第143話 ヘレナ様は肉が食べたい
肉が食べたいな。
ふと、ヘレナはそう思った。特に理由はない。強いて言うならば、自分が放置されているからか。
目の前では、絶賛お説教が始まっている。そして、珍しいことにその説教の対象は自分でないし、説教をしているのもアレクシアではないのだ。
ファルマスの前で床に座り、首を垂れているのはアンジェリカである。
「どうしてお前はいつもそうやって考えなしに行動するのだ! 皇族としての自覚をもっと持て! お前の行動一つ一つが、そのままガングレイヴ帝国の評価に繋がるということも分からんのか!」
「ご、ごめんなさい……」
「大体、ヘレナの部屋へやって来て、最初にするのが不意打ちとは何を考えている! ヘレナが捌いたから良かったものを、もしも当たっていればどうするつもりだったのだ! お前は皇后を害した皇族だと生涯言われるかもしれなかったのだぞ!」
「う、ぅ……」
焼くならば、やはり主役となるのは牛の肉だ。働き手の牛ではなく、食用に飼育されたものは脂がしっかりと乗っている。また、赤身も味わいがよく、噛めば噛むほど美味しいのだ。
そして、豚の肉も外せない。しっかりと火を通す必要はあるが、その旨味と凝縮された脂は、食べ応えのある代物だ。焼きたてで脂が垂れているものなど、想像するだけで涎が出る。
そして牛、豚の陰に隠れがちだが、鶏肉も美味い。小さな身であるがゆえに、一羽で様々な食感を楽しむことができるのだ。特に美味しいのは皮であり、パリパリに焼いたものをつまみに酒を飲むのは至福のひと時である。
想像しただけで、何気なくヘレナの喉が鳴った。
熱々の焼きたてを食べたくなってしまう。
「中に俺がいると分かっていなかったのは仕方ないが、もしも俺に当たっていればどうするつもりだった! お前はこのように奸臣に溢れる中、国を背負うことができるとでも言うつもりか!」
「……えぐ」
「泣いたところで誰も助けてはくれぬ! 恥を知れ!」
「うぅっ……」
野性味溢れるが、猪肉も美味い。癖があるために薬味と共に鍋にするのが一般的だが、焼肉も美味しいのだ。特に、野生だからこその純度の高い味わいは、高級な豚にも及ぶものだ。
あとは鹿も美味しい。こちらは味わいとしては淡白な部類だが、それだけ肉を食べているという噛みごたえがあるのだ。新鮮であればレバーを焼いても美味しいのである。
やはり外せないのは蛇の肉だ。身は鶏肉の味によく似ており、そして弾力がある。鱗を剥がなければならない面倒はあるが、鶏と違って身が広いために食べやすいのである。
想像すればするほど、なんだか食べたくなってきた。
とりあえず蛇の肉はあるけれど、残りはない。厨房にでも言えば貰えるだろうか。
いや、それ以前に、焼くための設備もない。直火焼きならば焚火でもすればいいだろうけれど、肉はやはり炭火焼が美味しいのだ。そのためには炭も必要となってしまう。
「現状の皇族の立場を分かっているのかアンジェリカ!」
「そ、それは……」
「ノルドルンドが宮廷を専横し、己の利に繋がる法案ばかりを提示しておるのだ! この状態で皇族に攻撃する要素ができればどうなる! あやつが皇族を廃し、新たな皇帝を擁立すれば国が割れるぞ!」
「うぅ……」
難しい話になってきた。宮廷の関連になると、もうヘレナには理解できない。
というか、そこまでアンジェリカを責める必要があるのだろうか。
しかし、ファルマスが叱らなければならない、と考えているのならば、ヘレナは静観すべきだろう。
どうしようか。
肉の手配はマリエルに任せればいいだろう。だが、設備まで全て任せるというのも気が引ける。
昔、母と共に材料を何も持たずに焼肉を食べるために、山へ向かったことがある。そのときは母レイラが素手で熊と猪と鹿を仕留めてくれたはずだ。解体も全て素手で行っていたのだから、母の凄さがそれだけでよく分かる。さすがに、ヘレナだと刃物を用いなければ解体までは不可能だ。
つまり、レイルノート侯爵家には昔使っていた焼肉用の金網があるはずだ。確かあのときは直火焼きだったから、炭を入れる箱まではなかったと思う。
「まったく……ヘレナよ、お前からも何かを言ってくれ」
「やはり熊なり捕まえてきた方がいいのでしょうか」
「……は?」
「ああ、いえ。何でもありません」
思考が肉に偏りすぎたせいで、ついそう口走ってしまった。
最悪は直火焼きでいいとして、せめて金網くらいは持ってきてくれるようアントンに頼んでみよう。
うん、と頷いて。
「ええと……それで、何ですか?」
「そなたからも、アンジェリカの至らぬ点を言ってやってくれ」
「承知いたしました……アンジェリカ」
「……はい」
「気配をもっと事前に察知し、それから動くべきだ。私が扉を開いた瞬間に投げるのではなく、扉が開く瞬間に目の前に来るようにしていれば、さすがに簡単には叩き落とせない。扉の向こうで動く気配をきっちり察知しろ」
「はい、ヘレナ様!」
「うむ、これからも精進しろ」
「何を言っておるのだ!?」
至極真っ当な意見を述べたはずが、そうヘレナとアンジェリカを交互に見るファルマス。
そして、大きく項垂れて、溜息を吐いた。
何をそこまで嘆く要素があるのだろうか。
「まぁ……そうだな。そういう女だったな、そなたは」
「ええと……?」
「もうよい。余はそろそろ出仕せねばならぬ。アンジェリカ、以後気をつけよ」
「は、はい……」
ファルマスが立ち上がる。
どことなく怒っているように、眉を寄せながら。
「ヘレナよ」
「はい……?」
「話がある。少しだけ、扉の向こうまで出てこい」
「承知いたしました」
「アンジェリカは猛省しろ。出てくるでないぞ」
「は、はい……お兄様」
いつも通り、玄関先まで見送ったのでいいだろう、と思っていたら、そう言われる。
どうやら、相当怒っているようだ。主な理由はアンジェリカなのだろうけれど。
しかし、アンジェリカをあのように鍛えたのは誰でもないヘレナである。
アンジェリカだけを部屋の中に残し、ファルマスと共に部屋の外へと出る。
当然ながらまだ早い時間であるため、周囲に人影はない。もうそろそろアレクシアが出仕してくる頃だろうか。
あ、とそこで思いつく。
炭や炭焼きの道具など、アレクシアに手配してもらってはどうだろうか。後宮の備品にあるかもしれないし。歴代の側室にも一人や二人、焼肉が食べたいと言い出した者くらいいるだろう。
よし、アレクシアがやってきたら聞いてみよう。
すると、そこでヘレナを連れ出したファルマスが振り返り、苦笑した。
「すまなかった、ヘレナ」
「……はい?」
「説教などという、聞き苦しいものを聞かせた。そろそろ、あれにも兄離れしてもらわねば困るからな」
「はぁ……」
大半、肉のことばかり考えて聞いていなかった。特に宮廷のどうこう、については完璧に右から左へ流れていった。
だが、そんなヘレナへファルマスが微笑む。
「何故、連れ出したか分かるか?」
「いえ……」
「あやつには見せれぬ。まだ早い」
くくっ、と意地の悪そうな笑みを浮かべて。
いつも通り、ヘレナの唇に、ちゅ、と口付けた。
「っ!」
はっ、と周囲を見回す。
先程も確認したが、やはり周囲に人影はない。よかった、見られなかった――そう、安堵する。
「また今宵来る。今後は、アンジェリカに朝餉の後に来るよう伝えておいてくれ」
「は、はい……」
何度やっても慣れない、ファルマスからの悪戯な口付け。
あー、もう、と去ってゆくその背中に、小さく舌を出して。
とりあえず首を振って、忘れることにする。
そして焼肉の準備をしよう、とヘレナは部屋の中に戻った。
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