッサ、まだ途中だというのに、すまないな。私が不在の間も、きっちり己を鍛えておけ」


「はい。ヘレナ様も、どうかご無事で……」


「私が、そう簡単に死ぬと思うな。死神が現れたところで、返り討ちにしてやるだけのことだ」


「ふふっ……」


 そう軽口を叩き、クラリッサが僅かに笑った。

 もっとも、本当に笑っているのかどうかは分からない。現在も、クラリッサは全身鎧(フルプレート)に身を包んでいるのだから。

 四六時中決して外してはいけない、というヘレナの言葉をちゃんと守っているのだ。


「ヘレナ様」


「ああ」


「ご武運を祈りますの」


「任せろ」


 シャルロッテからは、そんな短い激励の言葉だけで。

 震えながら必死にしがみつくフランソワを外して、そのままヘレナは後宮の外――宮廷の入り口へ立ち。

 そこには。

 アンジェリカとアレクシアが、並んで立っていた。


「ヘレナ様! 来たわよ!」


「うむ。朝から元気だな、アンジェリカ」


「ええ! ヘレナ様がこれから戦場で暴れるとあっては、寝坊なんてできないわ!」


「任せるがいい。アンジェリカもきっちり己を鍛えておけ」


「ええ!」


 全幅の信頼を置いたアンジェリカと、そう言葉を交わし。

 最後。

 後宮に入って今まで、ずっと自分の側にいてくれたアレクシア。

 誰よりもこの後宮で信頼していた彼女と、しっかりと向き合う。


「アレクシア」


「ご武運をお祈りします、ヘレナ様」


「ああ。私がいつ戻ってもいいように、寝台を整えておけ」


「はい」


 そう、しっかりと返事をし。

 アレクシアは、澄んだ眼差しで、ヘレナをじっと見据えて。


「ヘレナ様」


「どうした」


「お戻りになられた暁には、わたしも少々鍛えていただきたく存じます」


「そうか。では、どのような訓練を行うか考えておこう」


「はい。よろしくお願いします」


 くくっ、と短いアレクシアの言葉に、そう笑う。

 ただでさえ教えている者が多いというのに、さらにアレクシアまで鍛えなければならなくなった。

 だが、それが心地よく、嬉しい。

 ヘレナの最も信頼する女官――アレクシアが。


 ヘレナが死ぬなど、微塵も考えていないのだから。


「では、行ってくる。留守は任せた」


「ええ! 任せて!」


「行ってらっしゃいませ、ヘレナ様」


 アンジェリカは元気に。

 アレクシアは、まるで少々散歩に行くのを見送る程度の気安さで。

 戦地へ向かうヘレナを、そう見送った。


 宮廷を抜け、そのままマリエルと並び、朝一番であるがゆえに人通りの少ない道を歩く。

 向かう先は、帝都の西門。

 既に昨日のうちに通達されているし、傭兵も手配されているはずだ。

 次第に、喧騒が聞こえる――大勢の人間がそこに集まっているのだ、と分かる気配。


「諸君、おはよう」


「おはようございます!」


 目で見るだけで、凡そ五千人。

 装備の揃った、三千の禁軍は左側に。様々な装備に身を包んだ、二千の傭兵は右側に。

 マリエルは、うまく手配をしてくれたらしい。欲しいと思っていた五千の戦力が、そこに揃っている。

 そして、そんな五千の兵の前に立つのは、ファルマスとグレーディア。


「では、ファルマス様。行ってまいります」


「ああ……武運を祈る、ヘレナ」


「ありがとうございます。では……」


 ヘレナはファルマスの用意してくれた、いつかの遠乗りで共に向かった相棒――馬のファルコに、一飛びで跨る。

 その手綱を引き、そして五千の兵に向けて。

 思い切り、叫んだ。


「出陣っ!」


「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」


 武姫は、これより。

 己の真に存在すべき場所――戦場へ、向かう。

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