第64話 後宮の鍋パ――お誘い 2
「さて、次はフランソワだな」
「はい。このまま向かわれますか?」
「……先触れは出さなくてもいいのか?」
何故か物凄く感激していたマリエルの部屋を辞し、ひとまず部屋に戻るか、と思っていたヘレナは疑問に思い、そう尋ねる。
後宮に入ってからすぐに言われたのは、確か『先触れのない訪問は相手を見下していることと同じ』だったはずだ。それをヘレナに対して口酸っぱく言っていたアレクシアが、先触れに配慮しないというのは些か異常に思える。
だが、アレクシアは首を振る。
「基本的に、先触れは自分より上の立場か同格の相手に対して行うものです。逆にヘレナ様より格が下となる方に対して先触れを出すということは、ヘレナ様がそれだけ高く評価している、という意思表示となります。フランソワ様はヘレナ様と親しくされておりますし、訓練においては弟子という立場ですので、先触れの必要はありません」
「…………………ああ、うん」
とりあえず、フランソワに対しては先触れを出さなくてもいいのだろう、とだけ理解する。それだけ分かっていれば十分だろう。
となれば、わざわざ一旦自室に帰る必要などあるまい。
ひとまず、足をフランソワの部屋へと向ける。
「お部屋の位置は覚えておいでですか?」
「ああ。大抵の場所は一度行けば覚える」
「承知いたしました」
戦場で培ってきたのは、武力ばかりではない。自分の位置を的確に知るためにも、方向音痴であってはならないのだ。だからこそ、ヘレナの頭にはこの後宮における、ある程度の地図が作成されている。
もっとも、行動範囲が狭く、行ったことのない場所が多いため、かなり空白の目立つ地図だが。
暫し歩き、フランソワの部屋へ。
確かここを訪れるのは、茶会以来だろうか。最近は中庭で会ってばかりのため、このように部屋を訪れるというのは新鮮な気分だ。
「失礼いたします」
「はーい」
まず、出てきたのは見たことのない女官だった。
ヘレナにはアレクシアという部屋付きの女官がおり、マリエルとシャルロッテもそれぞれ己の侍女を連れてきているものの、部屋付きの女官が必ず一人はいる。
だが、フランソワの部屋で見るのは初めてだった。
「あら……クレア、ここの部屋付きでしたか」
「アレクシア? え、アレクシアって、確か、今『陽天姫』様の部屋付きじゃ……」
「ええ、そうです」
「言う通り、私の部屋付きだ。フランソワは在室かな?」
「ってええっ!? 『陽天姫』様!?」
初めて出会う女官だというのに、随分と驚かれる。
そういえば、クラリッサと初めて会ったときにも、このような反応をされた。ヘレナは外からどのように思われているのだろう。
まぁ、今更気にしても仕方がないか。
女官――クレアと呼ばれた少女が、すぐに背筋を伸ばして姿勢を改める。
「も、申し訳ありません! 『陽天姫』様!」
「いや、別に何もされてはいないが……」
「ふ、フランソワ様は、ご在室なのですが……その、今は、ご友人の方と……」
「友人ということは、クラリッサか?」
「は、はい!」
「クラリッサならば私の友人でもある。構わないだろう。邪魔をするぞ」
これがクラリッサでないならば、時を改めた方が良かったかもしれない。
だが、フランソワとクラリッサは共に午前中、ヘレナが稽古をつける相手だ。そんな二人の語らいならば、ヘレナが混じったところで問題はないだろう。
と、挙動不審になっている女官を尻目に、入室する。
それと、共に。
倒れているフランソワが、見えた。
「……え」
「もぉ……だから言ってるじゃないの、フラン。無理だって」
「う、う……わ、わたしは! この苦難を乗り越えて! バルトロメイ様に相応しい妻となるのです!」
「いや、無理だってば……何回目よ」
「数など関係ないのです! わたしは! 己を鍛え上げるのです!」
立ち上がるフランソワと、そんなフランソワに呆れるような視線を向けているクラリッサ。
一体、この二人は何をしているのだろう。そう、ヘレナは首を傾げる。
「クラリッサ! 次なのです!」
「いや、だから……あ、あれ……ヘレナ様!?」
そこでようやく、クラリッサがヘレナに気付く。
気配を消していたつもりはないのだが、どうやらそれだけ熱中していたらしい。
「ヘレナ様!?」
「ようこそいらっしゃいました、ヘレナ様。いいところに来てくれました。フランに、無茶をするのはやめるよう言ってください……」
「どういうことだ?」
状況が読めず、そう尋ねる。
すると、クラリッサが肩をすくめながら、呆れるように言った。
「フランソワが、どうも新しい境地に達しようとしているみたいで……」
「ヘレナ様! どうかご指導ください! フランは! よりバルトロメイ様に近付きたいのです!」
「何をしているんだ?」
「それが……心の眼を鍛える、とやらで……」
「む?」
思わぬ答えに、ヘレナは眉を上げる。
そんなヘレナに、クラリッサは更に続けた。
「なんでも、一流の武人であるならば、目を閉じていても攻撃を察することができる、とか……。ですので、目を瞑っているフランが、私に殴りかかってくるように、と言われまして……」
「これで! 心眼が鍛えられるはずなのです!」
「……お察しの通り、私の攻撃を全部喰らってそのたびに倒れています」
「数を重ねれば! わたしにもできるようになるのです!」
「ふむ」
フランソワの熱意と、相反するような呆れているクラリッサ。
随分と、また変わったことをしているものだ。
「是非、ヘレナ様からも言ってください。例え一流の武人であっても、そんな心の眼で攻撃を察することなんてできませんよね」
「できるが」
「できるのですか!?」
ヘレナの答えに、随分と驚くクラリッサ。
しかしヘレナは首を傾げる。心眼など、別段武の境地というわけでもない。それなりに戦える者ならば習得している程度のものだ。
だが、フランソワが心眼を習得するには、まだまだ経験が足りなさすぎるだろう。
「ヘレナ様! 是非! ご教授ください!」
「いいだろう」
「いいのですか!?」
まだまだ経験は足りないが、それでも基本を知ることは大事だろう。心眼は実際に心で見ているわけでなく、技術の延長だ。実践はできずとも、理論を知ることくらいはいいだろう。
だが、それでも随分と驚くクラリッサ。一体何がそれほど不思議なのだろうか。
「言葉で語るよりも、見た方が早いだろう。ではフランソワ、私に殴りかかってくるがいい」
ヘレナは目を閉じる。
彼女の持つ『領域』は、視覚という五感の一つを閉じても、十分な情報量をそこに齎すのだ。僅かな物音を耳で察知し、空気の動きを肌で察知し、気配を研ぎ澄まされた第六感で察知する。その結果こそが『領域』なのだ。
感覚を澄ませて、部屋の中での動きを察知する。
目の前で、フランソワが構えるのが分かった。
恐る恐る、といった様子で近付いてくるフランソワの気配と、ゆっくり振り上げられた右腕。
それを、固唾を飲みながら見守るクラリッサ。
呆れたように肩をすくめるアレクシア。
何が起こっているのか分かっておらず、首を傾げているクレア。
そんな、部屋の中での全てを把握。
そしてヘレナは、その近付いてくる右腕を。
その意志がヘレナに向いたその瞬間に、叩き落とした。
「はぅっ!?」
「遅すぎるぞ、フランソワ」
ヘレナは目を開く。
そこには当然のように、攻撃を叩き落とされ、腰を抜かしているフランソワが座っていた。
「す、すごいです!」
「心眼とは、見切りの極意だ。これを身につけることで、視界を奪われても戦うことができるし、死角からの攻撃にも対処できる」
「ど、どのようにすれば! 身につけることができるのですか!」
「己の感覚をまず磨くのだ。触れる空気の動きで、相手の動きを察知する。僅かな音のみを拾い、相手の位置を予測する。あとは、どのように敵が動くのかを予想するのだ。この予想が確実に当たる、これを心眼と呼ぶ」
「ありがとうございます! では! わたしはどのような修行を行えば良いのでしょうか!」
「フランソワには経験が足りない。今はまだ、基礎を磨く段階だ。体力をつけ、技を身につけ、そして戦いを重ねた後の段階として、武の境地は存在する。私ですら達していない武の高みは、それだけ遥かな天上に存在するのだ。一朝一夕で身につくものではない、ということを知り、基本をまず修得することだ」
「はい! ヘレナ様!」
座り込んでいるフランソワへ、右手を差し出す。
フランソワはそんなヘレナの右手を取り、そして立ち上がった。
「これからも! ご指導よろしくお願いします!」
「うむ。共に武の高みを目指そうではないか」
「はい! ヘレナ様!」
そんな、改めて師弟の誓いを結ぶ二人。
場所さえ後宮でなければ、それは感動的な場面だろう。
しかしクラリッサは小さく嘆息し、アレクシアは死んだ眼差しで、クレアは訳も分からず首を傾げながら。
「あのさ、アレクシア……あなた、何者に仕えてんの?」
「何故後宮におられるのか全く分からない武人に仕えております」
「目指す先が色々違うわよ……フラン」
三人の常識人から見れば、この光景は。
人間を遥かに超えた武姫と、人間を辞めようとしている弟子なのだから。
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