第137話 皇帝陛下の来訪

 イザベルの言葉と共に、ヘレナはアレクシアを伴い、急いで部屋へと戻った。

 いつも、ファルマスがやって来るのは夕餉を終えてからである。このように、昼の日中にやって来ることなど全くなかったのだ。

 何か困った事態なのではないか――そう思ったときに、天啓のように思い浮かんだ。


 ファルマスがヘレナを寵愛する姿勢を見せ、正妃として扱うその理由。

 それは、現在の三正面作戦において、何か不測の事態が発生した場合の抑止力である。

 元々、ヘレナがこのように帝都へ戻り、後宮へ入るきっかけとなったリファールの侵攻。現在は軍部を統括していたガゼット・ガリバルディの戦死により軍を引き、小康状態になっていると聞く。もしかすると、そんなリファールが攻めてきたのかもしれない。

 統率するのは禁軍の弱卒であろうけれど、しかし心が弾む。

 もう一度、戦場へ。

 この鍛えに鍛えた力を見せることができる機会を――。


「ファルマス様!」


「おお、ヘレナ。会いたかったぞ」


 部屋の扉を開き、入る。そこには、まるで自分の部屋、とばかりにソファに腰掛け、寛ぐファルマスの姿があった。

 同様に、その後ろにいつも通りグレーディアが控えている。


 少しだけ、色が黒くなっただろうか、と思った。

 この一月は外に出ていたというし、日差しも強い日が多かった。だからこそ、このように日に焼けているのだろうか。

 もっとも、ファルマスの美しさは少々日に焼けようとも全く衰えることなく、むしろ白面の美男子としての魅力が、快活な雰囲気に変わったように感じる。やはり美形はどうなっても美形ということなのだろう。


「このような昼間に訪れてすまぬな」


「いえ、とんでもございません。ここは陛下の後宮にございます」


「余を一月遠ざけたのはそなたであろうよ」


「う、それは……」


 常套句を返しただけだというのに、そう反撃された。

 確かに、この一月来るな、と言ったのはヘレナである。そう言われてしまうと、全く返す言葉がない。

 だが、そんなヘレナの様子に、ファルマスはくくっ、と笑った。


「冗談だ。まぁ、座るがいい。ここはそなたの部屋であろうよ」


「は、はい……それでは、失礼します」


「ではグレーディア、ご苦労だった。先に戻っておれ」


「は。承知いたしました」


 ファルマスの言葉にグレーディアが頭を下げ、去ってゆく。

 同様にアレクシアも、辞する一言を残し、そのまま扉から出て行った。

 部屋に残るのは当然、ヘレナとファルマスの二人である。


「変わりなかったか?」


「え、ええ……」


 何だろう、これは。

 ヘレナの予想と全く異なる展開に、思わずそう動揺してしまう。

 てっきりリファールが攻めてきたとか、また別に警戒していなかった国との戦端が開いたとか、そういう用件だとばかり思っていた。しかし目の前のファルマスは随分落ち着いており、国家の存亡に関わる危機である、とはとても思えない。


「ファルマス様……何故、このような昼間に?」


「ん? 先程、出張より戻ったばかりだ。そなたにようやく会えると思うと、抑えきれなんだ。政務は明日からでも問題ない。今日はそなたと、ゆるりと語らおうと思ってな」


「そう、でしたか……」


 落胆する気持ちに、思わず表情にも影が差す。

 てっきり戦場で、もう一度戦えると思っていたのに。


「アンジェリカは、そなたに迷惑をかけなかったか?」


「いえ……まぁ」


 迷惑をかけられたかというと、別段そうでもない。

 むしろ、あのくらいの跳ね返りが一人くらいいた方が、新兵訓練はうまく事が運ぶのだ。ある種、アンジェリカのおかげで五人の連携が高まった、とさえ言えるだろう。

 それに加えて、徒手や棒、弓や馬といった適性はすぐに発見できたが、アンジェリカの投擲に関してはなかなか気付けなかった。これも、ヘレナが全員の適性を見るにあたって、視野が狭かったことに起因する。新兵訓練とは訓練を施す者にとっても勉強なのだ、と改めて感じた案件である。


「アンジェリカ姫を含め、五人に訓練を施したのですが……予想以上に、仲良くなっておりました」


「おお、そうか……アンジェリカには、同じ年代の友人がおらぬからな。そのように仲良くなった、というのはありがたい。しかし……五人か?」


「はい」


 そういえば、ファルマスには言っていなかったか。

 そもそもアンジェリカを鍛えて欲しい、とだけ言われ、他の条件は特になかった。だからこそ、マリエル、シャルロッテ、フランソワ、クラリッサも含めての訓練という形にしたのだけれど。

 もしかすると、ファルマスはマンツーマンでヘレナがアンジェリカを鍛えている、と思っていたのだろうか。


「フランソワとクラリッサ、それにマリエルとシャルロッテが一緒に訓練をいたしました」


「……待て、『月天姫』と『星天姫』が、か?」


「はい」


 ファルマスが目を見開き、驚くのが分かった。

 確かにあの二人はあまり仲良くないし、そのように驚くのも仕方ないのかもしれない。一月の訓練を超えた今となっては、口ではなんだかんだ言うものの、二人の間に確執はなくなったように思えるものだが。

 だが、そんなヘレナの言葉に、ファルマスはううん、と顎に手をやる。


「……そなたの言によれば、『星天姫』が共に訓練を受ける、というのは分かる。だが……何故、『月天姫』が受けているのだ?」


「それは……」


 シャルロッテを訓練に含めた理由は、特にない。

 ただ、シャルロッテが何故か棒を持って教えを乞いに来たために、ついでに新兵訓練に参加させよう、とヘレナが勝手に決めただけだ。そこに彼女の意思はない。

 だというのに一月の厳しい訓練に、シャルロッテは耐えたのだ。

 思えば、確かに妙である。


「ええと……シャルロッテは、訓練を行う少し前から……その、私に棒術を教えてほしい、と言い出していたので」


「……それは、何故だ?」


「いえ、その理由までは存じ上げませんが……」


 ヘレナにしてみれば、やる気があるならば鍛えてやる、という程度の認識だった。

 やる気の理由など、別に関係ないのだ。本人にやる気さえあるのであれば。

 だが、そんなヘレナの言葉に、ファルマスは大きく息を吐く。


「そなたは、優しいな」


「へ?」


「いや、余も薄々気付いてはいたが……何故それほど気落ちしているのかと、そう疑問には思っていた。しかし、『月天姫』か」


「……ええと」


「確かに、余も言い過ぎたかもしれぬ。そなたから見る『月天姫』は、良い生徒だったのであろう。余にしてみれば、『月天姫』はかのノルドルンドの縁戚である、という認識しかない。そなたにしてみれば、余が血脈ゆえに疑うことは、心苦しいものであっただろう……すまなかった」


「……」


 何を言っているのか分からない。

 単純に気落ちしているのは、戦場にもう一度行けると思っていたのに全くその気配がなかったからだ。それが、何故ヘレナが優しい、ということに繋がるのだろう。

 ファルマスとの語らいは、こんな風にヘレナに分からない話になってしまう時間が多々あるのだ。

 とはいえ、やはり『分からんから説明しろ』とは言えない。

 ひとまずヘレナのことを何か褒めてくれているみたいなので、そのままにしておくことにした。


「しかし、そなたの手腕には驚いたな」


「私の……手腕、ですか?」


「そなたが後宮に入り、まだ二月といったところだ。気付けば、余の知らぬうちに『月天姫』と『星天姫』を陥落させておる。歴史を紐解いても、三天姫同士で仲良くしていた、などという例はほとんどないというのにな」


「別段、大したことはしていないつもりなのですが……」


「全く、いつもながら奥ゆかしいな。だが、そういった部分も含めてのそなたなのであろう」


「……」


 ファルマスにとって、ヘレナはどれだけの完璧超人なのだろう。

 本当に何もしておらず、気付けばなんだかシャルロッテまで参加していただけだというのに、全てがヘレナの手柄になってしまっている。


 ま、いいか。

 残念な頭は、いつも通りに思考を放棄した。


「ヘレナよ」


「はい」


「少し、触れてもよいか?」


「ふ、触れ……?」


「いや、変なところは触らぬ」


 ファルマスはそう言って、ゆっくりと立ち上がり、ヘレナの頬へ触れた。

 しっとりと冷たい掌が、火照った頬に心地よい。

 そんな風にファルマスは、ヘレナの頬を撫でて。


「すまぬな……余は、強がりを言った」


「へ?」


「一月など大したものではないと、そう言ったが……そなたと会えぬ一月、胸が焦がれるようだった。帝都にいたならば、一月は来るなというそなたの言葉を破り、来てしまったかもしれぬ」


「そ、そんな……!」


 ファルマスの言葉に、目を逸らす。

 いつだってこんな風に、ファルマスはヘレナを惑わせるのだ。だけれど、同時にそれが心地よくて堪らない。


「ここへ来るなと……もう言わないでくれ、ヘレナ」


「ファルマス、様……」


 だからこそ、拒めないのだ――その掌も。

 その唇も。

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