第172話 皇帝陛下のプロポーズ

「来たぞ、ヘレナ」


「お疲れ様です、ファルマス様」


 夜になり、ファルマスがようやくやって来た。

 アレクシアが考えた以上のブラコンであった、という知りたくなかった真実を知ってしまい、どうしようかと思っていた矢先である。ある意味、どうアレクシアをこれから受け止めればいいかと考える時間ができた、と喜ぶべきか。

 いつも通りにグレーディアを伴い、部屋の中へと入ってきて、それから軽く周囲を見回した。

 当然、アレクシアはファルマスの訪れと共に部屋を辞しているため、そこにいるのはヘレナ一人である。


「……誰も、おらぬな?」


「はい。私しかおりませんが」


「……そうか、ならば良い。グレーディア、先に戻っておれ」


「は。承知いたしました」


 グレーディアが頭を下げ、そして部屋から出てゆく。

 当然、そこに残るのはヘレナとファルマスだけだ。いつも通りといえばいつも通りであるため、それほどの動揺はない。

 昨日の朝には、随分と消沈した様子だったから心配していたけれど、どうにか戻ってくれたようだ。

 ファルマスはいつも通りに、ヘレナと対面するソファへと座る。


「何か飲まれますか?」


「いや……良い。まずは、そなたも座ってくれ」


「へ?」


 いつもならば、まず茶を飲むファルマスが、そのように言ってくるとは珍しい。

 喉が渇いていないのだろうか、と思いつつ、ヘレナは言われた通りにファルマスの前に座る。

 その表情は――真剣そのもの。

 何かあったのだろうか。


「礼を、言わせてほしい」


「はぁ……?」


「そなたの迅速な行動があったゆえに、『極天姫』――ひいては、ハイネス公爵家への切り札を得ることができた。周辺諸国との戦いが落ち着けば、そのままハイネス家を没落させるのに十分なだけの証拠が揃ってくれた」


「……」


「今はまだ、ハイネス家を敵に回すわけにはゆかぬ、とまるで慎重に行動していたかのような言い回しだったが、結果的には余の怯懦、惰弱に過ぎぬ。そなたの行動なくば、ハイネス家の思うままに余は行動をしていたやもしれぬ……本当に、ありがとう、ヘレナ」


「……」


 多分、ヘレナがクリスティーヌの部屋に殴り込みをかけたことを指している。多分そうだと思う。

 だが、残念ながらファルマスの言いたいことはよく分からない。

 だからこそ、ヘレナにできることは曖昧に微笑むだけだ。


「本当に……そなたには、驚かされてばかりだ。ハイネス家に雇われていた男を、その場で処分したそうだな」


「はい。ファルマス様より、後宮は任す、とそう命じられたことを覚えております。私はファルマス様より後宮における全権を得たもの、と解釈し、その上で男が入り込んでいる、という事実は極刑に値します。そのため、あの場で処分を致しました」


「首を、確認した。どこかで見たことがある、とは思っていたが……まさか余自身だったとはな。恐らく、クリスティーヌは余とよく似たあの男とまぐわい、そして子を成してから余の和子である、と言い張るつもりだったのだろうな」


「許し難い所業です」


「だが、その企みが、そなたにより封じられた。そなたがいなければ、余の血を引かぬ和子を、次代の皇帝として戴かねばならぬところであった。これも全て、そなたのおかげだ」


「そのように仰っていただき、光栄に存じます」


 ヘレナにしてみれば、軍人として当然のことをしただけだ。

 最上に戴かねばならない皇帝を愚弄し、騙し、そしてただ似ているだけの男との子を皇帝の和子としようとした、その所業は許せないものだ。だからこそ、直情的に行動した。

 そして偽宦官――ロビンについても、それは同じだ。

 ヘレナは後宮を任せる、とファルマスに言われた。つまりそれは、後宮の法の下で処罰する権限が与えられる、ということと等しい。

 そして軍には当然ながら軍法があり、違反した者は軍法会議にかけられ、相応の処罰が与えられる。

 つまり、ヘレナは後宮法の下、後宮法会議(ヘレナ一人)にかけ、処罰を与える権限があるのだ。結果、後宮の法を考えれば『男の侵入は極刑』であるため、あの場で断罪したとしても何の問題もないのである。

 もっとも、そこまで考えていたわけではないが。

 極論を言うならば、「とりあえず殺してから後のことは考えよう」となったあたり、いつものヘレナである。

 それでうまく回っており、そしてファルマスの信任も得ているのだから世の中分からないものだ。


「ヘレナよ」


「はい?」


「そなたに一つ、頼みがある」


「はい。私は帝国の臣であり、ファルマス様の側室にございます。何なりとご命令をいただければ、と」


 なんだか似たような流れが、以前もあった気がする。

 多分気のせいではなく、間違いなくあった。

 それは確か、前帝ディールを弔うための一周忌の式典――そこに、正妃として参加するように、と。

 もしも似たような話であればどうしよう、と心の中だけで焦りながら、心の中だけで脂汗を流しつつ表情は平静を装い、ファルマスを見る。

 そして、そのように言い出したファルマスからも、どことなく言いにくい、という空気が見えた。


 あ……厄介ごとだ、これ。

 そう判断して、項垂れたい気持ちになったけれど、抑える。

 だがまず、ファルマスは立ち上がり。

 そして、ヘレナの手を取り、同じく立たせた。

 ヘレナよりもやや低い背丈のファルマスが、見上げるようにヘレナの瞳をじっと見つめて。


「なに、別段、大した頼みというわけでもない。すぐにでも終わることだ」


「は、はぁ……?」


「抱きしめたい」


「……は?」


 一瞬、ファルマスが何を言っているのか分からず、戸惑う。

 今まで何度もヘレナの部屋に来ているというのに、口付け以外に何もしてこなかったファルマスからの、突然の言葉。

 そしてファルマスは、そんなヘレナの返事を待つことなく、両手を広げてヘレナを引き寄せた。

 ヘレナの肩口くらいに、ファルマスの顔があるのが分かる。

 突然に抱きしめられたがゆえに何もできず、そしてどうすればいいのか分からずに硬直することしかできなかった。


「あ、あの……? ファルマス、様……?」


「そなたは、良い香りがする」


「そ、そう、でしょうか……?」


 湯浴みをしていて良かった、と最初に思ってしまった。そうでなければ、きっと日中に鍛錬をしたこの体は汗臭いはずだ。アレクシアに感謝である。

 そして、そんなファルマスの言葉に、何と返していいか分からない。

 というか、このようにファルマスに抱きしめられている、というこの状況だけでも、思考を放棄するには十分なのだから。

 胸が高鳴る。

 そして、触れ合っているわけだから、この高鳴りはきっとファルマスにも響いているだろう。

 そう考えると、それだけで頬に熱が走るのが分かった。


「そなたには、守られてばかりだ」


「そんな……」


「そして……男として情けないことに、それを嬉しいと思ってしまう」


 ヘレナを抱きしめるファルマスの腕は、ヘレナの鍛えたそれとはまた異なる、男性を感じさせるもの。

 密着した体から伝わる熱に浮かされてしまいそうで、しかも、耳元での囁きがそれを助長させるのだ。

 だからこそ、ヘレナは動けない。

 ただ人形のように、ファルマスに抱きしめられ続けるだけだ。


「これからも、余はそなたに守ってもらうことになるだろう。皇帝などという立場にある以上、気軽に守る、などと言うわけにもゆかぬ」


「まぁ、それは……」


「だが」


 皇帝であるファルマスは、この帝国における最高権力者だ。

 そして軍人であるヘレナは、ファルマスを守ることこそを至上とする。それがひいては、帝国を守ることに繋がるのだから。

 だからこそ、ファルマスは他者に守られることを当然としても、他者を守ることなどないのだ。

 それは理解できる。だからこそ、そう頷いたのだが。


「ヘレナ。俺は、お前を生涯幸せにすると、誓おう」


「――っ!」


「だから、俺と……ずっと、一緒に、いて欲しい」


 それは。

 それはまさか。


 そうヘレナが、ファルマスの言葉を反芻し、混乱している間に。

 ゆっくりと、その唇が、重なった。

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