第171話 とあるブラコンの話
夕刻になり、ヘレナは部屋に戻った。
昨日はファルマスは来なかったが、今夜は来るかもしれない。一応そう考えて、鍛錬の監視を早めに切り上げて戻ったのだ。
勿論ながら、アレクシアによる強制的湯浴みと着替えはあったが、もう慣れたものである。
そして夕餉を食べて、ファルマス待ちの現在に至る。
「陛下は、今夜来るだろうか」
「さて……どうなのでしょうか。陛下もお忙しい身ですので」
「そう、だな……」
一応、昨夜来なかった理由も気になる。もしかすると鍛錬を一緒にしたのが気に食わなかったのだろうか、など、思考は堂々巡りだった。
もしもファルマスが嫌でないならば、また一緒に鍛錬をしたいのだけれど。
さすがに朝に一緒に行うと湯浴みのどうこうもあるため、寝る前にでも。
「まぁいい。アレクシア、何なら座るといい。陛下が来るまで話でもしよう」
「……はぁ。それは別に構わないのですが、何を話すのでしょうか?」
「適当に、だ。そうだな……」
アレクシアは後宮に入ってからずっと、ヘレナを支えてくれる女官だ。誰よりも信用している、とさえ言っていい。アレクシアの方はどうか分からないが、少なくともヘレナは心から信頼している。
だが、かといってアレクシアとの共通の話題、というのもあまりない。
基本的には後宮における過ごし方などを教えてくれていたアレクシアだが、最近はヘレナの斜め上すぎる行動に慣れてしまったのか、あまり口を酸っぱくして言わなくなったのだ。
だからこそ、話題となるとそれほど大したものがない。
「……そういえば、アレクシアとバルトロメイ様は大分年が離れているな」
ふと、そう疑問を口にする。
アレクシアとヘレナの共通の知人で、後宮の外にいるのはバルトロメイくらいのものだ。熊と豚と猪と鬼を合わせて人間で割ればあのような顔になるのではないか、という凶相の持ち主であり、ガングレイヴ帝国どころか大陸全土においても、最強とさえ謳われる武人である。
だが反面、そのような顔をしているがゆえに全く女に縁がなく、浮いた噂など一つも聞いた覚えがない。
ガングレイヴ帝国武の頂点である八大将軍が一人、『青熊将』バルトロメイ・ベルガルザード(四十歳童貞)などと影で言われていたものだ。
だからこそ逆に、フランソワの嫁ぎ先として安心しているのだが。
「はい。まぁ、そうですね。お兄様とは二十歳以上離れています」
「何故それほど離れているんだ?」
「わたしは妾腹ですから。わたしの母は、ベルガルザード子爵家に仕えていた使用人です。言っておりませんでしたっけ?」
「……そういえば、聞いた気はするな」
使用人だったかどうかまでは怪しいが、なんとなく聞いた気はしていた。
そもそもバルトロメイ自身がベルガルザード子爵家の三男だった、という話なのだ。ということは、兄二人はバルトロメイよりも更に上なのだろう。その父が使用人に手を出した……なんとも、お盛んなことである。
きっちりアレクシアにもベルガルザードの名を与え、妾腹でありながら認知した、という点は認めることができるけれど。
「子供の頃は、よく虐められたんですよ」
「そうなのか?」
「わたしの肌は、少し褐色です。母が南方からの移民でして、そちらの遺伝なんです」
「……」
アレクシアの言葉に、答えることができない。
少なからず、人種差別というのは根底に存在しているのだ。軍でも一人肌の色が違う者がいれば、虐めの対象になることも多かった。
自分と異なる、というのは少なからずそういう差別に繋がるのである。
「父……と呼んでいいのかは分かりませんが、ベルガルザード子爵家の当主様も、最初は認知をしないつもりだったのだとか。その際に、お兄様が口添えをしてくれたのだそうです。子爵家の息女として認知しないのであれば、自分の養女にする、と言い出したのだとか」
「ほう」
「さすがに妻もいない身で養女を取る、というのは認められませんし、当主様も泣く泣く認知をしたのだとか。ですので、わたしにとってお兄様は、父のような存在なのです」
「……」
「肌の色が違う、と虐められたことも何度もありました。そのたびに、お兄様が守ってくださいました。お前は決して汚くなどない、世界中の誰もがお前を嫌おうとも、この兄だけはお前を愛そう、と言ってくださいました。お兄様のおかげで、わたしは自信を得ることができたのです」
「……」
饒舌にアレクシアが語るのを、黙って聞く。
とても誇らしそうなのは、それだけバルトロメイのことを慕っているからだろうか。
嬉しそうな顔は、本当に兄であるバルトロメイのことが好きなのだな、とヘレナにすら理解できる。
「子供の頃には、よく遊んでくれました。わたしが物心ついた頃には、もうお兄様は軍に入っておられましたけど」
「そうだな。確か、十三の頃から軍にいたと聞く」
「歴代でも二番目の早さで八大将軍に就任した、と聞きました」
「ああ。バルトロメイ様は確か二十五歳で就任したんだったな。ヴィクトルとて、『赤虎将』に就任したのは二十九のときだった。現在、最も若くして就任した『紫蛇将』アレクサンデル・ロイエンタールが歴代三位で、二十六歳だな」
「参考までに、歴代最速は……」
「『銀狼将』レイラ・カーリー。十八で就任し、二十四で引退した」
「……ヘレナ様のお母様は、どれだけ伝説を残しているんですか」
「数え切れないほどだな」
実の母であり、誇るべき大陸屈指の英雄譚に、ヘレナは少し胸を張る。
ヘレナの母は、それだけ凄い人物だったのだ。それはもう、語りきれないほど。
二十四で引退した際には、当時の皇帝に頭を下げられながらも、「結婚した女は家に入るもんだ、そうだろ?」と言い張ったのだとか。
全くもって、最強の母である。
「まぁ、母さんのことはいい。バルトロメイ様だが……」
「はい」
「アレクシアから見て、その……いい相手はいなかったのか?」
多分いないだろうな、と考えながらそう尋ねる。
少なくとも娼婦ですら近寄らないのだから、普通の女は全く近付かないに決まっている。夜道で出会えば、叫ぶか泣くか逃げるかのどれかだ。ヘレナならば多分斬りかかる。
だが、アレクシアはにこり、と微笑んだ。
「いましたよ」
「へ?」
「昔、結婚の約束をしていた相手がいました」
「そ、そうだったのか!?」
思わぬ事実に、そうヘレナは腰を浮かせる。
そのような相手がいる、という話も聞いたことがなかったし、絶対にいないと思っていたからこそフランソワを推薦したのだ。もしもその相手とドロドロの戦いが繰り広げられるようならば、フランソワに勝てる未来が思い浮かばない。
いざとなれば、実力行使で排除する必要があるかもしれない――そんな物騒な考えが頭を過り。
アレクシアは、笑った。
「大丈夫ですよ、ヘレナ様。心配する必要はありません」
「どういうことだ? そのような相手がいれば、フランソワが……」
「わたしですから」
「…………………………え?」
アレクシアの言葉に、そう一瞬理解できずに目を見開く。
ええと。
バルトロメイには幼い頃から結婚を約束している相手がいた。でも大丈夫。それはアレクシアだから。
どうしよう。
意味が分からない。
「こう……比較対象がないので分からないのですが、わたしとお兄様は仲の良い兄妹でして」
「あ、ああ……うん」
「幼い頃には何度も、『おにいさま、アルをおよめにしてください!』と言ったのですよ」
「…………………………そう、なのか」
理解が追いつかず、そう生返事を返すことしかできない。
あの化け物親父のどこがいいというのか、さっぱり分からない。分かりたくもない。
いや、それを言うとフランソワも全く意味が分からないのだけれど。
「い、いや、それは……まぁ、子供の戯言のようなものだろう」
「そうですね。まぁ、当時のわたしは本気だったのですけど」
「……まぁ、今は、フランソワがいるからな」
「ええ」
はぁ、とそこで大きく、アレクシアは溜息を吐いた。
どことなく、遠くを見るように。
「安心していたんですけどね……お兄様なら大丈夫、って」
「ええと……?」
「いえ、何でもありません。ただ、法律上腹違いの兄妹がどうすれば結婚できるのか真剣に調べていた程度には、本気だったんですよ」
「……」
何と言っていいか全く分からない。
だが、一つ分かったこと。
アレクシアは、とんでもないブラコンだった。
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