第156話 クラリッサ強化作戦 前

 牛肉は残っておらず、ヘレナは絶望に膝をついた。


 まぁ、豚肉と鶏肉は残っていたので、一応そちらで腹を満たして何気に満足はしているけれど。ひとまずこれからお茶会をするのだ、と言っていたマリエルたちに別れを告げ、ヘレナは部屋に戻った。

 これからマリエル、シャルロッテ、フランソワの三人はお茶会だ。そしてアンジェリカはこれから教育を受ける時間だろう。今日もまた礼節の教師とやらを怒らせるのだろうか。

 そして、本来いつもならば午後のお茶会に参加しているはずのクラリッサは、今ヘレナの前に座っている。その後ろには、侍女のボナンザを控えさせて。

 勿論、ヘレナが呼び出したからだ。

 彼女の、これからを決めるために。


「あ、あの、ヘレナ様……」


「どうした?」


 だが、最初そのようにクラリッサが言葉を発した。

 まだ何も用件については言っていないのだが、先に確認しておきたいことでもあるのだろうか。

 クラリッサは、どことなく目を泳がせながら。


「あの……え、エカテリーナを……明日から鍛えられるんですか?」


「む……?」


 そういえば、クラリッサの様子は随分おかしかった。

 エカテリーナから視線を避けるかのように、まるで自分をいないものであるかのように振舞っていた。

 どのような関係なのだろうか。

 エカテリーナは明日、見学に来るそうだし、本人が希望するのならば鍛えてやるのも吝かではない、と思っていたのだけれど。


「……クラリッサは、エカテリーナ嬢と何か関係があるのか?」


「そ、それは……」


 クラリッサが言い淀む。

 話したくない、というならば無理に聞き出しはしないが――。


「い、いえ……関係というか……まぁ、その……幼馴染、です」


「ほう」


「エカテリーナの家……スネイク家は、私の実家でもありますアーネマン家と、それなりに親交がありましたので……」


 顔を俯けながら、そう語るクラリッサ。

 幼馴染というならば、もう少し仲良くしていてもいいのではなかろうか。だが、クラリッサにフランソワ以外の友人がいた、という話をこれまで聞いたことはない。

 どういうことなのだろうか。


「仲良くはないのか?」


「エカテリーナは……きっと、そうは感じていないと思います。私が、一方的に距離をとっているだけで」


「ふむ……?」


 相性が悪いのだろうか。

 マイペース、という点ではフランソワの方が余程マイペースだと思うのだけれど。

 だが、クラリッサは首を振る。


「一方的に、嫉妬しているだけです」


「どういうことだ?」


「エカテリーナは……天才ですから」


「……?」


 クラリッサの言葉に、眉を寄せた。

 クラリッサもエカテリーナも、同じ伯爵家の令嬢、という点では変わりない。そして親交があった家だというならば、仲が良くて当然だ。だというのに、嫉妬をしているという。

 別段、クラリッサの顔立ちが整っていないわけではない。むしろ可愛らしい方だろう。エカテリーナも見目麗しいが、クラリッサとて負けていないのだ。


「私が、エカテリーナに勝てる分野は、何もありません」


「そうなのか?」


「昔から、算術でも語法でも何でも、勝てたことが一度もないんです。いつも言われていました。エカテリーナちゃんはあんなに凄いのに、どうしてあなたはダメなの、と……私も、努力はしていたのですが……」


「……」


 なるほど、と大きくヘレナは溜息を吐く。

 親交のある家だからゆえに、幼い頃から比較されてきた、ということか。それゆえに苦手意識を持ってしまった、ということだろう。

 そしてクラリッサがそんな気持ちを抱えている、とエカテリーナが知っているかは分からない。もしも知らなければ、エカテリーナにしてみればクラリッサは幼い頃から知っている友人だろうし。

 思っていたよりも、厄介な案件だった。


「だから……怖いんです。エカテリーナは、明日、見学に来るって言っていましたし……あの子が本気で戦いに取り組んだら……私なんか、すぐに抜かれてしまうんじゃないか、って……」


「ふむ……」


 嫉妬心、ということだろう。

 自分の今取り組んでいる分野を、後から来て追い越されていい気持ちがしないのは当然だ。

 別段、鍛えてやってもいいだろう、くらいだったのだが、少し考えなければならないかもしれない。


「……そうだな。明日からクラリッサは午前の鍛錬に参加しなくていい」


「えっ……!」


 ヘレナの言葉に、クラリッサが表情を翳らせる。

 だが、これが一番だろう。恐らくエカテリーナを鍛えることになったとしても、四人と一緒にだ。

 そしてクラリッサをヘレナが徹底的に鍛え、例えエカテリーナがどれほどの天才だったとしても、追いつけないほどの高みにやればいいのだ。

 そのためにも、クラリッサの成長が少なからず完成するまで、見せない。


「午前は、私の特別メニューを行ってもらおう。そちらは別に紙で用意しておく。そして、私は午前は四人を見てやらねばならないから、一人で行うことになる」


「そ、それは……?」


「基本的な体力訓練だ。さぼるのは自由だが、さぼればその分だけ成長が遅くなる。それを考えたうえで訓練に臨み、午後からは私が見てやろう。仮にエカテリーナ嬢を午前に鍛えるとしても、そこにクラリッサは参加せず、私が直接指導を行うことにする」


「は、はいっ!」


「いい返事だ。では、ついてこい」


 クラリッサの返事に笑みを浮かべ、ヘレナは立ち上がる。

 既にイザベルから、ファルマスの用意してくれたという鍛錬の部屋については場所を聞いてあるのだ。そして、そのような鍛錬の部屋がある、ということを知っているのは現状、ファルマスとヘレナ、イザベルだけである。アレクシアでさえ場所を知らなかったのだ。

 そして、クラリッサにはその場所を案内する。

 これで、午前の鍛錬部屋はクラリッサ専用になるはずだ。午後からはヘレナも指導しながら使うけれど。

 場所は、以前マリエルと共に茶会を行った『芍薬の間』の近くになる。

 以前に聞いた話だが、『芍薬の間』『牡丹の間』『百合の間』という三つの茶会を行うための部屋があるのだ。そして『芍薬の間』は『星天姫』マリエルが主に茶会を行う場所であり、『牡丹の間』は『月天姫』シャルロッテが主に茶会を行う場所である。

 そして『百合の間』は三天姫による茶会を禁じられており、基本的には九人に属する者が申請を行って使用をされるのだという。そういった特殊性もあって、『百合の間』はほとんど使われていないのだ。

 だからこそ、ファルマスが用意してくれた鍛錬用の道具を一斉に入れているのが、『百合の間』なのである。

 当然ながら中には誰もいないが、一応軽くノックしてから、ヘレナは扉を開いた。


「おぉ……」


 望んだのはヘレナだが、用意してくれたファルマスに感謝を述べたくなるほど、それは見事なものだった。

 広さはヘレナの部屋の二倍ほどであり、本来茶会に使われていたのであろうテーブルは撤去されている。代わりに並べられているのは三本のベンチである。

 壁にはダンベルが幾つも飾られ、そしてベンチの近くにはバーベルも用意してある。懸垂を行うためのバーも準備されており、まさしく鍛錬を行うためだけに用意された、と言っても過言ではあるまい。

 そして、そんな部屋の隅に置かれている、全身鎧(フルプレート)。


「クラリッサ、ここだ」


「こ、ここは……いつの間にこんなものを!?」


「私が陛下に望んだのだ。鍛錬を行うための道具が欲しい、とな。このように叶えてくれた」


「そ、そうだったのですか……」


 ヘレナは中に入り、相応に重そうなダンベルを一つ、持ち上げる。

 いい――。

 まさしく鍛錬のためだけに用意された、無骨な見た目。腕に負荷を与えてくれる重さに、痛みすら感じる刺激。持ち上げるだけでも、筋肉にみしみしと刺激が走ってくるのが分かる。

 ヘレナ専用というわけではなく、他の側室が使うことも想定しているのか、ダンベルは軽いものから重いものまで揃えられている。これならば、全くの素人でも体を鍛えることができるだろう。


「クラリッサ」


「は、はいっ!」


「そこに全身鎧(フルプレート)があるだろう?」


「え、あ、はい!」


 部屋の隅に置かれた、ティファニーの用意してくれた全身鎧(フルプレート)。

 ちゃんとサイズは、クラリッサに合っているもののようだ。まぁ、着てみなければ分からない部分はあるが。


「名前をつけてもいいぞ。好いた男の名前でもいい」


「へ……?」


「そうだな……少なくとも一ヶ月だ。そのくらいは付き合うことになる」


「ど、どういう……?」


「決まっているだろう」


 そこに全身鎧(フルプレート)があり、それをクラリッサが装着するのだから、その帰結は一つだ。

 ヘレナはやったことがないが、新兵訓練(ブートキャンプ)の種に応じては、自分の武器に名前をつけさせる儀式がある、とも聞くし。

 つまり、これから付き合う戦友と同じ存在だ、ということ。


「クラリッサは今から一ヶ月、この鎧を着たままで生活をするんだ」


「はいっ!?」


 そう。

 全身鎧(フルプレート)を装着し、かつ筋力を鍛える訓練をし、そして走る。そうすればより強靭な体となり、そして全身鎧(フルプレート)であるがゆえに、その正体は誰にも分からない。走っていても、言葉を発さなければフランソワにすらばれないのだ。


 そんなヘレナの、最高の提案に。

 クラリッサは、血の気の引いた顔で呆然としていた。

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